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日本語の「学術用語」「議論用語」の問題

「逝きし世の面影」記事の一部だが、justiceの根本義を「ぴったり」とするのはどうなのかなあ、と思う。まあ、justなら「ちょうど」の意味で「ぴったり」でいいが、justiceは英語でもやはり「正義」に近い意味で用いているのではないか。より英語の根本義に近い訳語は「公正」だろうと思う。少なくとも「ぴったり」の意味でjusticeは使わない気がする。
手近な英和辞典の例文:Many Japanese are more conserned about fearness than justice.「多くの日本人は (裁きの)公正よりも(扱いの)公平さを気にかけている」
この例文からも感じられるが、justiceは日常語というより、学術性が高い言葉なのではないか。つまり、「抽象的議論」向きの言葉だと思う。
まあ、下記記事全体の議論の趣旨には賛同する。英語は基本的に日常語がそのまま学術用語や議論用語として使われることが多いと思われ、その点で日本の多くの「明治期に翻訳語として作られた熟語」は日常性から乖離しているようだ。
ただし、ここで言われている中で、「権力」が「正義」や「正しさ」(のニュアンス)を併せ持っている、というのは頷(うなず)けない。単に、「政権側」と「権力」が結びつけられるだけで、「反権力」は「反政府」であるにすぎないだろう。ただし、ネトウヨ的には「反政府」=「不正義・悪」であるわけだが、これは単なる党派的思想にすぎない。もちろん、日本人の大半がネトウヨ化している、というなら、それも否定はしない。

(以下引用)

正義justice(ぴったり)、権利right(正しい)、権力power(力)等々、英語ならこれらの語は特別な意味を持たない普通の日常語だ。残念ながら日本語では日常を離れた翻訳語を使うしかないからいつまでも「お仕着せ」のままになる。仕方がない、逆にこれらの語を日常語にしていくしかないだろう。
 
正義justice(ぴったり)、権利right(正しい)、権力power(力)は特別な意味を持たない普通の日常語
 
漢字の本場の中国の現在の正式な国名「中華人民共和国」では中国製は「中華」だけで、それ以外の「人民」や「共和国」は全部が日本製の新しい言葉だったとの愉快な話があるが、150年前の「王政復古」(明治維新)後に当時の知識階級(多くは旧幕臣で明治政府の官僚として雇われた士族たち)が外国語を日本語に翻訳した「造語」が現在まで続いているが、これ等の新造語には元々の英語などになかった「特別な付加価値」が付いていた。
英語のjustice(ぴったり)の訳語である「正義」が、現在のように暴走すれば必ず不幸な結末を迎えるのは当然である。
元々個人の確立も権利意識も低かった我が日本国では、right(正しい)の訳語として当時のインテリ官僚が「権利」の言葉を作ったのは大失敗だった。「権利」を元々の「正しい」(right)とすればイメージが180度コペルニクス的に逆転するのである。
 
特に問題なのは「権力」power(力)で、150年後の現在では「正義」や「正しさ」をも併せ持つ不思議な言葉(スーパー・パワー)に進化していたのですから、それなら「反権力」とは自動的に「悪」や「不正」との負のイメージは避けられないのである。
その意味では「権力」べったりの維新の会代表の松井一郎お馬鹿Twitterは素晴らしい。そもそも正義justice(ぴったり)、権利right(正しい)、権力power(力)等々英語なら特別の意味を持たない日常語だったとの中嶋哲史の指摘がピッタリ(★注、確かに維新の会代表の松井一郎には権力はある。ところが正義も正しさも無いばかりか、知性や教養も一切ないとはアッパレ。あきれ果てる)


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