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逆鳥居強右衛門

私が言わんとしていることは、「引用2」の鳥居強右衛門の項を読めば明瞭だろう。
まあ、私は武士道など、武士統制のために作られたフィクションだと思っているが、たとえフィクションでも、それを信じて行動した人間の中には超人的かつ崇高な行為をした人間もたくさんいた。だからこそ、そうした武士の話は現代でも人の心を打つのだろう。平田弘史の漫画などは、武士の世界のそうした「狂気」と「侠気」の極限を描いているから面白いのである。(彼の漫画の幾つかは「電脳マヴォ」という無料ネット漫画誌で読めます。)
なお、この鳥居強右衛門の話は、アレンジされて山本周五郎の短編小説になり、またそれを見事に換骨奪胎したものが、現代を舞台にした宮谷一彦の傑作漫画「ワンペア・プラス・ワン」になっている。

<「イスラム国」拘束>「後藤さん24時間以内殺害」新警告

毎日新聞 1月27日(火)23時37分配信

 【カイロ秋山信一】イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)に拘束されているジャーナリスト、後藤健二さん(47)の新たな静止画が27日、インターネット上に投稿された。英語の声の主は、ヨルダンで拘束されているサジダ・リシャウィ死刑囚を24時間以内に釈放させなければ、後藤さんとヨルダン軍パイロットの2人が殺害されると警告した。正確な声明発表の時刻は明らかではない。日本政府は映像の信ぴょう性の確認を急いでいる。

【ヨルダンでは圧倒的に「パイロット優先」】

 ISは24日、後藤さんとリシャウィ死刑囚の「捕虜交換」を要求する声明を出していた。日本政府はヨルダン政府と連携しながら対応策を検討している。

 リシャウィ死刑囚は、ISの前身組織のメンバーで、当時の最高指導者の側近の姉妹とされる。

 声の主は「私はケンジ・ゴトウです。私の妻と日本国民、日本政府に対してのメッセージです。これが私の最後のメッセージになると言われた。少しでも遅れればヨルダン政府はパイロットの死に責任があり、私はそれに続くことになる」などと話した。

 24日夜にはネット上に湯川遥菜さん(42)が殺害されたとみられる映像が公開されていた。後藤さんは24日夜、湯川さんの遺体とみられる写真を手に持たされた映像に登場。男性の声で湯川さんの殺害とともに「もはや金は求めていない。ヨルダンで拘束されている女が釈放されれば私はすぐに解放される」と英語で訴えていた。内容の信ぴょう性や声の主は不明だ。

 後藤さんは昨年11月ごろ、シリア北部でISに拘束された。昨年8月に拘束されたとされる湯川さんの救出や取材が目的だったとみられている。

 ISとみられる犯行グループは20日に2人の殺害を予告する映像を公開し、政府に対して「72時間以内に2億ドル(約236億円)を支払え」と要求。政府は国際社会の協力を得ながら解決の糸口を探っていた。




(引用2)

鳥居強右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

鳥居 強右衛門(とりい すねえもん、天文9年(1540年) - 天正3年(1575年5月16日(もしくは17日))は、戦国時代足軽奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)か。


生涯[編集]

長篠城を密かに脱出する鳥居強右衛門
月岡芳年画)

強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。


奥平氏はもともと徳川家に仕える国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けてその傘下に従属していた。ところが、秘匿されていた武田家当主・武田信玄の死亡を察した奥平氏は再び徳川家に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。


奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも大小の攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は幸いにも防衛を続けていた。しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、落城寸前にまで追い詰められた。このため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。


この命がけの困難な役目を自ら買って出たのが強右衛門であった。彼は雑兵軽輩の類であったとされるが、一刻を争う非常事態である以上、身分をとやかく言っていられなかった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。彼は水泳を得意とする男で、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらました。翌朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡。15日の内に岡崎城にまで赴いて援軍を要請した。この時、幸運にも家康からの要請を受けた織田信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手はずとなっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、城の仲間たちにこの朗報を一刻も早く伝えようと、急いで長篠城へ向かって引き返した[1]。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げるが、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

城中に援軍が来ることを伝える鳥居強右衛門
楊洲周延画)明治26年(1893年

強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令した。こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へ引き立てられた。しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で強右衛門を殺したが、強右衛門の決死の報告によって援軍が来ることを知った長篠城の城兵たちは大いに士気が上がり、援軍が到着するまでの2日間、武田軍の攻撃から城を守り通す事に成功した。





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