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東海アマ氏の「近未来予測」

東海アマ氏の最新記事の後半で、あまりにアホな内容なので、逆に保存する価値がありそうだ。
まあ、アマ氏が来年(と言うより近いうちに)死ぬというのは、アマ氏の健康状態から簡単に予測できることで、別に予知能力の問題ではないだろうし、来年日本で大量死があるのは、日中戦争に日本政府が突き進んでいるのとワクチン後遺症から簡単に予測できることだ。つまり、単に赤か白のどちらに賭けるかというギャンブルで、それに勝ったら、「予言者」たちはカネ儲けができるだけの話である。

(以下引用)

 ところで、私には、子供の頃からなぜか未来が朧気に見える不思議な能力があった。
 例えば、私が中津川に移住するときも、1年も前から移住してコンテナハウスに住むビジョンが見えていた。
 また2011年、大震災の前に、私は凍結路でスリップ事故を起こすビジョンも鮮明に見えて、細部までまったく同じ展開になった。

 さらに、私は、目の前にいる人が何も話さなくとも、考えていることが言葉として聞こえるという特技もあった。
 私が未来を予知するとき、多くは、未来に起きる感情の変化を先取り体験するというものだった。
 たぶん、私の心のどこかが「アガステアの葉」とつながっているのだと思った。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%91%89

 ただし、一度、私が青いバイクに乗って、後ろから幅寄せしてきた大型トラックに巻き込まれて後輪で潰される鮮明なビジョンが見えたのだが、失った自動二輪免許を再取得していたときだったので、ただちに中断したところ、たくさんの予知のうち、これだけが実現しなかった。覚悟していたのだが……。
 実現しない「予知」もあるのだと思った。

 2011年大震災の前、私は友人と福島の横向温泉や新野地温泉で過ごしていたのだが、自炊棟で凍結にスリップして尾骶骨を骨折したりして、散々な目に遭った。思えば、これが大震災の予知だったような気がする。
 そして、帰宅して凍結路でスリップ事故を起こし、永久に治らない鎖骨骨折を起こしたのが2月中旬だった。
 私は大震災の前兆である「清姫の帯」を病院で見た。

 巨大震災のような事態は、私のような、わずかな予知能力しか持たない者にも甚大な前兆体験を課すのだと思った。
 このとき、震災前に関東東北を旅行したとき、私は人々の表情に違和感を覚えていた。
 なんとなく影の薄い人たちが大勢歩いていたのだ。
 未来のない人々は、社会に対峙する気迫が感じられないのだ。

 私にもはっきりと語ることはできないが、これから死を迎えることを予感した人々には独特の雰囲気がある。
 以下、それに触れたサイトを紹介してみよう。

 死期が近い人の特徴とは? スピリチュアルなサインを解説 2023.10.12
 https://woman.mynavi.jp/article/231012-11/

 上のリンクに書かれている要素を挙げてみよう。
 
(1)自分の物や人間関係を整理し始める
 (2)疎遠になっていた人に連絡をする
 (3)優しくなる
 (4)独り言が多くなる
 (5)手のひらを見つめるようになる

 なるほどと納得できるものがある。私も昨年末から自分のゴミ屋敷の整理を始めた。
 そして人間関係に区切りをつけ、孤独になるようにした。
 これは私だけなのかもしれないが、昨年から、滅多矢鱈に過去を激しく悔いるようになっている。幼い頃から何十年もだ。自分の愚行が恥ずかしくてたまらない。
 「優しくなった」のも、事実かも知れない。

 だが、相変わらず誹謗中傷を繰り返すクズが書き込んでくるので怒りは収まらない。20年前に何千回もの嫌がらせを行った豊郷町の山本というクズ障害者も、再び嫌がらせの電話を私に対して再開している。
 たぶん、こいつらもこの世から消されるのだと私は予感している。
 そして今、私は、大震災前と同じように、街中と出会う人に違和感を感じ始めている。
 もしかしたら、再び大勢の人がこの世から消えてしまうような予感がしているのだ。

 実は、ネット界隈では、今年や来年の大量死を予言するコンテンツが激増している。
 多くが、来年、日本の人口の7割以上が死んでしまうと予言しているのだ。なかには、信頼性が高いと評判の、たつき諒の予言もある。
 https://bunshun.jp/articles/-/58981

 https://www.youtube.com/watch?v=TvlUfG8oEfk&ab_channel=%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E6%8E%A2%E6%B1%82%E6%A9%9F%E9%96%A2

 たつき諒の予言は、2024年7月に、フィリピン南沖で巨大な地殻変動が起きて、日本列島に高さ300メートルの大津波が押し寄せ、半数以上が死ぬ。
 その後遺症で生き残った人々も、次々に斃れてゆく。
 これについては、巨大隕石が落ちるという説もあるが、NASAは承認していないようだ。

 私は海抜400mに住んでいるので、津波は免れるかもしれないが、その後の大気汚染やインフラ崩壊などを生き延びるのは不可能だと考えている。
 中国の黄砂でさえ死にそうになっているのに、津波の巻き上げた粉塵に、肺線維症の私が耐える自信はまるでない。

 まあ、日本人の大半が死んでしまうという予言は、出口王仁三郎や日月神示が繰り返し語っていることが有名だ。いずれも3分という表現が共通している。
 
 出口王仁三郎の死の直前(1947年)、吉岡温泉で話された最後の予言について 2022年09月15日
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5967194.html

 また、プーチンが再び核使用を恫喝に使用しはじめた。
  プーチン大統領 “国家存続の危機なら核兵器使用を辞さず” 2024年3月14日 NHK
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240314/k10014389961000.html

 私はプーチンが、やがて暗殺され、その後に、はるかに残酷な国家主義者がプーチンの大ロシア主義による侵略を受け継ぐと考えてきた。彼が戦略核を使用するのだと。
 それは習近平も同じだ。習も暗殺を免れないだろうが、その後に出てくる新たな指導者は、習に輪をかけた強硬な侵略主義者だろうと予想している。

 プーチンは、自らが暗殺されたとき、自動的に西側諸国に報復する「死の手」というシステムを配備しているといわれる。
 
 理由の如何を問わず、プーチンの死とともに、日本を含む「敵国」に1600発の核ミサイルが発射される「死の手システム」 2022年03月09日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5902117.html

 これはサルマトという水爆兵器で、数メガトンの水爆ミサイルが10本も組み合わさったミサイルが、着弾地から四方八方に再発射される。トータルで40メガトンという地球上最悪の核兵器である。
 もちろん狙いは日本列島である。

 実は2022年2月のウクライナ軍事侵攻の、最初の標的は実は日本だったのだ。安倍晋三がプーチンに無条件で一兆円を献上したので、それで日本を破壊する予定らしかったが、ウクライナが優先された。
 
〝日本攻撃〟プーチン大統領が計画との衝撃情報 ロシア諜報機関の内通者から発覚 信憑性は「背後にいる米国を見据えていたのでは」畔蒜氏 2022.12/8
  https://www.zakzak.co.jp/article/20221208-ZPPHLUHFKZNNTBJZJK2S2F77HU/

 ロシアがプーチン死後も、日本に対する敵対侵略計画を諦めないことは確実で、むしろプーチン死後に激化すると考えるべきだ。
 このとき、日本でたつき諒が予言したような凄まじい災厄に見舞われれば、それを奇貨として、ロシアや中国が日本を軍事侵攻する可能性が小さくない。

 そんなわけで、私自身も2025年の死を予告され、そして大勢の、それも数千万とか億の単位の人々が、2025年に死ぬ運命であるとするなら、今、街を歩いている人たちの表情に、大きな違和感を感じるのは当然なことだ。

 上の方の「死ぬ人の特徴」を見ていると、死ぬ運命を持った人は、なんとなく影が薄くなり、そして優しくなる。
 生きているうちに、何か残しておきたい、自分の軌跡を整理したいとか考えるわけだ。
 みんな、多かれ少なかれ予知能力を持っているからだ。

 あなたは、もしかして今、優しくなっていないか?

 

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歴史教育は学習者にとっては謎だらけ

学校で習う歴史は、出来事だけが書かれていて、その「意味」はまったく書かれていない。まあ、数学や科学同様の、いや、それ以上の暗記科目である。ただ、事実そのものの面白さがあるので、理系科目ほど不人気教科ではないだけだろう。(もちろん、理系好きもいるが。)

で、市民図書館から借りてきた、子供向けの世界史の本(漫画のような挿絵入り)を読んで、私が長い間意味を理解しかねていた、ナポレオンのエジプト遠征の意味が分かり、ついでに、ナポレオンが「革命の簒奪者」であることを明快に意味するブリュメール18日のクーデターのことも初めて知った。
もうひとつ、ナポレオンの諸国との戦争では、彼が「革命の守護神」と思われていたため、各国の民衆から食糧などの支援があり、そのため軍隊の荷物が少なくて済んだために、彼の電撃的進軍が可能だった、という、「理系的」な理解が可能になったのが、この読書の功徳だった。子供向けの「学習本」というのは、大人にこそ有益なようだ。
ただし、歴史的人物の美化、英雄化が多く、また、米大陸での白人によるインディアン虐殺と略奪などにはまったく触れていないのは、実は米政府による日本統治の厳しい検閲が裏にあったのだと思う。

ナポレオンのエジプト遠征とは、要は、イギリスとの海戦を避けた、ナポレオン自身による「楽な戦争」の選択だったということだ。当時のエジプトは、マルムーク(戦争奴隷)の支配する、烏合の衆地方政府、軍隊だったわけである。奴隷というのは上との戦争(反乱)では凄い力を見せるが、横(他国)との戦争では、「戦争の意味がない(国が滅びても、それ以前の奴隷状態に戻るだけだ)」から、弱いのである。楽な戦争だと分かっていたから、学者などをたくさん引き連れての遊覧旅行でもあったわけだ。だから、フランス国内の情勢が怪しくなると、エジプトを放り投げて少数だけで帰国し、ブリュメール18日のクーデターで国を奪ったわけだ。

ついでに言うと、ロゼッタストーンには、実は三か国語(三種類の文字)で同じ文章が書かれてあるらしく、そのひとつであるギリシャ語が読めれば、他の象形文字などを解読する大きな手掛かりになったわけで、ロゼッタストーン解読は、さほどの偉業でもないわけである。

文末が「わけだ、わけだ」だらけだが、解けた謎が多いので、そうなったわけである。

念のために言えば、私はナポレオンの「ナポレオン法典」編纂事業は人類に対する大きな貢献だと思っているし、彼が諸国に対してフランスを防衛した戦争での軍人としての能力と貢献は評価している。しかし、彼が自分自身を守り、その権力を高めるためにやった後半生の愚劣な戦争はまったく彼の価値を下げるものだと思う。つまり、戦争マニアの彼は、ギャンブルの辞め時を知らなかったのである。もっとも、「戦争は民主主義国家では遂行困難である」というのが戦争の基本定理だろう。戦争で勝利する国は「一時的独裁国家(全体主義国家)」になる必要があるのである。

これもついでに書いておく。「簒奪」は普通の国語辞書には出てこない。歴史学特有語と言うべきだろう。私の言う「革命の簒奪者」とは、共和国指導者の地位の簒奪者の意味である。

簒奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。 あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。 ないしそれを批判的に表現した語。 本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。


(追記)「暗黒事件」(岩波文庫 水野亮訳 上巻48P)

「権利といふことになれば、」と、公証人のグレヴァンはいつた。「ブールボン王朝の方は、ボナパルトが霧月18日に共和国に対して陰謀を企てる権利を持ってゐた以上に、ボナパルトに対する不穏計画を立てたり進めたり実行したりする権利があるね。ボナパルトは共和国を母として生まれた子供のくせに母親を暗殺したのだし、ブールボン王家の方はもとゐた家に戻りたいといふ、ただそれだけの話なんだから」

(以下引用)

ブリュメール18日のクーデタ

1799年、ナポレオンが総裁政府から実権を奪ったクーデタ。一般にこれによってフランス革命は終わりを告げたとされる。

 1799年11月、ナポレオンが決行した総裁政府を打倒したクーデター(政変)。ナポレオンは統領政府の第一統領となり、独裁権力樹立の第一歩となり、同時にこれによってフランス革命は終わったとされる。ブリュメールとは革命暦の霧月のことで、ブリュメール18日は現行暦では11月9日に当たる。
 先月にエジプト遠征から急きょ帰ったナポレオンは、総裁の一人シェイエス、警察大臣フーシェとクーデタを計画、元老議会でアナーキストの蜂起計画をでっち上げて防衛のために両院をサンクルーに移す事を提案、認めさせる。10日、軍隊の駐屯するサンクルーのオランジェリで五百人議会開催、議長はナポレオンの弟リュシアン。「独裁者を倒せ!」という議員の怒号に対し、兵士を議場に動員、議会を解散させ、臨時の三人の統領政府(執政政府)を樹立、憲法改正の審議入りを宣言した。三人の統領とはナポレオン、シェイエス、ロジェ=デュコ。こうして、民衆の圧力に依って体制が替わるという「革命」は終わり、軍事クーデタで政体が変更される事となった。

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高雅な風景と俗な思索

昨日と今日の朝(未明)の散歩は、わりと暖かで風も無かったので、街路を通って海岸道路に出るコースを歩いたのだが、夜明けの海はやはりきれいである。この風景を見られない人が気の毒だ。
だが、街路を歩くコースだと、なぜか想念があまり高尚なというか、哲学的あるいは文学的なもののにならない。これは、周りの風景が家々だからかもしれない。今朝の散歩でも、BGMとしては頭の中で「椰子の実」の歌詞が延々と流れていたが、それ以上の発展性が無い。(なぜ「椰子の実」かというと、海岸に出ることが決まっていたからだろう。椰子の実は、遥かな南の島から長い旅を経て伊良子崎かどこかの海岸に流れ寄るのである。)

で、散歩の帰り道はこの海沿いの田舎町の街路や家々の間の畑や草っ原の傍を通るのだが、この町は空き地が多い。根が吝嗇な私は、そういう、「利用されていない」土地や居住放棄家屋を見ると、「勿体ないなあ」と思うのが常だ。まあ、金持ちだから平気で土地や家を放っているのだろうから、他人がどうこういう立場ではないが、私が資産家なら、この町のそういう土地をすべて買っておく。何しろ、最高の観光環境・居住環境にある土地なのだから、いずれ値上がりするのは確かだし、小金持ちなら自分自身の隠居地に最適だ。まあ、2000万円もあれば、土地と家を買って整備リフォームし、残りのカネで死ぬまで優雅に(ただし、贅沢なしだが)暮らせるのではないか。
その計算もしたのだが、私は土地の相場を知らないので、ここには書かない。ただ、最近は100万円で、十分に快適に暮らせるプレハブハウスがあるようだから、それを2軒買って、一軒は書斎兼応接間兼倉庫兼必要時の宿泊所、あるいは学生相手の安い貸間にするのもいいのではないか。

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子供の読書、大人の読書

私が市民図書館から借りて来る本の中には、子供のころ読んだ本も含まれたりする。つまり、子供の頭では理解できなかった部分が、大人(まあ、年寄りだが)の今なら理解できることもあるからだ。あるいは、子供のころには何とも思わなかった部分を面白く思うこともある。つまり、名作文学は、子供の本も含め、一生、何度も読み返す価値があるというわけだ。

興味の無い人には何とも思われないことを面白く感じることもある。たとえば、R・L・スチーブンソンの「宝島」の創作が、実は一枚の絵から始まったという話なども面白い。子供がよく冒険物語の地図を書いて遊ぶ、あれである。スチーブンソンの再婚した相手の連れ子と一緒に遊び半分で描いた、宝島の地図を見ているうちに、物語がどんどんできていったという。その地図で見ると、縦6マイル、横3マイルくらいの大きさの小島で、南の湾は「骸骨島」という島を囲んでいる。問題は、日本の子供には、このマイルという単位がイメージできないことだろう。
それよりも大きな発見が私にはあり、それは「タール」についての注釈である。こう書いてある。「タールは、石炭、木材などを乾留してつくる黒色の液体で、船の塗装に用いられる」
まあ、子供には語釈など読まない者が多いだろうし、これを読んでも何とも思わないだろう。しかし、あなた、大人のあなたは「乾留」とはどういうものか知っているか? 私は知っているような気もしたが、念のために調べた。すると、例の便利な「百科語辞典」には、「固体有機物を、空気を遮断して加熱し、分解する操作。石炭から石炭ガスやアンモニア、タール、コークスなどを得ること」と説明している。さらに「コークス」を調べると、「石炭を高温で乾留して揮発力を除いた灰黒色、多孔質の固体。発熱量が大きく燃料として重要」云々とある。これでかなり利口になった気がするというか、知識が増えた(石炭が揮発性があるとは初めて知った)のが嬉しいが、そこで気が付いたのが、「コールタール」とは、「コール」が石炭の意味の英語だから、「石炭由来のタール」ということだろう、ということだ。つまり、最初の「石炭、木材を乾留して」の説明にあるように、木材由来のタールもあるから、わざわざタールの種類を分けたのだろう。これで、「コールタール」という、頭の中に何十年も眠っていた、自分でも気づかない謎がひとつ解決されたわけである。


また、たとえば、私は「ラストモヒカン(モヒカン族の最後)」の小説をこの前、やはり児童図書のコーナーで見つけて借りて読んだのだが、その作者フェニモア・クーパーへの言及がスチーブンソンの「宝島」の序文の中にあり、英文学、特に児童文学におけるクーパーの存在感の大きさを再確認したのだが、そういうのも、「大人としての読書」のメリットだろう。英語圏外の子供では「クーパーって誰?」としかならないと思う。ちなみに、「ラストモヒカン」は、プーシキンの「大尉の娘」と似た雰囲気のある(状況が似ている)、面白い冒険小説である。ユーモア性やキャラの造形はプーシキンの方がかなり上だが。「大尉の娘」の雰囲気はジョン・フォードの「黄色いリボン」あたりに近いか。案外、ジョン・フォードは「大尉の娘」の西部劇への換骨奪胎をしたのかもしれない。

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思いがけない「日常の謎」

北村薫と言えば「日常の謎」、まあ、そういう言い方をしているかどうかは知らないが、日常生活の中で遭遇した些細な謎を作品の中心にした推理小説の代表的作家だが、その北村薫の「中野のお父さん」という、わりと新しいシリーズらしき作品の一篇を読んでいたら、作者が謎にしたわけでもなさそうな部分で、奇妙な謎に出くわしてしまった。
作中の主人公である若い女性編集者(美希)とその同僚女性(ゆかり)の服装を描写した部分で、こう書かれている。

ゆかりは冷房対策のカーディガンを脱ぎ、いかにも編集者らしい大きなバッグにしまう。下はネイビーのワンピースだ。美希もジャケットを脱いで手に持った。こちらの下は黒のチュニック。








さて、どこが謎かと言うと、これは私が女性のファッションに無知なだけかとも思うのだが、「ネイビーのワンピース」というのが謎なのである。
私の世代だと、「ブルー、ネイビーブルー、私の彼は~♪」という歌を思い出すから、「ネイビーブルー」なら服に関係がありそうだと思うのだが、ここでは「ネイビー」と書かれている。それなら「海軍」にしかならないのではないか。まさか「海軍のワンピース」ではあるまい。今どき、海軍にも女性兵士がいるのかもしれないが、「ワンピース」は着ないだろう。すると、「ネイビーのワンピース」とは何だろうか。あるいは、「ネイビー」というブランドでもあるのか。
まあ、「チュニック」も分からない(古代ローマのチュニックしか想像できない)が、ジャケットの下に着ているのだから、「貫頭衣」の現代版みたいなもの、と想像すればすむ。しかし、「ネイビーのワンピース」は謎である。



一応、英和辞書を調べてみると、navyの3番目に 3=navy blueとあり、navyだけでもnavy blueを意味するようだ。しかし、現代の人間で、navy blueを知っている若者(特に女性)はあまりいないのではないか。ちなみに、navy blueは濃紺色で、イギリス海軍の制服の色と説明されている。




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習得した知識が自己の一部となることの陥穽

山道を歩きながら考えた。
いったい、なぜ世間の学者や高学歴の人間には馬鹿が多いのか、ということだが、新コロや新コロワクチンの異常さを考えれば、新コロ詐欺やワクチン詐欺があれほど猛威をふるった以上は専門家や医学者、あるいは世間で指導的立場にある学者や評論家、批評家が馬鹿の集団であるのは明白なように見えるが、これはもちろん、馬鹿ではなく、ただの卑怯者(それどころか殺人者である)の集団であるというのが正解だろう。
で、仮に、高学歴=馬鹿という仮説を立てるならば、それは、高学歴者というのは、記憶能力が抜群であるからではないか、という第二の仮説に到達した。
つまり、記憶力が抜群なために、既存の権威的知識を習得することが巧みで、その記憶によって、それに逆らう説を自分が出すことが困難になるのである。なぜなら、それは、学者や学問者としてのこれまでの自己の否定になるからだ。さらには、学歴や学者としての階梯というのは、既にある権威的知識を習得することで得られるし、その権威に逆らうと、学者や知識階級として生きていくことはできないからである。(権威への迎合というその卑怯さはある意味では「馬鹿」だと私は言っている。)
たとえば、進化論が嘘だと思っていても、それ(進化論)を教えたことで教師が後で非難されることはない。だが、進化論を否定する発言を教壇でやったら、教師としての地位を追われるだろう。
これは、ワクチンや新コロでも同じだろうし、極端に言えば、あるいは相対性理論なども、その種の「後で嘘だと分かる定説」の類かもしれない。その一部である、「光速を超える速さは存在しない」という説への懐疑論を前に書いたが、もちろん、それは何の根拠もない、無学者(私)の仮説だ。しかし、相対性理論が「定説」となる以前は、べつにおかしくも何ともなかったはずだ。
進化論への批判はすでに学界でもかなりあると聞いたような気もする。
ちなみに、科学は「事実」に基づく学問だと言われている。それが科学への信頼の根拠だろう。だが、何が事実かは、観察によって決まるのであり、完全に正確な観察は不可能だ、と確か「不確定性原理」は主張しているはずだ。ならば、科学そのものが「事実に近い蓋然性があると推定できる」だけのことで、それが本当に事実、あるいは真理なのかは永遠に分かることはないはずで、つまり、現在の「定説」とはすべて、「権威によって定められた、蓋然性の高い仮説」にすぎないということだ。

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「理で解する」やり方は読書では絶対的なものではない

市民図書館というのは、私には財宝を隠したダンジョン(迷宮)である。しかも、怪物はいない。ただ、財宝が財宝に見えないという魔法がかかっているだけだ。何が財宝なのか、探す人間には分からないので、宝箱なのかゴミ箱なのか、箱(本)を開けて調べるまでは分からないのである。

などと書いたのは、その図書館から借りていた樋口一葉の「たけくらべ」を先ほど、寝床の中で読み終えたからだが、さすがに名品である。つまり、財宝だ。

で、ここで言っておきたいのは、難読本を読むときに「理解する」必要など無い、ということだ。その本の精神や思想の中心が自分に伝わればいいのであり、それは文中の無数の難読語をすべて理解する必要などない。たとえば、1ページの中にその10分の9の意味不明の語句があったとしても、構わずに読み進めていけば、書かれたことの要旨が分かる場合が多い。それでいいのである。で、理解できない言葉も、理解できないままで、その本の「味わい」となって頭や体に沁み込むのであり、それは頭だけで本を「理解する」以上に、その本を「心で感じ取った」のだ、と私は主張したい。
もちろん、言葉の正しい解釈ができれば、その本をより深く「理解」でき、それはそれで素晴らしいことだが、繰り返すが、「理解」以上に大事なのは「感じ取る」ことであり、その作品世界の中に「生きる」ことなのである。
ちなみに、私は昔、学習塾や予備校で古文や漢文を教えたこともあるが、「たけくらべ」の文章の7割くらいは理解できない。明治のころの風俗に関係する言葉が無数に出てくるからだ。しかし、その7割は、作品世界を感じ取り、作品世界を生きる邪魔にはけっしてならないし、それどころか、それらの言葉があるために、作品の味わいが生まれるのである。これは、言葉をいちいち厳密に「理解」する作業によって邪魔されるだろう。辞書など引かずに、そういう言葉はどんどん読み飛ばす(より正確に言えば、頭のどこかにうっすらとした記憶として残る)だけでいいのである。

などと書いたのは、私は昔から「たけくらべ」を読もうと思ったことが何度もあったが、冒頭の数行を読んだだけで、あまりに理解不能な言葉が並ぶので、その度に挫折してきたからである。
おそらく、そういう人は私のほかにも無数にいるだろう。それは、「本を読むこと=理解すること」ということが悪質なテーゼ(命題)になっているからではないか。
昔の「空手キッド」か何かの老師の言ではないが、「考えるな、感じろ」というのは、読書にも言える行き方だろう。

ちなみに、英語の原書を読む時も、このやり方は有効だと思う。ネットの雑文を読む際ならなおさらだ。つまり「斜め読み」「飛ばし読み」で十分な文章が大半なのである。
逆に、言葉の一句一語の厳密な解釈や批判をしながら読む読書も当然意味があるのであり、要は、読書を楽しみ、自分の世界を広げ、豊かにすることだ。まあ、読むのが楽しければ、それだけで十分以上である。

ちなみに、バルザックの「暗黒事件」も同時進行で読んでいるが、こちらはフランス革命全体(ナポレオン帝政時代や王政復古やその後の再革命を含む)の様相がある程度わからないと、面白みが半減する作品だと思うので、疑問に思う箇所は調べながらゆっくりと読んでいる。




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酔生夢人
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仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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