昨日の「徽宗皇帝のブログ」でも少し触れたが、今回の参院選の結果を見て、伊丹万作の「政治に関する随想」というエッセイを想起したので、未読の方のために「青空文庫」からその文章を転載しておく。
伊丹万作は伊丹十三の父親で、映画監督・脚本家として有名。代表作は「無法松の一生」で、この脚本は稲垣浩監督の手で二度映画化され、どちらも日本映画屈指の名作となった。私自身が好きな邦画のナンバーワン(二つあるが、私は坂妻版より三船敏郎版を推す)である。
(以下引用)
私は生れてからこのかた、まだ一度も国民として選挙権を行使したことがない。
私はそれを自慢するのではない。むしろ一つの怠慢だと思つている。しかし、ここに私が怠慢というのは、私が国民としての義務を怠つたという理由からではなく、たんに芸術家として、与えられた観察の機会をむだにしたという理由からである。すなわち、いまだかつて投票場に近寄つたこともない私は、投票場というものがどんな様子のものかまつたく知らない。したがつて作家としての私は投票場のシーンを描写する能力がなく演出家としての私は投票場のシーンを演出する能力がない。そして、それは明らかに私の怠慢からきている。このような意味においては私は自己を責める義務があるが、その他の意味においては少しも自己を責める義務を感じたことがないし、今でも感じていない。
「選挙は国民の義務である」ということは、従来の独裁政治、脅迫政治のもとにおいてさえ口癖のようにいわれてきたが、そのような政治のもとにそのような言葉が臆面もなく述べられていたということほど、国民を侮辱した話はない。
選挙が国民の義務であるためには、その選挙の結果が多少でも政治の動向に影響力を持ち、ひいては国民の福祉に関連するという事実がなくてはならぬ。そんな事実がどこにあつたか。
なるほど国民の一部には選挙権が与えられ、有権者は衆議院議員を選挙することができた。しかし、国の政治はそれらの議員が行うのではない。政治は選挙とはまつたく関係のない政府の閣僚によつて行われる。そしてこれらの閣僚を決定するのは内閣の首班と軍人であり、内閣の首班を決定するものは、軍人と重臣であつた。このようにしてできあがつた政府は、その立法権を行使して国民の意志や利益とはまつたく相反した悪法を、次から次へ無造作に制定して行く。行政機関であるすべての官庁はただ悪法を忠実に履行して国民の幸福を奪い去ることだけをその任務としている。そして、この間にあつて国民の代表であるはずの議員たちは何をするのかというと、一定期間、その白痴的大ドームの下に参集して、もつぱら支配階級の利益を擁護するための悪法の制定に賛成し拍手を送る。それだけである。
政治をしない議員を選出するための選挙が国民の義務であり得るはずはない。いわんや、このようなむだな投票を棄権したからといつて、私は毫もおのれの良心に恥ずるところはない。むしろ、日本国民中の有権者の全部が、なぜいつせいに棄権して、あのような欺瞞政治に対する不信を表明し得なかつたかと残念に思うくらいである。
こうして、私は投票は例外なく棄権することに決めていたから、投票日がいつの間に過ぎたかも知らず、議会の経過を報道する新聞記事にも眼を通すことなく、要するに私にとつて、我国の政治というものは世の中で最も愚劣で、低級で、虚偽と悪徳に満ちたものとして、いかなる意味でも興味の対象となり得なかつたのである。
しかし、今は事情がすつかり違つてきた。国民の選んだ人たち、すなわち国民の代表が実際に政治を行うという夢のような事態が急にやつてきたのである。
こうなると、選挙というものの意味は従来とはまつたく違つてくるし、したがつて私も選挙、ひいては国の政治ということに至大の関心を持たずにはいられなくなつてくる。
いつたい、今まで私のように政治に対してまつたく興味を持たない国民が何人かいたということは、決して興味を持たない側の責任ではなく、興味を奪い去るようなことばかりをあえてした政治の罪なのである。国民として、国法の支配を受け、国民の義務を履行し、国民としての権利を享受して生活する以上、普通の思考力のある人間なら、政治に興味を持たないで暮せるわけはない。にもかかわらず、我々が今まで政治に何の興味も感じなかつたのは、政治自身が我々国民に何の興味も持つていなかつたからである。
そもそも「国民の幸福」ということをほかにして、政治の目的があろう道理はない。しかるに従来の政治が、国民の幸福はおろか、国民の存在をさえ無視したということはいつたい何を意味するか。
それはほかでもない。今までの我国の歴史をつうじて一貫している事実は、支配階級のための政治はあつたが、国民のための政治はただの一度も存在しなかつたということなのである。そして、実はここに何よりも重大な問題が横たわつているのである。国民は、今しばらくこの点に思考を集中し、従来の政体、国体というものの真の正体を見抜くことによつて始めて十分に現在の変革の意味を認識し、まちがいのない出発点に立つことができると信ずる。
なお、次に最も注意しなければならぬことは、支配階級のための政治は必ず支配階級のための道徳を強制するという事実である。すなわち、このような政治のもとにあつては、ただ、支配階級の利益のために奉仕することが何よりも美徳として賞讃される。したがつて、支配階級の意志に反して国民の利益や幸福を主張したり、それらのために行動したりすることは、すべて憎むべき悪徳として処刑される。このことは、従来国民として、いかなる行為が最も道徳的なりとして奨励せられてきたか、いかなる人々が最も迫害をこうむつたかを実例について具体的に検討してみれば、だれにも容易に納得の行く事実である。
すなわち、今の日本人にとつては政治的転換よりも、むしろ道徳的転換のほうがより重大だともいえるのである。なぜならば政治的転換はほとんど知識の問題として比較的容易に解決ができるが、支配階級の教育機関によつて我々が幼少のころから執念ぶかくたたき込まれた彼らの御都合主義の理念は、それが道徳の名を騙(かた)ることによつて、我々の良心にまでくい入つてしまつているから始末が悪いのである。昨日までの善は、実は今日の悪であり、昨日までの悪が実は今日の善であると思い直すことは、人間の心理としてなかなか容易なことではない。
しかし、改めてそこから出直すのでなくては、いつまでたつても我々はほんとうの政治を持つことはできないであろう。
もともと支配階級の押しつける道徳というものは、国民をして、その持つところのすべての権利、ときには生きる権利までも提供して自分たちのために奉仕させることを目的とするがゆえに、必然的に利他ということを道徳の基礎理念とする。
しかもこの利他ははなはだしく一方的のもので、利他的道徳を国民に強要する彼ら自身が国民に対して利他を実行することは決してないのである。この奇怪なる利他を正当なる自利に置きかえることによつて我々は新しい道徳の基礎を打ちたてなければならぬ。
特定の個人や、少数の権力者たちへの隷属や、犠牲的奉仕に道徳の基礎を置いたふるい理念をくつがえして、人類の最多数のため、すなわち、我々と同じ一般の人たちの幸福のために、自分たちの仲間のために奉仕すること、いいかえれば広い意味の自利をこそ道徳理念の根幹としなければならないのである。
この根本を、しつかり把握しさえすれば、現在我々が直面しているもろもろの事態に対処して行くうえに、おおむね誤りなきを期することができるはずである。たとえば、今回の選挙に際しても、多くの候補者のうちから、きわめて乏しいほんものをえり分けることは決してむずかしいことではない。
現在、私はまだ病床にしばりつけられている身体であつて、候補者に対する判断も、ラジオをつうじて行う以外に道がない有様であるが、現在までに私の得た知識の範囲では、あまりにも低級劣悪な候補者の多いことに驚いている。彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
試みに、彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。何よりもいけないことは、彼らのほとんど全部が時代感覚というものを持つていないことである。それは、彼らの旧態依然たる演説口調を二言三言聞いただけでもう十分なほどである。彼らは時代の思想を、時代の文化を理解していない。彼らは時代の教養標準からあまりにもかけ離れてしまつている、彼らは、蓄音機のようにただ、民主主義という言葉をくり返しさえすれば、時代について行けるように考えている。したがつてその抱懐する道徳理念は、支配階級に奉仕する奴隷的道徳をそのまま持ち越したものであり、いまだにこれを他人にまで強要しようとしている。
このような候補者の現状を見るとき、我々は制度としての民主政体を得たことを喜んでいる余裕がないほど、深い、より本質的な憂欝に陥らずにはいられない。
では、何がこのような現状を持ちきたしたのであろうか。現在の日本には、候補者として適当な、もつとすぐれた人材がいないのであろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはないと私は信ずる。しからば、なぜそのような優れた人材が出ないで、ぼろぎれのような人間ばかりがはえのように群がつて出てくるのか。
思うにそのおもなる原因は二つある。すなわち一つは国民の政治意識があまりにも低すぎることであり、一つは現在の立候補手続きが人材を引き出すようにできていないことである。
現在の国民大衆の政治意識がいかに低いものであるかは、彼らの大部分が反動的政党を支持して平然としていることによつて最も端的に表明せられている。国民大衆が反動勢力に投票するということは、露骨にいえば自分たちの敵に投票することであつて、いい換えればそれは民主主義に対する裏切行為であり、自殺行為なのである。
彼らはまだ、それだけの判断すらもできない。したがつて、自分の行為が何を意味するかを知らないで投票している。その結果、彼らは自分たちとはまつたく利害の相反した特権階級の御用議員どもを多数に議会へ送り込み、いつまでも国民大衆の不幸を長続きさせる政治をやらせようとしているのである。
現在の劣悪な候補者の多くは、明らかにこのような民衆の無知蒙昧を勘定に入れ、それを足場として一勝負やるために現われてきたものである。すなわち、彼らの自信の強さは、おそらく民衆の無知に正比例していると考えられるが故に、もしも、今後民衆に対する政治的教化が進歩し、民衆の政治意識が健全に発育すれば、彼らの大部分は自信を喪失して次第に消散するであろう。すなわち、現在のごとき粗悪な候補者どもを退治する唯一の道は、国民一般の政治教養を高め、もつて彼らの足場を取りはらつてしまうこと以外にはないのである。
しかし、それだけではまだ十分ではない。粗悪な候補者どもの退場にダブツて、真に民主的な文化国家にふさわしい、優秀なる人材、良心的な候補者を多数登場させなくてはならぬ。それには少なくとも現在の立候補に関する法令、手続などを根底から改めなくてはならぬ。
私一個の意見としては、立候補を成立せしめる基礎を候補者自身の意志に置く現行の法規を改め、これを候補者以外の多数の推薦者の意志に置くことに改め、候補者自身は選挙費用として一銭の支出も許さぬことにしなくては理想的な選挙はとうてい望み得ないと信ずる。また、かくすることによつてのみ、真に優秀な、そして私欲のない代議士を得ることができると信ずる。
右のような私案は、現在の過程においてはおそらく一片の理想論として、何人からも顧られることがないであろう。しかし、由来理想と現実とを区別する客観的な規準などというものはどこにもありはしないのである。たとえば、アメリカ人にとつてきわめて現実的な課題であつた原子爆弾の製造は、日本人にとつては一つの幻想にすぎなかつたではないか。しかし、この問題についてこれ以上執拗にうんぬんすることはここでは差し控えたい。
いずれにしても、日本の政治をよくするために、そして真にそれを民衆のものとするために、何よりも緊急なこと、そして何よりも有効な処置は、まず何を措いても民衆に対する政治教育を盛んにすることである。
それには種々雑多な方法があるであろうが、しかし、肝腎なことは、それを何人の手にもまかさず、我々自身の手でやるということである。ここに、勤労大衆の一人として映画の仕事にたずさわる我々の深く考えなければならぬ問題がある。
もちろん、我々は芸術を政治に奉仕せしめる愚を犯してはならない。また、娯楽と宣伝とを混同してはならない。しかし、同時に我々は映画の間口の広さを忘れることはできないし、その能力の多様性、浸透性を無視することもできない。
我々は、我々の芸術良心に従い、かつ十分それを満足させながら、現実の政治に役立つような映画を作ることも決して不可能ではないのである。このような場合に、その種の作品の中で、我々が政治というものをいかに扱うべきか、それに対する私の答はすでに今まで述べてきた中に十分明らかとなつているはずである。(四月九日)
伊丹万作は伊丹十三の父親で、映画監督・脚本家として有名。代表作は「無法松の一生」で、この脚本は稲垣浩監督の手で二度映画化され、どちらも日本映画屈指の名作となった。私自身が好きな邦画のナンバーワン(二つあるが、私は坂妻版より三船敏郎版を推す)である。
(以下引用)
政治に関する随想
伊丹万作
私は生れてからこのかた、まだ一度も国民として選挙権を行使したことがない。
私はそれを自慢するのではない。むしろ一つの怠慢だと思つている。しかし、ここに私が怠慢というのは、私が国民としての義務を怠つたという理由からではなく、たんに芸術家として、与えられた観察の機会をむだにしたという理由からである。すなわち、いまだかつて投票場に近寄つたこともない私は、投票場というものがどんな様子のものかまつたく知らない。したがつて作家としての私は投票場のシーンを描写する能力がなく演出家としての私は投票場のシーンを演出する能力がない。そして、それは明らかに私の怠慢からきている。このような意味においては私は自己を責める義務があるが、その他の意味においては少しも自己を責める義務を感じたことがないし、今でも感じていない。
「選挙は国民の義務である」ということは、従来の独裁政治、脅迫政治のもとにおいてさえ口癖のようにいわれてきたが、そのような政治のもとにそのような言葉が臆面もなく述べられていたということほど、国民を侮辱した話はない。
選挙が国民の義務であるためには、その選挙の結果が多少でも政治の動向に影響力を持ち、ひいては国民の福祉に関連するという事実がなくてはならぬ。そんな事実がどこにあつたか。
なるほど国民の一部には選挙権が与えられ、有権者は衆議院議員を選挙することができた。しかし、国の政治はそれらの議員が行うのではない。政治は選挙とはまつたく関係のない政府の閣僚によつて行われる。そしてこれらの閣僚を決定するのは内閣の首班と軍人であり、内閣の首班を決定するものは、軍人と重臣であつた。このようにしてできあがつた政府は、その立法権を行使して国民の意志や利益とはまつたく相反した悪法を、次から次へ無造作に制定して行く。行政機関であるすべての官庁はただ悪法を忠実に履行して国民の幸福を奪い去ることだけをその任務としている。そして、この間にあつて国民の代表であるはずの議員たちは何をするのかというと、一定期間、その白痴的大ドームの下に参集して、もつぱら支配階級の利益を擁護するための悪法の制定に賛成し拍手を送る。それだけである。
政治をしない議員を選出するための選挙が国民の義務であり得るはずはない。いわんや、このようなむだな投票を棄権したからといつて、私は毫もおのれの良心に恥ずるところはない。むしろ、日本国民中の有権者の全部が、なぜいつせいに棄権して、あのような欺瞞政治に対する不信を表明し得なかつたかと残念に思うくらいである。
こうして、私は投票は例外なく棄権することに決めていたから、投票日がいつの間に過ぎたかも知らず、議会の経過を報道する新聞記事にも眼を通すことなく、要するに私にとつて、我国の政治というものは世の中で最も愚劣で、低級で、虚偽と悪徳に満ちたものとして、いかなる意味でも興味の対象となり得なかつたのである。
しかし、今は事情がすつかり違つてきた。国民の選んだ人たち、すなわち国民の代表が実際に政治を行うという夢のような事態が急にやつてきたのである。
こうなると、選挙というものの意味は従来とはまつたく違つてくるし、したがつて私も選挙、ひいては国の政治ということに至大の関心を持たずにはいられなくなつてくる。
いつたい、今まで私のように政治に対してまつたく興味を持たない国民が何人かいたということは、決して興味を持たない側の責任ではなく、興味を奪い去るようなことばかりをあえてした政治の罪なのである。国民として、国法の支配を受け、国民の義務を履行し、国民としての権利を享受して生活する以上、普通の思考力のある人間なら、政治に興味を持たないで暮せるわけはない。にもかかわらず、我々が今まで政治に何の興味も感じなかつたのは、政治自身が我々国民に何の興味も持つていなかつたからである。
そもそも「国民の幸福」ということをほかにして、政治の目的があろう道理はない。しかるに従来の政治が、国民の幸福はおろか、国民の存在をさえ無視したということはいつたい何を意味するか。
それはほかでもない。今までの我国の歴史をつうじて一貫している事実は、支配階級のための政治はあつたが、国民のための政治はただの一度も存在しなかつたということなのである。そして、実はここに何よりも重大な問題が横たわつているのである。国民は、今しばらくこの点に思考を集中し、従来の政体、国体というものの真の正体を見抜くことによつて始めて十分に現在の変革の意味を認識し、まちがいのない出発点に立つことができると信ずる。
なお、次に最も注意しなければならぬことは、支配階級のための政治は必ず支配階級のための道徳を強制するという事実である。すなわち、このような政治のもとにあつては、ただ、支配階級の利益のために奉仕することが何よりも美徳として賞讃される。したがつて、支配階級の意志に反して国民の利益や幸福を主張したり、それらのために行動したりすることは、すべて憎むべき悪徳として処刑される。このことは、従来国民として、いかなる行為が最も道徳的なりとして奨励せられてきたか、いかなる人々が最も迫害をこうむつたかを実例について具体的に検討してみれば、だれにも容易に納得の行く事実である。
すなわち、今の日本人にとつては政治的転換よりも、むしろ道徳的転換のほうがより重大だともいえるのである。なぜならば政治的転換はほとんど知識の問題として比較的容易に解決ができるが、支配階級の教育機関によつて我々が幼少のころから執念ぶかくたたき込まれた彼らの御都合主義の理念は、それが道徳の名を騙(かた)ることによつて、我々の良心にまでくい入つてしまつているから始末が悪いのである。昨日までの善は、実は今日の悪であり、昨日までの悪が実は今日の善であると思い直すことは、人間の心理としてなかなか容易なことではない。
しかし、改めてそこから出直すのでなくては、いつまでたつても我々はほんとうの政治を持つことはできないであろう。
もともと支配階級の押しつける道徳というものは、国民をして、その持つところのすべての権利、ときには生きる権利までも提供して自分たちのために奉仕させることを目的とするがゆえに、必然的に利他ということを道徳の基礎理念とする。
しかもこの利他ははなはだしく一方的のもので、利他的道徳を国民に強要する彼ら自身が国民に対して利他を実行することは決してないのである。この奇怪なる利他を正当なる自利に置きかえることによつて我々は新しい道徳の基礎を打ちたてなければならぬ。
特定の個人や、少数の権力者たちへの隷属や、犠牲的奉仕に道徳の基礎を置いたふるい理念をくつがえして、人類の最多数のため、すなわち、我々と同じ一般の人たちの幸福のために、自分たちの仲間のために奉仕すること、いいかえれば広い意味の自利をこそ道徳理念の根幹としなければならないのである。
この根本を、しつかり把握しさえすれば、現在我々が直面しているもろもろの事態に対処して行くうえに、おおむね誤りなきを期することができるはずである。たとえば、今回の選挙に際しても、多くの候補者のうちから、きわめて乏しいほんものをえり分けることは決してむずかしいことではない。
現在、私はまだ病床にしばりつけられている身体であつて、候補者に対する判断も、ラジオをつうじて行う以外に道がない有様であるが、現在までに私の得た知識の範囲では、あまりにも低級劣悪な候補者の多いことに驚いている。彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
試みに、彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。何よりもいけないことは、彼らのほとんど全部が時代感覚というものを持つていないことである。それは、彼らの旧態依然たる演説口調を二言三言聞いただけでもう十分なほどである。彼らは時代の思想を、時代の文化を理解していない。彼らは時代の教養標準からあまりにもかけ離れてしまつている、彼らは、蓄音機のようにただ、民主主義という言葉をくり返しさえすれば、時代について行けるように考えている。したがつてその抱懐する道徳理念は、支配階級に奉仕する奴隷的道徳をそのまま持ち越したものであり、いまだにこれを他人にまで強要しようとしている。
このような候補者の現状を見るとき、我々は制度としての民主政体を得たことを喜んでいる余裕がないほど、深い、より本質的な憂欝に陥らずにはいられない。
では、何がこのような現状を持ちきたしたのであろうか。現在の日本には、候補者として適当な、もつとすぐれた人材がいないのであろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはないと私は信ずる。しからば、なぜそのような優れた人材が出ないで、ぼろぎれのような人間ばかりがはえのように群がつて出てくるのか。
思うにそのおもなる原因は二つある。すなわち一つは国民の政治意識があまりにも低すぎることであり、一つは現在の立候補手続きが人材を引き出すようにできていないことである。
現在の国民大衆の政治意識がいかに低いものであるかは、彼らの大部分が反動的政党を支持して平然としていることによつて最も端的に表明せられている。国民大衆が反動勢力に投票するということは、露骨にいえば自分たちの敵に投票することであつて、いい換えればそれは民主主義に対する裏切行為であり、自殺行為なのである。
彼らはまだ、それだけの判断すらもできない。したがつて、自分の行為が何を意味するかを知らないで投票している。その結果、彼らは自分たちとはまつたく利害の相反した特権階級の御用議員どもを多数に議会へ送り込み、いつまでも国民大衆の不幸を長続きさせる政治をやらせようとしているのである。
現在の劣悪な候補者の多くは、明らかにこのような民衆の無知蒙昧を勘定に入れ、それを足場として一勝負やるために現われてきたものである。すなわち、彼らの自信の強さは、おそらく民衆の無知に正比例していると考えられるが故に、もしも、今後民衆に対する政治的教化が進歩し、民衆の政治意識が健全に発育すれば、彼らの大部分は自信を喪失して次第に消散するであろう。すなわち、現在のごとき粗悪な候補者どもを退治する唯一の道は、国民一般の政治教養を高め、もつて彼らの足場を取りはらつてしまうこと以外にはないのである。
しかし、それだけではまだ十分ではない。粗悪な候補者どもの退場にダブツて、真に民主的な文化国家にふさわしい、優秀なる人材、良心的な候補者を多数登場させなくてはならぬ。それには少なくとも現在の立候補に関する法令、手続などを根底から改めなくてはならぬ。
私一個の意見としては、立候補を成立せしめる基礎を候補者自身の意志に置く現行の法規を改め、これを候補者以外の多数の推薦者の意志に置くことに改め、候補者自身は選挙費用として一銭の支出も許さぬことにしなくては理想的な選挙はとうてい望み得ないと信ずる。また、かくすることによつてのみ、真に優秀な、そして私欲のない代議士を得ることができると信ずる。
右のような私案は、現在の過程においてはおそらく一片の理想論として、何人からも顧られることがないであろう。しかし、由来理想と現実とを区別する客観的な規準などというものはどこにもありはしないのである。たとえば、アメリカ人にとつてきわめて現実的な課題であつた原子爆弾の製造は、日本人にとつては一つの幻想にすぎなかつたではないか。しかし、この問題についてこれ以上執拗にうんぬんすることはここでは差し控えたい。
いずれにしても、日本の政治をよくするために、そして真にそれを民衆のものとするために、何よりも緊急なこと、そして何よりも有効な処置は、まず何を措いても民衆に対する政治教育を盛んにすることである。
それには種々雑多な方法があるであろうが、しかし、肝腎なことは、それを何人の手にもまかさず、我々自身の手でやるということである。ここに、勤労大衆の一人として映画の仕事にたずさわる我々の深く考えなければならぬ問題がある。
もちろん、我々は芸術を政治に奉仕せしめる愚を犯してはならない。また、娯楽と宣伝とを混同してはならない。しかし、同時に我々は映画の間口の広さを忘れることはできないし、その能力の多様性、浸透性を無視することもできない。
我々は、我々の芸術良心に従い、かつ十分それを満足させながら、現実の政治に役立つような映画を作ることも決して不可能ではないのである。このような場合に、その種の作品の中で、我々が政治というものをいかに扱うべきか、それに対する私の答はすでに今まで述べてきた中に十分明らかとなつているはずである。(四月九日)
(『キネマ旬報』再建第三号・昭和二十一年六月一日)
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