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老人向きの仕事

「紙屋研究所」記事で、私はアンチマルキシズムなので紙屋氏の意見に全面的同意はしないが、高齢社会での老人の生き方についてのヒントにはなるだろう。
私が一番お勧めするのは「野外労働」である。スキルや知識があれば造園(庭師)など、老人向きで、人間関係の苦痛が無く、自然の中で働く爽快さがある、最高の仕事だと思う。農業はそれにくらべるとリスクが高い。つまり、作った農作物をいかにして売るかという「商売」の部分がきついだろうからだ。それに、気候異変によって農作物がいっぺんにダメになることもある。
運転手などは、仕事中に脳卒中になったら困る。まあ、ほかにもあまり人が目を向けないいい仕事はいろいろあるだろう。道路や公園の清掃など、実に老人向きではないか。そういうのは既にシルバー何とかという老人雇用組織があるか。

(以下引用)

坂本貴志『ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う』


 坂本貴志『ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う』(講談社新書)はなかなか刺激的な本である。政治的に見れば日本の高齢者政策の根本的な問題点を指摘したくなることもあるが、そうした「大きな視点」をひとまず脇において、読んでみる。

 


 サブタイトルで大体言いたいことの本質を言っているとは思うが、坂本によれば、政府統計では、リタイア年齢である65歳から69歳までの世帯(2人以上)定年後の月収は年金を中心に25万円。他方で支出額は32.1万円。7〜8万円の収支差がある。


 逆に言えば、月10万円稼げる仕事があれば、貯金の有無にかかわらず、「余裕のある」生活ができるということになる。


 十分な年金を保障せず、年老いても働かせる社会が「地獄絵図」という批判は承知しているし、ぼくもそう思うところはある。


 そのためには経済の果実のうち、社会保障へ振り向ける分を、せめてヨーロッパ並みにするという政治の根本転換が必要であるが、その論点とは別に、ごく当面の「改良」策として、高齢者がプチ就業をして年金の不足分を稼ぐという方法がある。


 坂本の本は刺激的な論点が多いけど、この記事ではその論点に絞って伝える。


 


 


 坂本は、就業人口のうち、デスクワークとノンデスクワークの割合を紹介する。


 デスクワークのみに従事する人は、管理職145万人、事務職1145万人、専門・技術職284万人、合計1573万人で、就業人口全体のおよそ4分の1だ。


日々デスクに向かってする仕事は、労働市場のほんの一部分でしかないのである。(坂本p.103)


 デスクワークもノンデスクワークもする「中間職」(医療、教員、営業職など)が949万人。


 これに対して、農林水産業、生産工程関連職、販売職、理美容師、介護士、飲食店の調理、保安、輸送・機械運転、建設、運搬・清掃などノンデスクワーカーは3068万人で全体の半数以上となる。


日本人の仕事を因数分解すると、こうした現場仕事が仕事の多数派を占めるのである。(坂本p.104)


 


 高学歴を取得し、大企業などでデスクワークを中心とした管理職になっていく人と、そうでない、ノンデスクワークの現業の人たちに人間は分かれるのだ、という職業観を坂本はじっと見つめる。それは、定年後もデスクワークをしたい、しかもできれば大企業で…というよくある願望となる。生涯において、マルクスがいうところの「全体労働者」(社会全体や、ある生産部門や、ある工場でのチームとなって生産を行う労働者の集合体)の「頭脳」の部分となって、デスクワークをする人間と、ノンデスクワークをする人間に分かれる————そうした考え方を坂本はじっくり眺めた上で次のように諭す。


 


 市場メカニズムにおける競争のもとで、競争に勝ち残った能力が高い者が管理職や専門職などで働き続け、そのほかの仕事は競争社会のもとで適切に分業をすればよいと考える人もいるかもしれない。


 しかし、生涯を通じてここまで厳格に分業をする社会は、果たして望ましいといえるのか。みながみなホワイトカラーで成長を続けるキャリアを志すことが、社会的に本当に必要なことなのか。すべての人がその人の持つ能力の高低にかかわりなく、生涯のライフサイクルのどこかで無理なく社会に貢献する世の中は、あって許されないことなのか。(坂本p.104-105)


 坂本によれば、政府統計では、リタイア年齢である65歳から69歳までの世帯(2人以上)定年後の月収は年金を中心に25万円。他方で支出額は32.1万円。7〜8万円の収支差がある。


 逆に言えば、月10万円稼げる仕事があれば、貯金の有無にかかわらず、「楽」に生活ができるということになる。


 月10万円。


 レジ、警備、介護、調理、ドライバー、清掃…などといった現業的なエッセンシャルワークが想定される。それを短時間の分担で稼ぎ出せる、というわけである。もし夫婦であればなおさらだろう。


 これらは求人が多いのに人手が不足している。


世の中が本当に必要としているのに成り手がいない仕事は、飲食物調理や接客、介護、保安、自動車運転、運搬・清掃などの現場仕事であることがわかる。(坂本p.99-100)


 現役時代にデスクワーク、管理職であったり事務職であったり技術職であったりした経歴を無理に続ける必要はなく、全く新しく、社会が必要としている仕事を短時間でも分担して必要なお金を稼ぐようにしてはどうか、と坂本は勧める。


 


 このような状況のなか、一つ確実に言えることは、多くの現場仕事は世の中を豊かにするとても大切な仕事だということだ。いくら情報技術が発達し、経済が高度化しても、配達員や農業従事者の仕事が不要になることはないだろう。つまるところ私たちの生活を豊かにしてくれる仕事は、こうした人々が担っている仕事なのである。(坂本p.104)



 誰しもこうした方々の仕事によって助けられているにもかかわらず、心のどこかでこれらの仕事は自身とは関係のないものだと考え、遠ざけている現実があるのではないだろうか。


 少なくとも、現実のデータを確認すると、現場仕事は誰にとっても無縁ではない。多くの人は人生のどこかでこうした仕事で夜中に貢献するという選択を行なっているのである。


 生涯のライフスタイルのなかで、人は様々な仕事に携わる。


 職種に関するデータの数々は、現代社会における資本主義の矛盾を投げかけているような気がしている。(坂本p.105)


 


 坂本はこの節のラストに「現代社会における資本主義の矛盾」という言葉を使っている。


 知ってか知らずか、このおおむね管理的職業である「デスクワーク」と、現業であり社会の維持に必要な労働である「ノンデスクワーク」という分類と労働力の分配はマルクス共産主義論を思い出させる。生産的労働における「頭脳」と「手足」の分離。必要労働と剰余労働。


 最近、若い人たちと勉強した『資本論』第1部第15章のラストは以下のようなものである。


労働の強度と生産力が与えられたものであるならば、すべての労働能力ある社会成員のあいだに労働が均等に分配されていればいるほど、労働の自然必然性を一社会層が自己自身から他の層へ転嫁しうることが少なければ少ないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分は短くなり、したがって、個人の自由な精神的および社会的活動のために獲得される時間部分は大きくなる。労働日の短縮にたいする絶対的限界は、この方面から見れば、労働の普遍性である。資本主義社会においては、一階級にとっての自由な時間は、大衆の全生活時間を労働時間に転化させることによって産み出されるのである。(マルクス資本論 3』岩波書店Kindle No.609-615)


 ここではマルクスは労働時間の短縮と問題を結びつけているが、全社会のうち、必要労働と剰余労働をおこなって社会を支えている人と、そうした労働をせずに支えられている人との対比をした上で、もしも管理的な仕事だけで、社会を維持するのに必要な労働にたずさわっていない人が、そうした労働を担うようになれば、荷が軽くなるよね、と訴えている。*1


 わかりにくいけど、上記でマルクスが「労働の普遍性」と言っているのは、一部の人だけが汗水垂らして働くのではなく、みんなで社会の維持に必要な労働を担うという意味だ。


 まあ、資本主義のもとでは、それをギリギリの労働力でやらせようとする圧力が続くのでなかなかうまくはいかないわけだが。


 ただ、膨大に生まれる「定年後の人々」がこうしたエッセンシャルワークを短時間で担うという社会の姿は、人手不足の緩和には一定役に立つヒントにはなるだろう。


 


 「定年後の人生」は共産主義と相性がいい。


 えっ!? 何ちゅうことをお前は…と思うかもしれない。


 まあ聞けや。


 それは坂本の著書の第1部を読んでもらうとわかるが、カネや名誉を得るための激しい競争という価値観から50代くらいで限界が見え始める。一部の人を除いて、そのような就労観・人生観から降りてしまうのだ。


 そして高齢な人ほど仕事に満足を感じ(定年後に急上昇し、最高になる)、「他人のために役立つこと」とか「体を動かすこと」への価値を次第に大きく感じるようになる。


 月10万円の仕事、あるいは数万円の小さな仕事は、「地域に貢献」とか「他人に役立つ」という価値観と整合的である。「生活の百姓」「月3万円のビジネス」「半農半X」というようなスタイルが思い出される。


 


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 つまりだ。


 社会のために短時間の必要な労働をしながら、あとは趣味だの地域活動だの家庭のことだのに時間を割ける。


 おっと、これはマルクスが夢見た「労働時間の抜本的短縮による自由時間の創造」ではないのか…?


 このように感じる基礎はどこにあるのかといえば、貧しいながらも年金というベーシック・インカムが支給されるからである。最低生計費のゲタを履かせてくれるのである。


 いやいや、わーってる、わーってる。そんなに目を釣り上げなくても…。


 うん、お前たちが言いたいのは、こうだろ? 「こんな貧しい年金で何が共産主義だ!」「医療や介護の費用はうなぎのぼりで『死ね』って言われているようなモンだぞ!」「しかも高齢の就労? 死ぬまで働けってことじゃねーか!」ってことだろ?


 また、「小さな仕事」が現役世代の収入を押し下げたりする危険もある。例えば「高齢者の生活の足し」ということにされて、介護職の賃金が全く上がらなくなる恐れがある。


 それはそうなんだよ。


 だけど、逆に考えてみるんだ。


 年金を充実させて、医療費や介護費用を軽減したら、けっこう面白そうな未来がそこに来ていると言えないか? って。つまり貧しいながら、元になるカタチはできている。それをあとは補強していけばいいんだということだ。


 「小さな仕事」が現役世代の収入を押し下げたりする危険については、現役世代にもベーシックインカムをやったり、あるいは、最低賃金を大幅にあげ、教育費・住居費を社会保障に移転したりするという方法もある。


 だから別に、「日本の老後はもう共産主義的未来だ!」とかいうつもりはないよ。だけど、なんかそういうものにつながっていくヒントがあると思わない?


 


 まあ、そんな点が一番心に残ったんだけど、それ以外にも先ほど述べたようにいろんなことに気づかされた本だ。


 一点だけあげとくと、さっきチラッと言ったんだけど、50代での就労観の変化ね。なんか役員とか管理職っぽいことを全部引き受けて、無理に働くようなスタイルはもういいんじゃないか。


 そんなふうに思うきっかけになった。


 


*1:マルクスは『資本論』のこのあたり(第1部13章)で、機械化が進むことで、ブルジョアの「召使い階級」が膨大に増える話をしている。統計を示して実際にイギリスでたくさん存在することを紹介するのだ。「ブルジョアの召使い」っていうとアレなんだけど、例えばブルジョアに食事を出す料理人とか、ブルジョアをマッサージする施術師とか、ブルジョアの家の清掃作業者とか、そういう人なんじゃなかろうか。19世紀にはそれらは金持ちの独占物だったけども、21世紀の現在、高めのレストランの料理人、エステやリラクゼーション、家の清掃などはサービス業化し、労働運動と修正資本主義で所得の上がったプロレタリアートも利用できるようになっている。「召使い階級」の概念が変わって、そうしたサービス業を維持するためのコストを社会が担えるようになっている。「支配階級」の概念も、昔は頭脳労働全般が支配階級の仕事だったけども、20世紀から21世紀にかけて、それらはホワイトカラーに引き伸ばされ、事務職や技術職にも引き伸ばされているように思われる。


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酔生夢人
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男性
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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