「井口博士のブログ」から転載。
井口博士という人は人種差別的な発言が多くて(私も人のことは言えないがw)、そのあたりはあまり感心しないのだが、物の見方が面白いので、愛読するブログの一つである。まあ、人それぞれ癖はある。
さて、前回、詩は論理ではない、と言ったが、下の井口博士の言葉を一部借りれば、(人間の感覚や思考を通して見た)この世界そのものが情緒の世界であり、数学的には記述できない(つまり、論理を超越している)ものだ、と言える。そしてそれは論理を絶対視する西洋的思考では捉え難いものだろう。もちろん、泰西名詩はたくさんあるが、日本人ほど自然ともこの世界のすべてとも一体化した繊細な情緒を持っている民族は稀だろうと思う。それが端的に顕れたのが俳句や短歌という芸術であり、俗化してその本質を失ったとはいえ、華道や茶道もそうだろう。日本語そのものも、論理よりも情緒の表現に向いているのである。
論理というものの本質は「抽象」である。
「抽象」の本質は、その前段階の「捨象」にある。
論理形成に必要な要素以外をすべて捨てる、という作業が「捨象」である。
たとえば、人間というものをただ労働力という部分にだけ還元(「元」つまり「要素」に還すこと。「もと」に還す意味の「還元」ではない)し、それ以外の要素を捨象することで、企業経営が「合理的」になるし、それによって確かに企業は利潤を多く上げることができる。労働者に支払う「労働の対価」、つまり賃金をできるだけ切り下げることで企業利潤を上げるというのも「合理的」なことだ。だが、そうした合理的思考の行き着く先は、労働者にとっての地獄しかないだろう。
それが現在世界中で起こっていることだ。
つまり、新自由主義とは合理主義とエゴイズムの複合体だと言えるだろう。
この世界を非人間的世界にしているのも「論理一辺倒」の思考形態や論理絶対主義ではないだろうか。
話が飛躍したが、この世界を人間的に見れば、その本質は情緒の世界であり、それは「いわく言い難い」ものである。だから、言語だけで物事を説明しようとする西洋人などには理解されにくい。彼ら(の大部分)にとっては言語とは論理の世界であるのだから。そういう低レベルの思考しかできない連中(おっと、私も人種差別的発言をしたw)がこれまで世界を侵略し、その支配の軛(くびき)の下に置いてきたことが世界中の不幸の原因だろうと私は思っている。
ある詩人の言葉を少しアレンジして書こう。
この世界そのものは白い光のようなものだ。その光が、人間というステンドグラスを通してさまざまな色に彩色され、映像を作る。それが芸術であり、すべての人間の営為である。
(以下引用)*色字部分は引用者(夢人)が、見易くするために変えたもの。
岡潔博士は、この宇宙で数学によって表現される世界もあることにはあるが、数学や数式では表せない世界もまた存在する。むしろ、この宇宙の本質はそっちの方にあって、ほとんどは数学では記述できないものなのだ、と考えたのである。
そして、そうしたものを「情緒」だと考えた。
「情緒」の前では、時間も空間も意味はない。だから、この宇宙では、時空間というのは、人間が便宜的に数式や数学に乗せるために使った方便の一種にすぎないよ、と言っていたのである。
言い換えるならば、数学で表わされるものは、何らかの「量的」(距離や重さなど)に表現できる世界であり、数学で表されないもの=「質的」に表現するほかないというような世界も存在するということである。数学で書けた瞬間にそれは「量的世界への射影」に過ぎなくなってしまう、というわけだヨ。
最近、やっと欧米人やこの地球上の他の国々の人たち、や他の民族の人たちにも、ほんのちょっとだけ、我々日本人が伝統的に持っている感性やその感じ方、すなわち、「情緒」について分かりつつあるようである。(もちろん、韓国人にはわからない。しかしどうも本国の北朝鮮人には分かるようである。)
外国人のそんな「無謀な」努力を垣間見せてくれるものがあるようなので、それをここにもメモしておこう。以下のものである。
海外「生まれる国を間違えた」 日本人の独特な美意識に外国人が感心
今回の翻訳元は以前にも何度かお世話になったチャンネルなのですが、
この動画では「日本人の美意識」についての私見を披瀝していらっしゃいます。
投稿者さんは冒頭、「美に対する感覚は人それぞれ」とした上で、
「それでも日本人が一般的に持っている美意識がある」として、
上の写真を示し、日本人の感覚を分かりやすく説明されています。
・通常左側の桜が満開に咲いている状態が好まれるだろうが、
日本人は今にも芽吹きそうな蕾の状態や、散ってしまった状態を好む。
・すべての日本人があからさまな美しさを愛するわけではなく、
花開く寸前の桜や、散り始めているがそこにわずかに残る花が内包する美など、
花開き、そして散りゆくまでのプロセスにも美を見出す。
といった点が説明されています。
17文字という短い言葉で構成される俳句の、その奥に存在する美しさにも触れており
(英訳された俳句を見た時、長文になっていたことに驚いた、という点も)、
改めて、秘められた美を愛でる日本人の特性を指摘していらっしゃいます。
Japanese sense of beauty
(中略)
(あ)まあ、この女性の主張は、
「日本人は表に現れた、あからさまな美(obvious beauty)の他に、その背後にある、隠された美(Hidden beauty)を感じ取る。そういう美意識を持っている。」
という主張ですナ。
(中略)
(い)さて、この話はこの女性が思っている以上に深い問題につながっている。だから、ついでにここにメモしておこう。
この女性のやっていることを見れば、最初に岡潔博士が
「数学で記述できる世界ばかりがこの世界ではないよ」
と言ったという意味が分かるはずである。この女性は、我々日本人が普通に感じている世界を英語に表現しようとしているわけだが、それが実に難しいかよくわかるからである。
つまり、
「英語(欧米語)で表現できる世界だけが世界ではない」
とこの女性は言わんとしているわけである。事実、そうなのである。「日本人の感性」を英語で表現することは不可能である。外人が自ら日本語を学び、日本で生活していくうちに、自ずと理解できるようになる。そういうものである。
井口博士という人は人種差別的な発言が多くて(私も人のことは言えないがw)、そのあたりはあまり感心しないのだが、物の見方が面白いので、愛読するブログの一つである。まあ、人それぞれ癖はある。
さて、前回、詩は論理ではない、と言ったが、下の井口博士の言葉を一部借りれば、(人間の感覚や思考を通して見た)この世界そのものが情緒の世界であり、数学的には記述できない(つまり、論理を超越している)ものだ、と言える。そしてそれは論理を絶対視する西洋的思考では捉え難いものだろう。もちろん、泰西名詩はたくさんあるが、日本人ほど自然ともこの世界のすべてとも一体化した繊細な情緒を持っている民族は稀だろうと思う。それが端的に顕れたのが俳句や短歌という芸術であり、俗化してその本質を失ったとはいえ、華道や茶道もそうだろう。日本語そのものも、論理よりも情緒の表現に向いているのである。
論理というものの本質は「抽象」である。
「抽象」の本質は、その前段階の「捨象」にある。
論理形成に必要な要素以外をすべて捨てる、という作業が「捨象」である。
たとえば、人間というものをただ労働力という部分にだけ還元(「元」つまり「要素」に還すこと。「もと」に還す意味の「還元」ではない)し、それ以外の要素を捨象することで、企業経営が「合理的」になるし、それによって確かに企業は利潤を多く上げることができる。労働者に支払う「労働の対価」、つまり賃金をできるだけ切り下げることで企業利潤を上げるというのも「合理的」なことだ。だが、そうした合理的思考の行き着く先は、労働者にとっての地獄しかないだろう。
それが現在世界中で起こっていることだ。
つまり、新自由主義とは合理主義とエゴイズムの複合体だと言えるだろう。
この世界を非人間的世界にしているのも「論理一辺倒」の思考形態や論理絶対主義ではないだろうか。
話が飛躍したが、この世界を人間的に見れば、その本質は情緒の世界であり、それは「いわく言い難い」ものである。だから、言語だけで物事を説明しようとする西洋人などには理解されにくい。彼ら(の大部分)にとっては言語とは論理の世界であるのだから。そういう低レベルの思考しかできない連中(おっと、私も人種差別的発言をしたw)がこれまで世界を侵略し、その支配の軛(くびき)の下に置いてきたことが世界中の不幸の原因だろうと私は思っている。
ある詩人の言葉を少しアレンジして書こう。
この世界そのものは白い光のようなものだ。その光が、人間というステンドグラスを通してさまざまな色に彩色され、映像を作る。それが芸術であり、すべての人間の営為である。
(以下引用)*色字部分は引用者(夢人)が、見易くするために変えたもの。
岡潔博士は、この宇宙で数学によって表現される世界もあることにはあるが、数学や数式では表せない世界もまた存在する。むしろ、この宇宙の本質はそっちの方にあって、ほとんどは数学では記述できないものなのだ、と考えたのである。
そして、そうしたものを「情緒」だと考えた。
「情緒」の前では、時間も空間も意味はない。だから、この宇宙では、時空間というのは、人間が便宜的に数式や数学に乗せるために使った方便の一種にすぎないよ、と言っていたのである。
言い換えるならば、数学で表わされるものは、何らかの「量的」(距離や重さなど)に表現できる世界であり、数学で表されないもの=「質的」に表現するほかないというような世界も存在するということである。数学で書けた瞬間にそれは「量的世界への射影」に過ぎなくなってしまう、というわけだヨ。
最近、やっと欧米人やこの地球上の他の国々の人たち、や他の民族の人たちにも、ほんのちょっとだけ、我々日本人が伝統的に持っている感性やその感じ方、すなわち、「情緒」について分かりつつあるようである。(もちろん、韓国人にはわからない。しかしどうも本国の北朝鮮人には分かるようである。)
外国人のそんな「無謀な」努力を垣間見せてくれるものがあるようなので、それをここにもメモしておこう。以下のものである。
海外「生まれる国を間違えた」 日本人の独特な美意識に外国人が感心
今回の翻訳元は以前にも何度かお世話になったチャンネルなのですが、
この動画では「日本人の美意識」についての私見を披瀝していらっしゃいます。
投稿者さんは冒頭、「美に対する感覚は人それぞれ」とした上で、
「それでも日本人が一般的に持っている美意識がある」として、
上の写真を示し、日本人の感覚を分かりやすく説明されています。
・通常左側の桜が満開に咲いている状態が好まれるだろうが、
日本人は今にも芽吹きそうな蕾の状態や、散ってしまった状態を好む。
・すべての日本人があからさまな美しさを愛するわけではなく、
花開く寸前の桜や、散り始めているがそこにわずかに残る花が内包する美など、
花開き、そして散りゆくまでのプロセスにも美を見出す。
といった点が説明されています。
17文字という短い言葉で構成される俳句の、その奥に存在する美しさにも触れており
(英訳された俳句を見た時、長文になっていたことに驚いた、という点も)、
改めて、秘められた美を愛でる日本人の特性を指摘していらっしゃいます。
Japanese sense of beauty
(中略)
(あ)まあ、この女性の主張は、
「日本人は表に現れた、あからさまな美(obvious beauty)の他に、その背後にある、隠された美(Hidden beauty)を感じ取る。そういう美意識を持っている。」
という主張ですナ。
(中略)
(い)さて、この話はこの女性が思っている以上に深い問題につながっている。だから、ついでにここにメモしておこう。
この女性のやっていることを見れば、最初に岡潔博士が
「数学で記述できる世界ばかりがこの世界ではないよ」
と言ったという意味が分かるはずである。この女性は、我々日本人が普通に感じている世界を英語に表現しようとしているわけだが、それが実に難しいかよくわかるからである。
つまり、
「英語(欧米語)で表現できる世界だけが世界ではない」
とこの女性は言わんとしているわけである。事実、そうなのである。「日本人の感性」を英語で表現することは不可能である。外人が自ら日本語を学び、日本で生活していくうちに、自ずと理解できるようになる。そういうものである。
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