「谷間の百合」さんのブログ記事を全文転載。(容量関係で写真はカット)
私は、前に書いたように「近代の病としての『生き甲斐』症候群」というテーマの文章を書くつもりだったが、下の記事で書かれているのが、まさに私の言いたいことである。
総理大臣も乞食も、「起きて半畳、寝て一畳」であり、一度に飯が100人前食えるわけではないし、百畳のベッドがあろうと寝ている間に使うのは畳一畳分だ。一流レストランの美味い食事だろうが、自分で作る原価150円もしないうどんを食うのと美味さにさほど違いは無い。周囲に気を使わないだけうどんの方がマシであるかもしれない。一流の女優になろうが、そこに至るのに枕商売をしなければならないのなら売春婦と変わりはない。男優も同じだ。スポーツの名選手など、死ぬほどの努力をしてその地位に到達するのだが、見ている観客はテレビの前で何ひとつ苦労もしないでそのプレーを楽しめる。幸福なのはどちらで賢いのはどちらだろうか。(もちろん、その道が好きで、一流になり、その努力自体が楽しかったのなら、それは素晴らしいことである。)
なお、私は「輪廻」はあまり信じないが、むしろ「人の影響は何らかの形で永遠に残る」という「精神不死論」を信じている。ある英詩の中にあったと思うが、死は二度あり、肉体の死が一度目、そしてすべての人から忘れられるのが二度目の死であり本当の死である、という趣旨の思想がある。だが、私は、その人間の残したものは子供や友人や知人や、文章や作品を残したらその読者や鑑賞者の中に何かの痕跡を残し、それが様々なヴァリエーションとなって世界を少しづつ変えていく、と思っている。つまり、精神は不死である、ということだ。たとえば私の中には江戸時代の「共産主義者」安藤昌益の魂がわずかに入っているのである。
もちろん、良い影響だけではなく悪い影響も含めて「精神は不死」だということだ。
(以下引用)
私は、前に書いたように「近代の病としての『生き甲斐』症候群」というテーマの文章を書くつもりだったが、下の記事で書かれているのが、まさに私の言いたいことである。
総理大臣も乞食も、「起きて半畳、寝て一畳」であり、一度に飯が100人前食えるわけではないし、百畳のベッドがあろうと寝ている間に使うのは畳一畳分だ。一流レストランの美味い食事だろうが、自分で作る原価150円もしないうどんを食うのと美味さにさほど違いは無い。周囲に気を使わないだけうどんの方がマシであるかもしれない。一流の女優になろうが、そこに至るのに枕商売をしなければならないのなら売春婦と変わりはない。男優も同じだ。スポーツの名選手など、死ぬほどの努力をしてその地位に到達するのだが、見ている観客はテレビの前で何ひとつ苦労もしないでそのプレーを楽しめる。幸福なのはどちらで賢いのはどちらだろうか。(もちろん、その道が好きで、一流になり、その努力自体が楽しかったのなら、それは素晴らしいことである。)
なお、私は「輪廻」はあまり信じないが、むしろ「人の影響は何らかの形で永遠に残る」という「精神不死論」を信じている。ある英詩の中にあったと思うが、死は二度あり、肉体の死が一度目、そしてすべての人から忘れられるのが二度目の死であり本当の死である、という趣旨の思想がある。だが、私は、その人間の残したものは子供や友人や知人や、文章や作品を残したらその読者や鑑賞者の中に何かの痕跡を残し、それが様々なヴァリエーションとなって世界を少しづつ変えていく、と思っている。つまり、精神は不死である、ということだ。たとえば私の中には江戸時代の「共産主義者」安藤昌益の魂がわずかに入っているのである。
もちろん、良い影響だけではなく悪い影響も含めて「精神は不死」だということだ。
(以下引用)
木枯し紋次郎が到達した境地。
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