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自分で獲物が取れなくなった動物はひっそりと自ら死んでいく

「人生は冥土までの暇潰し」というブログから抜粋転載。
私の持論は、自分で自分の面倒が見られなくなった人間は、殺処分するのがいい、というものだが、もちろん、高齢者や身体障害者であっても、頭脳明晰で、頭脳労働などで金を稼げる人間は金を払って他人に自分の世話をさせて生きればよい。それも自分で自分の面倒を見ている、ということだ。また、老齢年金で生きている人間は、(単純に言えば、だが)自分で払った金の払い戻しを受けて生きているわけで、それも自分で自分の面倒を見ている、と言っていい。しかし、それも75歳くらいが限度だろう。それを越せば、「過剰払い戻し」だ、というのが私の考えだが、べつに私の考えが正しいと他人に押し付ける気はない。
社会に経済的体力があって、働く能力の無い人々を十分に養えるならば、それこそ素晴らしい社会であるし、実は現代の世界というものは、過剰な生産能力があり、社会システムを変えて「富の配分」を適切にしたら、簡単にそれはできる、と私は思っているのだが、現在の社会システムをそのままにしていながら「働けない人間」まで養うのは無理だ、という話なのである。
老いた親を施設に入れる、というのは相当な親孝行と言うべきであり、施設に入れるのにどれだけの金がかかるか。それを、普段は自分で面倒も見ていない親戚連中が非難する、などという話を聞くだけで、怒りが湧いてくる。
まあ、自分で親の面倒を見たい、という人はそうすればいいし、施設に入れるのもいい。だが、世の中には、老親を施設に入れる余裕も無い人間が、老親の面倒を見るために悲惨な生活を強いられている、という事例が無数にあるはずだ。はたして、痴呆症の老人は、子供の生活をそういう悲惨のどん底に陥れる権利があるのだろうか。
ついでに言えば、そういう高齢者を無理に生き延びさせることで利益を得ている人々も無数にいる。



(以下引用)




映画を見終わった帰り、東京新聞に載っていた週刊現代の広告に、大変興味深い記事があったのを思い出し、駅の売店で同誌を買い求めた。亀さんが関心を抱いた記事とは以下の記事である。

14031203.jpg

「老いた親の捨て方」とは何とも非情なタイトルかと思うかもしれない。しかし、同特集にじっくりと目を通せば分かることだが、至極真っ当なことを書いているのだ。殊に、実際に老親の介護を体験した人であれば、同記事の内容に心から同意できるはずだ。一方、実際に介護を体験をしたことのない人たちの場合、たとえ同記事に目を通したとしても、非人情な記事と受け止めるだけで終わる可能性が高い。このように、実際に介護をしている者、そうでない者との間に横たわる溝は途方もなく深い。

以下はそのあたりを述べている同特集の行である。小柄で虚弱体質の娘(58歳)の話なのだが、彼女には痴呆症の父親がおり、悩んだ末に父親を施設に入れたところ、以下のような事が起きたのである。

(父親を施設に入れることが)最善の選択だと、悩み抜いた末の決断だった。
「ところが父を施設に入れたと知るや、他県に嫁いでいる妹や親族から、何度も避難の電話が入るようになったんです。妹は『姉さんは非情すぎる』と言い、親戚は『姥捨て山に捨てたも同然だ』と私を責めました。そんな日々が続き、やはり自分は間違っていたのかと、父の顔を見にいくのも苦痛になってきました」
 親を捨てることに関して依然として世間の風当たりは強く、その思いを口に出すことすらままならない。

『週刊現代』3月22日号 p.174



ネットで確認したところ、同記事を取り上げているブログが数本あったのだが、なかでも亀さんが共鳴したのが以下のブログ記事だった。
親を捨てるのは親不孝?自称「親孝行」の人生はそんなに美しいのか

読者は将来の老親の介護について、どのように考えているのだろうか?











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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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