広瀬すずは、少し前にテレビ局の裏方を貶めるような発言をして以来、ネットでは「広瀬くず」と呼ばれたりしている。そして彼女が「特攻隊隊員の心情が理解できない」という趣旨のことを言ったために右翼が頭に来て「広瀬くず(17)『特攻とかバカじゃないのw』」という、ありもしない発言に捻じ曲げたタイトルを付けたわけである。つまり、右翼としては、日本国民ならば特攻隊を無条件に賛美すべきであって、それを「理解できない」という人間は非国民である、と言いたいわけだろう。
だが、私としては、ここは広瀬すずを擁護したい。
17歳の子供(私の記憶では、通常の17歳の人間は、社会意識政治意識の面ではまったくの無知であるか、少しは社会認識があっても、教科書で得た知識と現実社会の乖離によって意識が混濁しているのが常である。つまり、精神的にはまったくの子供なのである。)が70年前の特攻隊隊員の心情や意識が「理解できる」という方が嘘だろう。つまり、彼女は実に正直なのである。(少し前の「裏方仕事をやる大人の心情が理解できない」発言も同様の「正直な発言」だったわけである。つまり、「空気が読めない」し、「うまく立ち回ることができない」子供なのだ。そして、私は子供はそうであってほしいと思う。)
「命を捨てて特攻に向かう人のことが、やっぱり想像できなくて。わからないことが多すぎて、話を聞くだけで必死でした」
というのは、まともすぎるくらいにまともな言葉だ。それどころか、「話を聞くだけで必死でした」というのは、理解し難い対象を理解しようとする誠実さに溢れた態度だと思う。
その一方で、私が疑問を感じたのは、当時特攻隊員を「笑顔で見送った」と記事中に書かれている女性である。朝日の記者も同じ疑問を抱いたのか、
「戦争は、教科書に載っている昔の話。死に行く特攻隊員を笑顔で見送るなんて、想像できない。」
と、広瀬すずの「想像できなくて」が、特攻隊員の心情だけでなく、それを見送った側の心情のことでもあるのではないか、と勝手に忖度した一文を記事の最初に置いている。あるいは、実際の広瀬すずの言葉の中に、そう思わせるものがあったのかもしれない。
で、私もこの女性が死に行く人を「笑顔で見送った」心情が「理解できない」。
いや、実は理解できる。「何も考えていなかっただろう」と推定できる。彼女にとって、それは「他人の死」でしかなかったからだ。
当時、出征兵士を見送った人々が、兵士たちの運命を悼み、同情している人々ばかりだったとは私は思わない。特に、当時15歳の女の子にとって、凱旋兵士ならともかく、これから死ぬ運命しか無い人間など、恋愛の対象にも結婚の対象にもならないから、本当の関心など持ち得ないのが当然だろう。
私は、彼女の「みんな元気ででかけていきましたよ」に、そういう恐るべき無関心と冷酷さを感じるのである。
もちろん、私が(男女の違いはあるにせよ)同じ立場の子供なら、同様に「他人の死」には無関心だっただろう。
(以下引用)
特攻を見送った時代、やはり知らないと 広瀬すずさん
上遠野郷
2015年8月5日15時26分
■継ぐ記憶:5
戦争は、教科書に載っている昔の話。死に行く特攻隊員を笑顔で見送るなんて、想像できない。
俳優の広瀬すずさん(17)は、福島県南相馬市の八牧(やまき)美喜子さん(86)を訪ねた。70年前、八牧さんは近くの基地で訓練を受けた特攻隊員を何人も見送った。「みんな元気に出かけていきましたよ。『特攻したら新聞に名前が載るから、必ず読んでね』って」
隊員たちが残した50通ほどの手紙や和歌がテーブルに並ぶ。「御奉公の一途に邁進(まいしん)致します」。広瀬さんは紙片を手に取り、びっしり書き込まれた文字に目を落とした。言葉が見つからなかった。
「命を捨てて特攻に向かう人のことが、やっぱり想像できなくて。わからないことが多すぎて、話を聞くだけで必死でした」
◇
南相馬市には、操縦士の養成学校が置かれた「陸軍原町飛行場」があった。当時15歳の八牧さんは基地近くにあった牛乳店の看板娘。店は20歳前後の隊員らのたまり場になり、八牧さんは皆にかわいがられた。
毎晩のように家に遊びに来る隊員がいた。久木元(くきもと)延秀少尉、21歳。豪快に笑う九州男児で、自分に恋心を抱いてくれているのを感じていた。
1944年12月1日朝、久木元さんから自宅に電話がかかってきた。「これから出撃することになりました」。いつもの元気な声。八牧さんは言葉に詰まった。死に行く人に「お元気で」とも言えない。沈黙に耐えかね、自分から「さようなら」と電話を切ってしまった。
2015/08/06 20:37
【衝撃】 広瀬くず(17)「特攻とかバカじゃないのw」
http://www.asahi.com/articles/ASH8403YMH83TIPE03S.html
俳優の広瀬すずさん(17)は、福島県南相馬市の八牧(やまき)美喜子さん(86)を訪ねた。70年前、八牧さんは近くの基地で訓練を受けた特攻隊員を何人も見送った。「みんな元気に出かけていきましたよ。『特攻したら新聞に名前が載るから、必ず読んでね』って」
隊員たちが残した50通ほどの手紙や和歌がテーブルに並ぶ。「御奉公の一途に邁進(まいしん)致します」
広瀬さんは紙片を手に取り、びっしり書き込まれた文字に目を落とした。言葉が見つからなかった。
「命を捨てて特攻に向かう人のことが、やっぱり想像できなくて。わからないことが多すぎて、話を聞くだけで必死でした」