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日本を国民の手に取り戻すための原点

「神州の泉」記事を全文転載。
まさに我が意を得たり、である。小泉改革以降の政治状況を明確に説明し尽くしており、我々が常に立ち戻って自分の方向を確認する原点となるような一文だ。
人間の頭はそれほど強いものではない。容易に騙され、誤魔化される。毎日毎日発生する膨大な出来事や、そのニュース報道に圧倒され、目の前の情報を処理することに追われて、一番大事な事柄を忘れがちなものだ。そうした人間の知性の脆さを熟知し、世界支配の手段を提示したのが「ユダヤプロトコル(シオン長老の議定書)」であることは何度か書いてきた。
そうした支配に抵抗するには、常に自らの足元や出発点を確認することだ。
下の一文は、そうした確認のための貴重な文章である。
なお、「修正資本主義」とは「資本主義と社会主義の結婚」である、という事をこの一文は明確にしていないのが欠点だ、と私は思う。資本主義と社会主義は対立概念ではない。「自由主義」つまり「資本家の最大の自由を要求する思想」と社会主義とが対立するのであり、資本家の行動を規制する政策や、資本家による収奪や圧迫から一般庶民を守り、社会福祉などによって富の一部を庶民に還元する政策はすべて社会主義的政策なのである。
我々は日本を国民の手に取り戻さねばならない。「日本を取り戻す」のが自民党や、そのスポンサーの財界であってはならないのである。




(以下引用)

2014年3月27日 (木)

グローバリストたちの詐術に騙されてはならない!

 

筆者は第二次小泉内閣になる2003年ごろから、この内閣が、20世紀終焉まで続いていたそれまでの政治形態とはまるで異質なものになっていることを肌で感じていた。それまでは政権が打ち出している「構造改革」を文字通りに解釈し、ああ、小泉さんは良いことをやっているんだろうなくらいにしか思っていなかった。


その当時、政治にはノンポリ(nonpolitical)と決めつけていいほど無関心であり、さまざまな政治案件についてはマスコミが大騒ぎするような事柄にしか興味を持たなかった。たとえ興味を持ったとしても、大手新聞やテレビ報道を鵜呑みにするだけで“なぜだろう?”と、その案件を自分の頭で考えることもなかった。竹中平蔵流のグルーピングで言うなら、自分は紛うことなきB層市民だった。政治に関してはマスコミや政府発表のままにただ流されるだけの病葉(わくらば)市民だったのである。


この当時、筆者は餅は餅屋に、政治は政治屋にと真面目に思っていたので、まさか、時の政権が国政方針で国民を裏切ることなどあろうはずもないと思い込んでいた。政治家(官僚もそうだが)には欲得ずくで動く奴もいるから、中には汚職、背任(トートロジーか?〉等で税金を無駄遣いしているのもいるんだろうくらいの認識しかなかった。


内閣は行政権をになう最高機関であり、政治家としての職能集団、権力集団のトップにある。だから基本的な大枠では時の政権が善政志向だと思っていた。まったくおめでたい限りである。


2003年ごろからだったと思うが、小泉内閣が放っていた何とも名状しがたい薄気味悪さ、まがまがしい有毒のオーラが自分の中では無視できなくなっていた。理屈は全く分らなかったが、この政権はおかしい、どこかで決定的に間違っている、それも国政の基本レベルで方向性が完全に狂っているんじゃないのかという疑念は強まっていた。それが何に起因するのか、どこがどうおかしくなっているのかなど、ポリティカル(あるいはエコノミカル)に捉えることは全くできなかった。そういう違和感を保ったまま、胃の内容物が消化できない息苦しさがあった。


この暗鬱たる思いは2005年の郵政選挙にいたる郵政民営化騒動で決定的な確信に変っていた。この頃になると、関岡英之氏の「拒否できない日本」(文藝春秋)、藤原肇氏の「小泉純一郎と日本の病理」(光文社)、佐藤優氏の「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮社)など、小泉政権をディープに分析した本がちらほら出始めていて、自分の中でもやもやとしていた疑念が次第に鮮明な映像を結ぶようになっていた。特に関岡英之氏の「拒否できない日本」は目からうろこであった。


見えてきたものは、この日本はアメリカ政府の意のままに改造されつつあり、その事実は巧妙な仕掛け(擬制)によって、ベールに包まれている。これが次第に見えてきた風景の骨格だった。小泉政権の不穏当な政治出力は日米関係のメカニズムにあった。「拒否できない日本」で浮き彫りにされた「年次改革要望書」の存在は、このベールをはがす嚆矢(こうし)となったような気がする。


米国による日本の対日改造は、表面的には日米構造摩擦が鎮静化したように見えていた1990年代の初頭から着々と進められていた。日米構造摩擦と称する、日本の市場属性だけが問題視された二国間の軋轢は、かつては大声で怒鳴り合っていたのだが、バブルがはじけた辺りからそれはすっかり消えていた。だが、水面下ではアメリカの市場開放要求はより具体性を帯び激しくなっていた。その事実は政府やマスコミは徹底して沈黙した。


アメリカによる潜行的な対日改造計画は、主にアメリカと意を通じた官僚が中心となって進めていた。だが、官僚の中にも良識派がいて国民から見えない部分で日本を守ろうと、売国派官僚と暗闘を繰り返していたきらいがある。大蔵省、厚生省、通産省などの良識派官僚は1998年のノーパンしゃぶしゃぶ問題を象徴として完全に抵抗力を殺がれてしまった。このようなハニートラップだけじゃなく、当時の良識派官僚は目に見えない弱みを握られて、一網打尽に無力化されたように見える。


1994年から始まった潜行性の対日改造計画は、おそらく米国の思い通りには華々しい成果を得られなかったものと見える。その理由が上述の官僚たちの暗闘にあったものと思える。ところが、ノーパンシャブシャブ問題を頂点として良識派が駆逐されてしまったことを契機に日本は対日改造の妨害勢力が弱まってしまった。この流れのなかで小泉・竹中構造改革が始動したのである。つまり、目立たず潜行的だった対日改造イシューは、小泉政権によって露骨にかつ先鋭的に表舞台に登場し、あろうことか国策となってしまったのである。


1990年代初頭から2001年までは、国政として日本に新自由主義を執行させる準備段階の時期であった。この間、日本防衛派と売国派の水面下の暗闘で防衛派が敗北したことをもって、小泉・竹中構造改革路線が発動できたということもできる。


以上のように、小泉政権が醸し出した強烈なネガティブ・イメージは日米関係の根深すぎるメカニズムにあった。皮肉にも小泉純一郎氏を総理大臣に祭り上げたのは、橋本経世会に恨みを持っていた田中真紀子氏であったが、橋本経世会は曲がりなりにも真紀子氏の父親・田中角栄が敷いた「公平配分」体制を担保し、維持していた最後の政治潮流だった。


小泉純一郎氏は厚労大臣当時の郵政族への恨みから、田中真紀子氏はロッキード疑獄で父親が刑事被告人となった後、田中派を乗っ取った竹下派(橋本経世会へ続く)への恨みがあり、この両者がシナジー効果を発揮して小泉総理大臣が誕生した。


このこととアメリカの政治干渉は直接関係はないのだが、アメリカが新自由主義を日本国政に反映させるには小泉氏は格好の人材だったわけである。個人的な怨恨であろうが何であろうが、小泉氏はそれまで続いた日本型の修正資本主義をつぶした。これが「自民党をぶっ壊す」ことの実効的な政治結果であった。旧田中派型の修正資本主義には政官業の鉄のトライアングルという癒しがたい病弊が付きまとっていた。既得権益層が利益を貪っていたのである。


しかし、それでもこの体制は公平配分を担保していて、国民は何とか中流生活を維持できていた。小泉氏が橋本経世会を潰したことで、それまで残存していた所得再配分システムが壊され、新自由主義の構造改革によって世の中は傾斜配分に変容した。株主資本主義によって労働分配率は低下した。ここにいたり、日本は「1%対99%」の二極分化社会に向かって急速に傾いていった。この間、派遣法改正や会社法改正、三角合併解禁等による外資勢の侵入とともに格差の階梯はますます高くなってしまった。


1998年から2010年まで毎年3万人を超える自殺者が出ているが、そのうちの1万人は経済苦の自死であった。これが何よりも日本社会の変容を物語っている。新自由主義者(グローバリスト)の言い分には基本パターンがある。それは我々が、構造改革という進歩へ向かうのか、あるいは遅れた旧社会主義体制に逆行するのかという、単純化した二項対立的な進歩史観へ持って行く説明である。これがいかに悪質であるか説明する。


この説明パターンは竹中平蔵氏の真骨頂でもあり、そのキーワードは「抵抗勢力」である。竹中氏が好んで口にする言葉はイノベーションである。これは新しい発想、革新的な手段・方法の創造、新機軸等を意味し、一見良い響きを持っているので聴いた人はごまかされる。イノベーションを行うためには旧来の考え方が抵抗となって進歩を阻害する。


だから旧体制を刷新するために創造的破壊(シュンペンターの援用なのか?)を行う必要がある。年間3万人を超える自殺者を恒常的に出すような痛みが国民のための創造的破壊であるはずがなく、それはグローバル企業の収奪体制を構築するための破壊なのである。言わば、向こう側の都合でエマージング・マーケット(新興市場)を日本に創出するための破壊であるから、それまで国民を守っていた規制や法制度を変える必要があった。


これが竹中氏に代表されるグローバリストたちの二項対立的な進歩史観である。要するにイノベーション(刷新的変革)か、旧社会主義のどっちを選ぶのかという命題を突きつけるのである。この提起自体が根本的に間違っていて、人々をあらぬ方向へ誘導するトリックとなっている。例えば、竹中氏が決して口にしないワードに新自由主義や修正資本主義(混合経済)がある。ミルトン・フリードマンの名前も彼は口にしないのではないだろうか。


彼が決して口にしないこれらの言葉こそが彼の本性を物語っている。分かりやすく言えば、修正資本主義とは 貧困、失業、恐慌など資本主義経済に原則的に付随する弊害を国家の積極的な介入や資本相互間の自主的調整(規制)によって緩和し、資本主義体制を維持しようとする理論や政策である。


砕けて言えば、なまの資本主義は弱肉強食の暴力性が跋扈する社会、すなわち「北斗の拳」の舞台背景のような世界になるから、国家がケインズ的に介入して、その暴力性を制御する体制である。ほどよく制御され(統御され)た資本主義体制こそ世界が平均的に望むあり方である。グローバリストたちはこの制御的な資本主義体制が「1%対99%」の支配構造を阻害し、傾斜配分から公平配分復古への動きになることを知っているので、絶対に自ら「修正資本主義」なる概念を口にしない。それを言ってしまえば、彼らが金科玉条とする単線的な進歩史観が成り立たないからだ。


同時に自分たちがイノベーションなる言葉で志向しているものが、新自由主義体制であることも絶対に言わないのだ。だから、騙されてはならない。グローバリストたちが言う抵抗勢力との戦いや既得権益体制の打破とは、旧体制(実は修正資本主義)の悪いところを破壊すると言って、良いところまで破壊してしまうことである。


それに加え、桁違いにあくどいところは、創造的破壊の後に待ち受けているものが、国民生活にとって有意義かつ建設的な経済体制ではなく、新自由主義体制の敷設なのであり、ここにはグローバル企業の日本収奪が待ち構えている。「政官業」トライアングルを既得権益というのであれば、修正資本主義体制を破壊した後に出てくる「米官業」トライアングルは桁違いに破壊的な性格を有している。これが小泉構造改革、安倍構造改革の本質なのである。

ここから導き出さされることは、安倍首相や竹中平蔵氏の言う岩盤規制のドリル破砕が、どれほど危険な規制緩和かお分かりだと思う。岩盤規制とは国富収奪を目論むグローバル企業にとっての規制障壁であり、それが緩和されれば国民生活に回復不能な大打撃を与える。


だから、竹中平蔵氏が繰り返している基本テーゼ、『イノベーション社会か、それとも旧社会主義体制か?』という二項対立は、言い換えれば『新自由主義か、それとも修正資本主義か?』という話に他ならない。答えはおのずと修正資本主義に決まっている。グローバリストたちの詐術に騙されてはならない。



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