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政府と東電のフクシマ対策は「被害者死亡」を待つ水俣方式

「東海アマツィッター」で知った記事である。
3年間で238人が死亡って、あまりに多すぎる。どう考えても福島原発事故に由来する死が大半だろう。「全町避難が続く」とあるから、避難先での生活のストレスなども原因の一部だろうが、放射能による健康被害が、この死亡者数の多さの大きな理由ではないかと思う。ニュースとして出てこないが、乳幼児、青少年の死亡もかなりありそうな気がする。
東電と政府はこうしてフクシマの被害者がどんどん死んでいくのを待っているのだろう。



(以下引用)


和解前に238人死亡、浪江町民
  • 2014年 12月25日 02時00分
  • 提供元:共同通信
 福島県浪江町民が避難生活を送る仮設住宅=19日、福島県二本松市

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 福島県浪江町民が避難生活を送る仮設住宅=19日、福島県二本松市


東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く福島県浪江町の約1万5千人が賠償増額を求めて原子力損害賠償紛争解決センターに申し立てた裁判外紛争解決手続き(ADR)で、申立人のうち238人が東電との和解前に亡くなったことが24日、関係者への取材で分かった。 紛争解決センターは今年3月に慰謝料の増額を認める和解案を提示。東電は「原子力損害賠償紛争審査会の中間指針に基づき賠償を受ける他の避難者との間で公平性を欠き、影響が大きい」などとしてこれまで2回、和解案を拒否し、現在も協議が続いている。

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「愛子さま」の学校制度破壊テロ(笑)

ちょっと面白い話である。
愛子親王(というのか? 皇族の女性をそう呼んだと思うが、「愛子さま」という言い方の方が私には不自然に思える。「親王」ならただの称号だが、「さま」には尊敬の強制を感じる。)にはこのまま中学校中退していただいて、日本の教育のあり方や意義について一石を投じてもらいたいものである。
つまり、「中学校中退で何が悪い?」ということだ。そもそも、結婚して家庭の主婦にでも収まるなら、小学校卒で十分だ。社会についての実際的知識など、公教育では何一つ得られないのだから、小学校で読み書き算術を覚えればそれだけでいい。いや、家庭の主婦に限らずたいていの人間はだいたい小学校までの知識だけで生きるのには十分ではないのか。
一番悪いのは、愛子親王がこういう学業状態であるのに、学校側がそのまま進級させ、「中学卒」の資格を与えるという特別待遇をすることだろう。それは嫉妬と批判の元になる。いや、既になっている。下の記事自体がそれである。
とかく世間は他人の粗探しをしたがるものだが、「他人を批判する」ことの公正な利点が無い場合にまで他人を批判するのは感心しない。下記記事で言うなら、愛子親王がどうであろうと、それが他の生徒にどんな不利益を及ぼしているかと言えば、それは何一つ無いのである。ただ、「自分は苦しんで勉強し、真面目に無遅刻無欠席で登校しているのに、そうでない人と同じ扱いを受けるのは嫌だ」ということである。つまり、「本当なら勉強などしたくない。学校など来たくない」というのが彼女たちの本音であり、そうは言えないから「不平等な扱い」に文句を言っているのである。彼女らにとって学校がそういう存在であるところに、現在の「学校」という制度の無意味さや有害さの一端が表れている。


愛子親王は知的障碍者(とは言っても、幅広くあるはずだが)だという話もあるようだが、仮にそうだとしても、それも問題ではないだろう。皇族と言っても普通の人々と同じ確率でそういう人は生まれるというだけであり、公的活動はできないだろうが、私的生活だけで生きていかれればいいだけだ。





(以下引用)

愛子さま 二学期の期末テストの3日間8教科分を欠席された


 冬晴れの空が広がった12月22日、学習院女子中等科は二学期の終業式を迎えた。8時25分頃、お車で登校されたマスク姿の愛子さまは、ポニーテールを揺らしながら、全力ダッシュで校門をくぐられた。


 終業式は8時30分スタートで、この日はギリギリではあるが、他の生徒たちと同じように定刻通りに登校された。


 だが、この二学期、愛子さまはさまざまな問題を抱えながらの学校生活をお過ごしになった──。


 一学期後半から始まった愛子さまの“不規則登校”問題。二学期の始業式こそ、定刻前に元気に登校されたものの、その後は再び逆戻り。遅刻や欠席の回数が増え始め、9月末頃からは午後に登校されることもあった。


 12月1日の誕生日は、学校をお休みになったが、夕方には天皇皇后両陛下に誕生日のご挨拶をされるために皇居を訪ねられている。


「沿道に駆けつけた人々に、車から元気に手を振られる愛子さまの姿を拝見して、少なからず違和感を覚えました。やはり、この日学校を欠席されている以上、公の場に出てこられるのは不自然ですよ。愛子さまは今、学校で誰からも叱られることなく、自由な振る舞いをされているように思え、実に心配でなりません」(学習院関係者)


 この関係者が指摘する通り、学習院女子中等科では、愛子さまは過剰なまでの“特別扱い”を受けていて、遅刻、欠席を繰り返しても学校側が愛子さまを叱ったり、母親である雅子さまを呼び出して注意することは、一切ないという。


 こんな状況に、すでに本誌がお伝えした通り、一部の生徒たちから不満の声が出てきている。


「私たちは遅刻しないようにまじめに登校しているのに、なぜ愛子さまだけが自由な時間に登校しても許されるのでしょうか?」


 しかし、学校側は明確な答えを出すことはできなかった。そして12月5日から4日間にわたり、二学期の期末テストが行われたが、愛子さまは5日、6日、9日の3日間、計8教科分の試験を欠席された。


 この期末テスト欠席に関して、東宮大夫は定例会見で、風邪で発熱や咳があったためと説明している。結局、愛子さまは後日、数日に分けて追試を受けられたという。


※女性セブン2015年1月8・15日号



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ピケティがわざと言わないこと

今日も「世に倦む日々」からの抜粋転載である。
「世に倦む日々」氏は経済学についての理解が深いようで、学問的素養も本格的なようだ。いろいろと勉強になる。ただし、こちらは自分にとって興味深いところだけを聞きかじりするだけだが。
「世に倦む日々」ブログの著者(管理人氏)は、他のブログやサイトのように社会主義への闇雲な嫌悪感を持たず、右も左も冷静に批評してる。やや、社会主義寄り、か。そういう点は私に似ているかもしれない。だからこそ、こうして引用することも多いのだろう。
下記記事は最近ブームのピケティの著作(「21世紀の資本」だったか?)についての(というよりは、その解説本についての)批評だが、これを読むとピケティの著作には人々を大きくミスリードするところがあるようだ。
確かに、20世紀中盤の労働者待遇の改善、福祉政策の増進は、誰が考えても「ソ連の躍進」に怯えた資本主義国家が、自国の共産主義化(赤化)を恐れた結果だろう。一方では「赤狩り」を行いつつ、一方では労働者待遇の向上によって資本主義の優位をアピールするという「アメと鞭」である。そういう基本を(わざと)無視しているところに、この本が世界的ベストセラーになることが「許された」背景があるのではないだろうか。


(以下引用)赤字部分は夢人による強調。



以上は、竹信三恵子の要約をさらに要約したもので、ネット等の整理でも同じ中味が書かれているに違いないのだが、説明の内容に少し首を傾げる部分がある。それは、ピケティの論述に問題があるのか、竹信三恵子の要約に欠落があるのか、よく分からないが、議論全体のポイントとなるところの、20世紀の格差縮小の原因について、社会主義の要素がクローズアップされてない点だ。戦争のため、軍備に税を徴収しなくてはならず、富裕層への課税が大きくなったとか、戦争が国民を平等な方向に持って行ったという説明がされている。これは、歴史の事実とは少し違うし、米国のニューディール政策や日本の戦後改革の意味を見誤る点だろう。この時代は、ロシア革命が各国に波及することのないよう、とにかく社会主義革命を防ごうとして、各国が社会政策を充実させ、中間層を作って行ったのであり、すなわち修正資本主義の時代なのだ。何より強調されるべきなのは、ケインズ主義に他ならない。ピケティの原著の方は不明だが、なぜか竹信三恵子の要約ではケインズの名前が上がらない。この時代がケインズの時代であった一般論が確認されず、ケインズを否定するハイエクとフリードマンという経済学史の流れが出て来ない。このことは、普通の者には奇異に感じられる。マルクスとケインズという一般的な図式ではなく、マルクスとクズネッツという図式が持ち出されていて、その意図を訝る不思議な説明になっている。

1980年代以降、世界の諸国で格差が拡大していくのは、社会主義革命の危機や脅威が消え失せたからであり、資本側が労働側に遠慮することなく、規制を取っ払って自由自在に搾取できるようになったからだ。日本では、その波は中曽根政権から始まり、小泉改革で劇的な形となって現れ、製造業での派遣労働が法律で解禁されるに至る。どれほど輸出で利益が出ても、資本側は労働側に春闘で妥協することなく、賃金は上げずに内部留保に蓄えこんで行った。それに対して、総評を潰された労働側の抵抗は弱く、労働側の利益を担った政治勢力(革新)も衰退と縮小の一途を辿り、資本主義のあり方は19世紀の原初の姿に戻って行く。今度は、いよいよ残業代がゼロにされる搾取が合法化されようとしている。労働側は、20世紀(日本では戦後)に獲得した権利を次々と失い、収入を減らされ、中間層たる地位と基盤を失い、19世紀の無一物のプロレタリアへと没落させられている。これが格差拡大の実態だ。ケインズ的な、ニューディール的な、資本主義を修正させる契機が否定されて、ハイエク・フリードマン的な世界が出現したということだ。これが、新自由主義の台頭と制圧についての基本認識というものだろう。なぜ、クズネッツがそこで注目されて特筆される必要があるのか、論理と意味がよく分からない。20世紀の修正資本主義(格差是正と中間層育成のシステム)は、ロシア革命と社会主義とケインズとニューディールで説明されるのが当然だ。




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若者の自己防衛としての政治敬遠

「世に倦む日々」記事から、「若者と政治」の部分に焦点を絞って抜粋転載。
この分析は正確無比だと思う。
政治家に欲しいのはこうした「大衆心理」への洞察力だ。それが自分に無いなら、それのできる「軍師」を身近に置くことである。安倍自民党の世耕などは、その能力があるが、残念ながら野党政治家にはまったくそうした能力が無い。それが野党が敗北し続ける根本の理由である。


(以下引用)


この国では若者ほど甚だしく右傾化している。そして、若者ほど体制に順応的な生き方を身につけている。彼らは、安倍晋三や右翼の方向性を支持しているというよりも、多数の意見や全体の意向に逆らわないのだ。異議を唱えないのである。今の政治における多数が何かはマスコミが教えている。異端が何かもテレビとネットを見れば一目瞭然だ。彼らは、生き抜くために、自身が異端の位置に属することを極端に恐れるのであり、自己防衛に過敏になるのであって、場の空気に合わせて、全体が自分に要請する配役や立場を素早く感知して、それを積極的に引き受けるのだ。その習性と態度をしっかり体得していないと、例えば、就職時の会社面接で脱落してしまう。そこで人生が決まる。われわれの頃と違って、面接は個人ではなくグループでやる。チェックされるのは、どれだけ集団での即興の振る舞いで、面接側の期待に応える役割演技ができるかだ。今はその能力を「コミュ力」と呼ぶらしい。若いときに身につける習性と態度とは、その人間の終生の生き方を意味する。

例えば、こんな場面を想像しよう。ある若者が投票に行ったとする。仲間同士の会話の中で選挙が話題になったとき、「選挙、行った?」という質問に、正直に「言ったよ」と答えたら、残りの者たちは、「えー、行ったの!?」と驚き、「どこに投票したの?」と尋ねてくるだろう。若者は答えなくてはいけないが、「自民に投票した」と答えたら、「どうして?」と続けて訊かれ、動機や理由を説明しなくてはいけない。説明すれば、その内容が他の者たちに話題として伝わってネタにされる。「あいつ、自民に投票したんだって。安倍でいいからだって」という具合に。具体的な場面を少しでも想像すれば分かるが、若者たちの一般的態度は棄権なのだ。それがマジョリティなのだ。投票には行かないのが普通であり、行った者が特殊で、興味を持たれ、面白がられて、その行動の中味の説明を求められる。その説明は、聞いて噂にする方は軽いネタだが、説明した方は個人情報として残り、あとあと厄介でリスクのある不安になる。尾ひれが付いて回る可能性がある。さて、このとき、正直に「共産に投票した」などと言えるだろうか。言えない。口が裂けても言えない。理由を訊かれ、説明を始めたら大変なことになる。だから、仮に投票をしていても、仲間で話題になったときは、「行ってないよ」と答えるのが無難なのであり、「投票したい党がないから」と言っておけば安全に済むのだ。無用なトラブルを引き受ける必要はない。

こうした環境や関係のあり方は、若者たちに、選挙に行かないように意識を方向づける。政治に関心や知識を持たないように仕向けて行く。関心を持たない方がいいという判断と思考になる。関心を持たないことが安全だからであり、将来的に身を守るサバイバルに繋がるからだ。関心を持てば、選挙に行くという行動に必然的に導かれる。コミットの責任を持つ。投票に行けば、リスクを冒してその説明(選択の意義・正当性)を友人たちの前でするか、あるいは、「行ってない」と方便のウソを言わないといけない。友人を騙すことは多少とも苦痛が伴うものだ。だから、テレビで大人たちが言うところの、「選挙に行きなさい」という説教は、若者たちにとっては欺瞞的なタテマエ論なのであり、若者には負担の重い、大人の世界で通用する無責任な原則論なのだ。現実の社会は、就職面接がそうであるように、どこまでも漂白された人間像を求めるのであり、社会的な理念を持たない、言挙げしない、異議申立を決してしない、ただ機械のように働く無色透明な若者像を要求する。TOEICのスコアが700で、ITスキルが万全で、早慶一橋卒の学歴が履歴書にある、「コミュ力」の十分な学生を求める。就職面接の真実こそが大人のホンネ論だ。今の若者たちは、中学で、高校で、大学で、理念の重要性を教育されていない。理想を持つことを教育されていない。むしろ逆で、理念や理想を持たないことを教育されている。場に適応して生きることを教育されている。







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キューバは地獄の門を開けたのか

「大摩邇」から転載。
私もキューバと米の国交回復を単純に喜んでいた馬鹿の一人であったが、この記事を読んで、これはキューバにとっては悪い選択になったかな、と考えた。もちろん、これでおそらく実現する「体制転覆」の後でキューバは完全に資本主義(経済的自由主義)体制となり、経済的にも発展する可能性は高い。だが、キューバ国民にとってそれが本当に幸福な道かどうかは疑問なところだ。
「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」と言った古人がいたが、今の「平等に貧しい」キューバははたして「富める1%対貧しい99%の格差社会」より不幸なのかどうか。精神的な面では、もしかしたら「平等に貧しい」社会の方が、妬みと恨みと他人を蹴落とす争いの社会よりも幸福かもしれないのである。
もちろん、一番いいのは全員がほどほどに豊かになる社会である。政治がまともなら、それは容易に実現できるはずだと私は思っているのだが。



(以下引用)

キューバにおける体制転覆

マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-3210.html
<転載開始>

Paul Craig Roberts
2014年12月19日


キューバとの国交正常化は、外交上の飛躍的進展の結果でもなければ、ワシントン側の心変わりでもない。正常化は、アメリカ大企業が、キューバにおけるブロードバンド・インターネット市場開発等、キューバで利益を上げる機会を求めた結果に過ぎない。


アメリカの左翼やキューバ政府は、正常化を幸いだと考える前に、正常化すれば、アメリカの資金とアメリカ大使館がやってくることに思いをいたすべきだ。アメリカの資金が、キューバ経済を乗っ取るだろう。大使館は、キューバ政府を転覆させる為のCIA工作員の巣窟となるだろう。大使館は、アメリカが、キエフでの様に、だまされやすい参加者達を、適切な時期に街頭抗議行動に繰り出させることが可能なNGOをたちあげるための基地となり、大使館開設で、ワシントンは新たな政治指導部の一団を育てることが可能になる。


要するに、国交正常化とは、キューバの政権転覆を意味している。まもなく、キューバは、もう一つのワシントンの属国になるだろう。






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先の選挙結果に安倍は大不満?

この記事が事実に基づいているなら、先の選挙は(一部はともかく全体として)不正選挙ではないのだろう。そして開票後の安倍総理の不機嫌な表情の理由も明確に分かる。
やはり、安部の一番の願望は(アメリカ様の指示を受けるまでもなく)「9条廃棄」にあるようだ。バカだねえ。それが実現していったい、誰得なんだよ。だから安倍は幼稚、低脳と言われるんだ。(あっ、これは国家特定秘密の暴露に相当しますか?)
なお、宮内庁は「天皇への記者質問」禁止令をマスコミ各社に出したが、これも総理官邸からの命令によるものだろう。今、この時期に天皇の憲法尊重発言が出たら、安部にとっては最悪だからだ。




(以下引用)

『ZERO×選挙』で“ブチ切れ”の安倍晋三首相、生放送後さらにヒートアップ「枝野は落ちないじゃないか!」- 日刊サイゾー(2014年12月20日11時00分)


 12月14日に投開票が行われた衆院選の選挙特番『ZERO×選挙』(日本テレビ系)で、村尾信尚キャスターに“ブチ切れ”たことが話題となっている安倍晋三首相。現役の総理が生放送で怒りをあらわにするという異例の事態に、一部では、自民党側によるテレビ放送用の演出ではないか、ともささやかれていた。


 だが、生放送への出演終了後、現場には安倍首相のこんな怒号が響きわたっていたという。


「300に届かないじゃないか。話が違っているのは、どういうことだ!」
「沖縄は2つ取れるはずじゃなかったのか!」
「枝野(埼玉5区、民主党の枝野幸男幹事長)は落ちないじゃないか! どうなっているんだ!」


 その場にいたという自民党関係者が明かす。


「選挙を取り仕切っていた茂木敏充選対委員長をはじめ、党幹部にすごい剣幕で怒鳴っていました」


 マスコミの目が届かない舞台裏でのやりとりに、周囲の人間は凍りついたという。その理由を、別の自民党関係者はこう解説する。


解散前、茂木氏は300議席超えに自信をのぞかせていたそうです。憲法改正が悲願である安倍首相は、その言葉を信じ、自民党が300議席を超えれば、次世代の党、民主党の右派、無所属議員らで3分の2を超えると皮算用していたようですそうなれば、公明党の存在は軽くなり、彼らが自民党にすり寄ってくれば“憲法改正の踏み絵”を踏ませられる。それが、終わってみれば次世代の党は崩壊寸前となり、公明党と共産党が議席を伸ばしただけ。怒りがピークに達し、当たり散らしたのです」


 とはいえ、沖縄に関していえば、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を抱える中、先の県知事選・那覇市長選の両方を落とした最重点地区であるにもかかわらず、安倍首相は一度も応援に入ることがなかった。


 自民党沖縄県連関係者の中には「結局、怖くて沖縄入りできなかったんじゃないか」と、安倍首相に厳しい視線を向ける者も決して少なくないという。与党も到底、“一枚岩”とはいかないようだ。


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言葉の重さ、言葉の軽さ

今の日本では言葉は嘘をつくための道具という認識が国民全体に広まっているようだ。それを示す記事を二つ掲載する。

(引用1)は、例の川上村の中国人留学生(実習生)搾取の件での元役員の発言。
「語るにおちる」とはこのことであり、「過酷な仕事で日本人アルバイトが集まらない」の一言が事実をすべて物語っている。つまり、日本人がけっしてやらない薄給、過酷労働を中国人留学生(実習生)にやらせていた、ということだ。これを搾取と言うのである。その後に書かれた「帰国時には手を取り合って涙を流しているのが実情だ」は、例によって日本人の好きな「美談」調に話を作って誤魔化しているのが歴然としている。「大多数の農家は実習生に感謝し」ですか。そりゃあそうでしょう。実習生の過酷労働によって農家は楽に金儲けができるのだから感謝しないわけがない。
(引用2)は嘘の事例ではなく、現代人の「言葉の軽さ」ということを示す事例だ。
「死ね」と言ったら、相手が死んだ。それは相手を死に追いやったということだ。それは相手の心の弱さだとして相手を非難するか? それなら、社長や上司の命令にあなたは逆らえるか? 死ぬことは別だ、と言うなら「1日24時間365日働け」という命令は「死ね」というのと何が違うか。戦場で「敵に向かって突撃せよ」、というのは「死ね」というのと何が違うか。
昔は、侍は主君に「死ね」と言われたら死ぬのが当たり前だった。それがいいというのではない。言葉はそれほど重いものだ、と言いたいのである。




(引用1「ヤフーニュース」から転載)


 別の元役員は「一部に問題の農家がいるのは事実で勧告は真摯(しんし)に受け止めている。しかし過酷な仕事で日本人アルバイトが集まらない中、大多数の農家は実習生に感謝し、帰国時は手を取り合って涙を流しているのが実情だ。組合全体で中国人から搾取していたことは断じてない」と話す。


(引用2)

「死んで借金を返せ」夫自殺で妻書類送検 警視庁、教唆疑い

産経新聞 12月19日(金)7時55分配信


 死んで借金を返せなどと歯科医師の夫(56)に迫り、自殺に追い込んだとして、警視庁滝野川署は18日、自殺教唆の疑いで、東京都北区の歯科衛生士の女(51)を東京地検に書類送検した。同署によると「死ねとは言ったが本当に死ぬとは思わなかった」と容疑を否認している。





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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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