弘田三枝子の「悲しき十六歳」だったか、私が子供のころに聞いた歌なので記憶が確かではないが、その中に「夢見る、夢見る、早く大人になりたい」という一節があって、それが英語の元歌の「too many rule」を「夢見る」としたのだ、と知ったのはかなり後になってからだった。まあ、漱石の「猫」で「図々しいぜ、おい」が「do you see the boy」になったのの逆のパターンだ。しかし、「too many rule」を「夢見る」にしたのはかなりのセンスである。十六歳という年頃にも合っている。
昔は、そういう風に、英語に感じる違和感を日本語化して洒落にすることがよくあったが、今は英語の単語をそのまま日本語の中で使って、「知らないのは知らない方が悪い」みたいな風潮があるのではないか。特にお役所とか広告界にそれが多い気がする。「ダイバーシティ」など、「水に潜る連中の町」って何だよ、と言いたくなるwww これはカタカナ語にするにしても「ディバーシティ」とした方が「ディバース」という動詞から来た名詞だな、と分かるのではないか。
カタカナ語に限らず、新コロ関係のブログを見ると、医学や生物学(細かく言えば遺伝子学か)の原語(学術語)をそのまま記事の中に書いて、何の説明もしない、というブロガーが多くて、最近はその手の記事にはあまり目を通さなくなった。新コロが詐欺だということさえ周知されれば、普通の読者は何もその種の詳しい知識など知るにも及ばないわけだ。記事を書くにしても、難語には説明を加えるのが読者への礼儀だろう。まあ、これは「この記事を書いている俺は(私は)こんなに賢い」アピールが最優先になっているのだ、と私は思っているwww 単なる無学者の僻みかww
昔は、そういう風に、英語に感じる違和感を日本語化して洒落にすることがよくあったが、今は英語の単語をそのまま日本語の中で使って、「知らないのは知らない方が悪い」みたいな風潮があるのではないか。特にお役所とか広告界にそれが多い気がする。「ダイバーシティ」など、「水に潜る連中の町」って何だよ、と言いたくなるwww これはカタカナ語にするにしても「ディバーシティ」とした方が「ディバース」という動詞から来た名詞だな、と分かるのではないか。
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