『2年前のアルゼンチンのオリンピックの最終プレゼンで、本音が(無意識に)思わず出てしまった滝川クリステルの大失敗(合掌)』
150年前の欧米の知識人は、日本的挨拶(お辞儀)を『情報』として知っていたが、お辞儀で腰を曲げる時に手をぴったりと体に添えるとまでは知らなかったので、当時の新聞の挿絵に登場する『お辞儀する日本人』は、頭を下げた時にラジオ体操のように肩から垂直に手をだらり下げて描かれている。
この150年前の勘違いに似た間違いでは、ハワイなど日本人観光客が多い場所では少ないが、世界では今でも『仏教徒は挨拶で合掌する』と信じているので、イギリスなど欧州諸国でも相手が日本人だと分かると、礼儀正しく親切の心算で両手を合わして合掌してみせる例が良くある。
日本人は死人に対しては手を合わせるが、生きている人間に向かっては決して合掌しない。
相手の英国人は礼儀正しい心算なのですが、日本人にとっては逆に実に失礼である。
人間相手にも合掌するヒンズー教のインドとか上座部仏教の東南アジアなどと、神仏以外には合掌しない日本や中国の大乗仏教を混同しているのです。
滅多にないが、我々日本人でも偶には生きている人間に手を合わせる場合がある。
オリンピック最終プレゼンで滝川クリステルが思わずやった『合掌』の正体ですが、日本では例外的に、命乞いとか、究極の謝罪として土下座と共に両手を合わせる。
平身低頭『すみません。すみません』の究極の謝罪なら合掌する時が有るが、『おもてなし』の気持ちで合掌する例は無い。
(話は少し横道にそれるが、)
ところが、何故か日本でも食事を始める時の『いただきます』には両手を合わせて(オリンピック最終プレゼンの滝川クリステルのように)合掌する。
今の文明化した日本人はすっかり忘れ果てているが鶏肉を食べる為には先ず飼っていたニワトリを殺す必要があり、実は日々の食事とは(他者の生命の一部を)『いただく』という厳粛で少しだけ残酷な『神聖な行為』だったので合掌していたのでしょう。(肉食に限らず植物食でも動物食でも同じで『食べる』と『殺す』とがコインの裏表、一体不可分の関係にある)
ドイツ生まれの生物学者ルドルフ・シェーンハイマーが指摘したように『生命』とは機械の様な『不動のもの』では無く、持続する『動的平衡』(変化のバランス。破壊と生成とが絶え間なく変化する流れ)のことだったのである。
『へらへら笑いながら手を合わせるな。このバカ者が』
日本人なら滝川クリステルの『お・も・て・な・し』のあとの合掌には違和感を持って当然であり、2年前のインターネット上では、
『だから、合掌なんかしねえんだよ』
『見てるこっちが恥ずかしくなるよな』
『あの合掌は誰も止めなかったのかな』
『あれが日本式かと勘違いされるよな』
『おもてなしで合掌するとかやめろボケ』
『どちらかというとお辞儀だよね 合掌して挨拶や御礼はしない』
『外人的には合掌挨拶が日本人が公式に認める挨拶ってことになっちゃったんだな』
『おもてなし 合掌ってなんか違う おもてなし お辞儀の方が日本らしい』
との声が噴出。
滝川クリステルもネイティブな日本人以上に自分の大失敗は熟知しているのでマスコミで『お・も・て・な・し』の動作の再現を求められても、最後の合掌部分は絶対に人前では行わない。
失敗しないように何遍も何遍も事前に練習したのだろうが、本番では極度の緊張状態で思わず隠していた本心(羞恥心やら謝罪やら罪悪感やら)が無意識に動作に表れて、滝川クリステルは『お・も・て・な・し』の最後に合掌して仕舞ったのである。
オリンピック最終選考会での滝川クリステルの『合掌』の意味とは、フロイト心理学の無意識が動作に表れた大失敗でないとしたら、日本の田舎の選挙戦の最終盤では良くある一票欲しさに恥も外聞もかなぐり捨てて行う保守系候補の土下座の浅ましいパフォーマンスである。何れであるかは不明だが、恥ずかしい事実に変わりはない。
ところが、合掌と『お・も・て・な・し』の珍妙な組み合わせから2年が経過して、やっと隠されていたトンデモナイ意味が判明する。(暴いたのは8月8日の毎日新聞)
『なんと!2020年東京オリンピック開会期間の日付は酷暑の7月24日から8月9日だった』
『2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会計画』
オリンピック競技大会開催概要
正式名称第32回オリンピック競技大会(2020/東京)
英文名称The Games of the XXXII Olympiad
開催期間2020年7月24日(金)~8月9日(日)
競技数28競技
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