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大学受験と教養

教養というのは英語では「文化」と同じ「culture」という言葉になると思うが、この「culture」は「cultivate」から来ていて、cultivateは「耕す」意味だということを知っている人は多いだろう。
ということは、単に「知識がある」ことが教養なのではなく、その知識によってその人の心が耕されているのが教養なのだ、と理解していいのではないだろうか。膨大な知識があるだけなら単なる記憶機械と同じであり、知識は少なくとも、その知識がその人の人生を豊かにしているのが教養のある人だ、と私は思っている。
というのは、私は学者とか知識人というものを「知識が多いから教養人」だとはあまり考えていないからである。大学に行った人が行かない人より教養があるとも思わない。試験に受かるためにあれこれ覚えて、試験が終われば頭に何も残っていない、実人生ではまったくの下種やアホ、という人間を教養人とは思わないわけである。もちろん、高学歴で教養人という人もたくさんいるだろうが、学者だから、高学歴だから教養人ということにはまったくならないわけだ。
生涯に一冊しか本を読まなくても、その理解が深ければ立派な教養人であり、何千冊の本を読もうが何一つその痕跡が心に残っていないなら、とても教養人とは言えないだろう。

何でこんなことを言い出したかというと、気まぐれに図書館で借りた「新・もう一度読む『山川世界史』」という本の中に、私が高校時代から疑問に思っていたことが未だに何の説明も無く出ていたからである。
同書P152「移動宮廷」のコラムの中に、王による瘰癧(頸部リンパ腺腫瘍)治しのことが書いてあるのだが、私はこの「王による瘰癧治し」がどういうトリックだったのか、説明してある歴史書を一度も読んだことが無いのだ。その説明もなくイギリス王のチャールズ2世が「治世の最後の1年だけで6600人もの患者を癒したという」などと書かれては、これを読む人は、「へえ、昔の国王の中には超能力の持ち主もいたんだなあ」と思ってしまうのではないか。もちろん、細かい説明まで書いたら本が厖大になるし、誰も問題視しない「大学入試にも出ない」ことなのだから、自分でもよく知らないことを敢えて推測混じりに書く必要はない、と判断するのだろうが、私のように「自分が理解できないし興味も無いことを丸暗記だけするのはできない」というタイプの人間には、これは地獄である。だから、私は国語以外の科目はまるでダメだったのだ。で、大学受験に成功できるのはそういう「理解できなくても丸暗記できる」タイプの人間だろうし、そういう人間が大学教授や官僚などになるのではないか、と私は思っている。

念のために言うが、「もういちど読む『山川世界史』という本自体はいい本だと思う。昔にくらべてイスラム関係の記述が多くなり、説明も親切だ。だが、あくまで「大学受験のための教科書」を一般人向けに少し記述を増やしただけだなあ、と思う。つまり、こういう本を読んで知識は得られるが、それが教養になるとは限らない。

「王による瘰癧治し」など、そのトリックを今さら考えても、現代の我々にはまったく関係のない、つまらない詮索だ、と言う人もいるかと思うが、それでは安倍政権による「統計詐欺」への批判はつまらない詮索だろうか。権威的存在や様々な「上からの教え」に疑問を持たないという精神は学校時代から作られているのであり、批判精神の無い社会はゴミに溢れ腐臭のするドブ沼になるのである。要するに「一事が万事」なのだ。





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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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