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バーで首吊りする、という話

私の英語力は高校一年生の平均レベルかと思うが、本はわりとたくさん読んできた部類なので、英語の翻訳などをする時には、そうした「基礎教養」によって類推できることが多い。本職の英語教師などは案外と本を読まない人が多く、(生徒のほうはもちろんそれ以上に読まない。)少しひねりの利いた英文やユーモアを交えた表現などになると手も足も出なくなる、という例を私は職場(塾や予備校)などでよく見たものである。
で、そういう例は教育の現場だけのことではない。
昨日、市の図書館から借りた、村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」(言うまでもなく、レイモンド・チャンドラーの古典的ハードボイルド小説だが、私は未読であった。)の後書きを先に読むと、こういう一節にぶつかった。

たとえば、第36章で自殺の方法についてあれこれ例をあげるところで、
They have hanged themselves in bars and gassed themselves in garages.
という一節がある。直訳すれば「人はバーで首を吊ったり、ガレージでガスを吸ったりして自殺する」となるわけだが、これは文章としてどうも変だ。というのは、チャンドラーはここで自殺の方法について、文章が対になるかたちできれいにいくつもの例を列挙しているからだ。となると、barはbarnの誤植ではないかということになってしまう。「人は納屋で首を吊ったり、ガレージでガスを吸ったりして自殺する」、これなら話がわかる。バーで首を吊るというのは、どう考えても不自然だ。必然性がない。(中略)そのようなわけで、僕は熟考の末に「納屋説」をとることにした。ちなみに清水俊二さんも「納屋説」をとっておられる。意見が一致したわけだ。


私はこれを読んで、即座に「馬鹿な! これはhangover(二日酔い)の洒落に決まっているだろう!」と心の中で叫んだものである。
洒落である以上はもちろん直訳は不可能であり、「人はバーで飲みすぎて二日酔いになって溺死するか、ガレージで排気ガスを吸ってガス中毒死する」とでも訳するのがいいだろう。これなら、「溺死」と「ガス中毒死」、つまり、肺に死因がある死に方の並列で、「対」にもなっている。(もちろん、「二日酔い」で溺死する、は誇張表現。)
村上春樹氏や清水俊二氏がチャンドラーのこの一文を読んで、「hangover」の一語を想起しなかった(できなかった)というのは信じ難いように思われるかもしれないが、酒を飲む人間ならば、「バー」と「二日酔い」は即座に連想するのだが、あまり酒を飲まない人たちならば、こういう連想が働かなくても不思議ではない。それに、もともと日本人は翻訳をする時に、そこにユーモアが含まれているということを見逃しがちなものなのである。
要するに、学校教育とユーモア(あるいは幅広い教養)は対立する存在であり、その影響は教育が終わった後でも、日本人の頭脳を支配している、ということである。


(3月18日追記)

上記の「バーで首吊り」の本文部分を読むと、ここはユーモアを入れる場面ではなさそうだから、上に書いたのは私の間違いかもしれない。もっとも、マーロウは死んだ男(ロジャー・ウェイド)にそれほど好意を持っているようでもないから、やはり、シニカルなユーモアの多いマーロウの心の中の発言として、ここを洒落だと解釈してもいいような気もする。人が死んだ時に、様々な自殺の方法について対句めいた御託を並べること自体、不謹慎とも言えるのだから。
もう一つ、気になったのは、別の部分で、ある拳銃を「モーゼルPPK」と書いてあったことだが、かつては男の子だった人間ならたいてい知っているように「PPK」はワルサーである。もしかして、「PPK」とはある種の共通の仕様で、モーゼルにもあるのかな、と思ってネットで調べると、次のような文章があった。これはチャンドラーの書き間違いらしい。そもそも、モーゼルは大型拳銃として有名であり、小型拳銃も作っていないでもないだろうが、小型拳銃としてモーゼルの名前を使うというのは、チャンドラーの気が知れない。とは言っても、この作品が稀に見る傑作であることは確かであった。何より、「推理小説」としても傑出している。事件の謎解きが終わったはずなのに、まだページ数が残っているので、どんな蛇足的エピローグを書いているのか、と思ったら、最後で背負い投げをくらってびっくりした。ただし、あまり気分の良くないどんでん返しだったが。こうした「裏切り」で終わるのがハードボイルドのお約束とは言え、探偵という連中は、いったい何が悲しくて裏切られるためにあくせく苦労しなければならないのか。

(以下引用)

蛇足ながら、前の章に続きこの章でも、テリーの妻の所有する銃、つまり殺害に使用された凶器だが、モーゼルP.P.K.7.65ミリと書かれているが、ご存知のとおり、P.P.K.はワルサー社製の拳銃で、モーゼルではない。イアン・フレミングの007シリーズにおいて、ジェイムズ・ボンド愛用の銃として知られているので、今では誰でも知っていることだが、原文にモーゼルとある以上、翻訳者が勝手に訂正することはできない相談なのだろう。チャンドラーともあろう作家が何でこんな初歩的なミスを犯したか。銃器には詳しくなかったのかもしれないが、編集者や出版社は専門家だ。気がつかなかったのだろうか。どうにも腑に落ちない。






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