苫米地英人『苫米地英人の金持ち脳 捨てることから幸せは始まる』
JUGEMテーマ:自分が読んだ本
一般的には、オウム真理教事件での脱洗脳に関わったことで知られる苫米地英人氏ですが、きわめて広いフィールドで自在に活躍する天才的脳科学者、おそらくは日本で最も優れた頭脳の一人でしょう。
苫米地氏の著作は、主にルー・タイスのコーチングの理論に基づいた自己啓発書と、日本全体あるいは世界全体を覆う資本主義経済やメディアに対する社会批判的内容の著作に分けることができます。いずれも、潜在意識に書き込まれた情報を書き換え、既成の固定観念や考え方から脱却することを目指したものと言えるでしょう。
『苫米地英人の金持ち脳 捨てることから幸せは始まる』(徳間書店)はこの両者が表裏一体になり、後者の内容からスタートしながらも、一人ひとりのお金や仕事に対する考え方を変えることで、周囲に操られない自分自身の主人公的な生き方へと導くことをめざす著作です。
この本は、5つの章から成り立っていますが、そのそれぞれに質問があり、そして解説の後に答えがあるQ&Aの非常にわかりやすい形で構成されています。まず、大雑把に第1章 本当の「金持ち」、ウソの「金持ち」の論旨をまとめることで、苫米地氏の視点を明らかにしておきましょう。
「洗脳」にはよい洗脳と悪い洗脳があり、悪い洗脳とは、恐怖・ネガティブな感情に訴えるもの、よい洗脳とは人のプラスの感情を使うことで、本人の能力や自己評価を高めることを目的とするものである。そして、この視点から言えば、「お金持ちでなければいけない」という経済洗脳は、「お金がないと君は死ぬ」という恐怖感に訴える悪い洗脳である。生活保護や親族を頼らずに餓死したいくらかの人は、貧しさではなく、お金のないことは恥ずかしいことだと考える経済洗脳のために死んだというべきである。
社会がこのような形で、金持ちへの願望を植えつけるのはなぜか?それは公務員に生産性がないから税収をあげようと所得の向上を刷り込むためである。一般会計で年度内で消費するような「復興財源」も、もっぱら公務員の給料に消えるまやかし以外のなにものでもない。代わりに、苫米地氏は、BIS規制を外すという条件の下、被災した企業や個人に対する低利の長期貸出を提案する。
本来人類はサステイナブルな生活を送る存在であり、「お金持ちになりたい」という経済洗脳は、アメリカの経済に始まる過去数十年ほどの出来事にすぎない。こうした経済洗脳を進めるためにアメリカで用いられたのがスポーツ・セックス・スクリーンという3S政策であり、このやり方は功を奏し、消費経済を活性化するほど、税収に結びついたのである。
大企業の論理と政府の論理が一体化したときに生まれたアイデアが、消費経済という「国民への洗脳」だったのである。p38
こうした経済洗脳から脱して、幸福になるためには、物事をあるがままに見るようにすればいいだけである。偽の豊かさとは、他の人が消費させたいものを消費させる欲求を増大させることからくる幻想であり、真の豊かさはこのようなhave to ではなく、want to 自己の内なる欲求から価値を生み出すことによってのみ生まれる。
同時に、金持ちを資産の多寡ではかることは無意味である。金持ちとは、自分が必要なものを買うために必要なお金に困らないことであり、買いたいものがなければ10万円しか持っていなくても金持ちなのだ。
第2章以下では、支出優先型の貧乏脳から脱出し、収入先行型の金持ち脳へと脱却するための必要な条件を明確にすることにあてられています。そのためには、お金では手にはいらないものの価値を知ること、同時に自分は稼げる人間であるというエフィカシー(自己評価)を高めることが必須であると苫米地氏は説きます。
さらに日本経済や社会の意表をついた再建策をいくつも出した後、第3章ではわれわれの中の「貧乏脳」とか何かという本質に入ります。
「貧乏脳」は不満足脳と低自己評価脳からなり、記憶や想像力に頼らず、同じものを何度も経験したがることから、不満が生じ、そしてこの不満をお金で解消しようとするから、貧乏脳から脱却できなくなるのである。これこそが資本主義による洗脳である。たとえ、「フリーター」であっても、不満を感じず、自分の能力に対する高い評価があれば、金持ち脳であり、逆に、漠然と「正社員」や「公務員」をめざすのは、そこに職種への憧れや使命感がないのであれば、単なる経済的保証の元に、奴隷のように働きたいという願望に基づく貧乏脳なのである。
第4章では、どうすればこうした貧乏脳から脱出できるのかが語られます。
金持ち脳になるために一番重要なのは、収入を増やすことではなく、支出をコントロールすることなのである。p141
貧乏と感じるのは収入のせいでも不景気のせいでも、収益の上がらない職業のせいでもない。支出をする「自分自身」が、いちばんの問題なのである。p143
支出のコントロールができないのも、欲求をメディアによって支配されているからであると苫米地氏は主張する。その中でも、最大の元凶はテレビである。これはテレビと言う媒体の性質よりも、日本のテレビの番組予算の低さ、そして小学校5年程度の視聴者を想定している番組クオリティの低さ、そしてそのほとんどが広告代理店にあやつられた広告収益主義から来ている。ハリウッドの映画は桁違いの予算をつかっているし、そうしたはるかに質の高い作品がネット上で見られる時代にわざわざ見る理由は思い当たらない。情動に訴える映像メディアよりも、活字メディア、とりわけ本や新聞を情報源とするのが正しいと苫米地氏は言う(本書では、他の本では顕著な記者クラブ批判やクロスオーナーシップには触れられていない)。
本の製作には、広告代理店が関わらないため、唯一、貧乏脳をつくらないメディアと言える。また、そこに詰め込まれている知識量は膨大であり、新聞の比ではない。pp161-162
「金持ち脳」の考え方からすると、本当にほしい30万円のものと安い10万円のもののいずれを買うべきか。この場合、返済できるならローンを組んでも30万円のものを買うのが正しい。但し、求めるのは機能だけに絞るべきだ。持ち家と賃貸なら賃貸。返済金利と自己負担の補修費と固定資産税の三つから当然導かれる結論である。
そして、第5章では「貧乏脳」から「金持ち脳」に乗り換える仕事の選び方が語られます。
メディアによる経済洗脳から免れても、仕事を嫌々やっている人は貧乏脳に陥る危険がある。だから、好きなことを仕事にすべきである。
やりたくない仕事をしている人は、仕事の外に満足を求めようとするため、どうしても支出が多くなりがちだからである。p184
邱永漢氏の言うように、「いちばんの金儲けの方法は天職を持つことである」。
金持ち脳になるいちばんの王道は、仕事から満足を得ること、そのためには好きなことを仕事にすることである。p186
天職とは、自分の得意なことを仕事にすることであり、選んだ時点の収入が低くても、得意分野の技術に磨きをかけ没頭しなければならない。
「好きなことを仕事にする」という言葉への誤解を、苫米地氏は以下の文章で見事に断ち切っている。仕事にする上で、重要なのはマーケットである。マーケットのないところで、好きなことをやってみてもそれは趣味にしかならない。
趣味にはマーケットを獲得するという発想がないため、仕事には適さない。したがって、好きなことを仕事にすると言っても、趣味のように好きなことを仕事にするということではない。マーケットの役に立つことで好きなことを仕事にする、ということなのである。p199-200
苫米地氏の考えは、昔ながらの知足(ちそく=たるを知る)の考えに似ているように見える。しかし、大きな点での違いがある。それは知足の考えは、現状に対する諦念、あきらめの気持ちに基づいているのに対して、天職とはあくまで高いエフィカシー(自己評価)に基づいた自由な選択の結果なのである。報酬の限界と能力の限界を混同してはいけないと苫米地氏は言う。
報酬の限界はイコール自分の限界ではない。たとえ給料が低い職業でも、自分が求め、選んで就いたのであれば、それがあなたの天職である。なぜ、そのことで自分をおとしめる必要があるというのか。人がなんといおうと。自信を持って精一杯、勤めめればいいのである。p203
この言葉、至言だと思う。