「マスコミに載らない海外記事」の翻訳記事の一部である。
べつに目新しい情報は含まれていないが、政府という存在についての基本認識を青少年が持つためにはいい文章だろう。
つまり、基本的に政府とは国民の大多数に敵対する存在だ、という認識が必要なのである。
もっと適切な言い方をするなら、国家の主人である国民は、性質の悪い下僕(公務員・官僚)に金を預ける以外にはどうすることもできない、ということである。場合によってはその下僕の命令で主人がこき使われ、戦場に行かされ、死ぬこともある。
そういう逆立ちした関係が「国民主権」の国家における国民と官僚の関係だ。これが君主国ならべつにおかしくもなんともないが、民主主義国家というのは、そういうナンセンス国家になるのが普通なのである。
だからといって民主主義が間違っているということにはならない。我々はまだ真の民主主義など経験したことなどないのだ。それがどんなものとして実現できるかというアイデアさえ、実は誰も出していない。三権分立や法治主義などのアイデアは、多少の有効性はあったかもしれないが、満足にはほど遠いものだ。
これについては、そのうち私自身でも考察してみようかと思っている。
今はとりあえず、「民主主義と、そのあるべき政府」を一つのアポリア(難問)として提示するだけにしておく。
(以下引用)
町にいる全く正常な若いアメリカ人を選んで、戦地に送る場合、彼らが生まれつきの殺し屋だと我々が思っているわけではない。結局、殺し屋というのは悪い人間なのだ。ところが、我々はこうした良き若き男女を人殺しをさせるために派兵し、彼らは人を殺すのだ。彼らが帰国すると、我々は、連中が殺し屋だとはもう思わない。彼らが完全に普通の若い男女に戻るよう期待する。だから銀行家がしていることは、彼らが悪い連中だからなのか、それとも彼らが銀行家であり、銀行業務がそれを要求するのだろうか? 政治家は悪い連中なので、腐敗しているのだろうか、それとも政治がそれを要求するから腐敗しているのだろうか?
皆様には、是非これを自問願いたい。アメリカの機構が今の我々を創り出しているのだろうか? アメリカの様々な機構が拝金主義を推進すれば、我々は拝金主義になるのだろうか、アメリカの様々な機構が殺人を推進すれば、我々は殺し屋になるのだろうか?アメリカの様々な機構が賄賂を推進すれば、我々は賄賂を受け取るのだろうか?アメリカの様々な機構が腐敗を推進すれば、我々は腐敗するのだろうか? アメリカの様々な機構が善を推進すれば、我々はどうなるのだろう?そして一体どうやれば、そういう機構を作り上げられるのだろう?
ローマにはある表現があった。cui prodest、つまり“誰が利益を得るのか?"だ。誰が特定の見解を主張するかは重要ではない。重要なのは、それで誰が利益を得るのかだ。そうして始めて、その見解が誰の為になるのかがわかるのだ。だが現代社会では、“誰が利益を得るのか?というのは質問として余りにおおまか過ぎる。多くの人、あるいは全員が得をすると主張する理屈を捻り出すのは、あっけないほど簡単だ。金持ちの減税によって全員が裨益するという話題なら際限なく議論することが可能だ。
だが、誰が財政的に一番得をするのかという議論はそうは行かない。必ず特定の答えがあり、どこかの時点で、政権の特権集団が誰なのかを知りたいというのは、まさに答えられるべき疑問だ。答えが、庶民以外のいずれかの集団であれば、その見解は否定されるべきだ。そうでなければ、人間の状態は、憎悪の泥沼にはまりこみ、決して向上せず、紛争は続き、人類は自らを、そしておそらくは、あらゆる生命そのもの絶滅しかねない。
ジェファーソンは商人達には祖国がないことを知っていた。そして「アメリカのビジネスこそ本当のビジネスである」というセリフは、体制派エリートの発言であり、共和党が是認することが多い。自分達の大切な支持者達の権益さえ確保される限り、アメリカやアメリカ人がどうなろうと、共和党はかまわないので、議会は手詰まり状態なのだ。それがポール・クルーグマンや彼の同類が理解し損ねていることなのだ。それが、経済学者達の経済モデルなど、実際に機能しようがしまいが、どうでもよい理由なのだ。唯一大事なモデルとは、特権集団の権益を推進し、確保するものだ。失業問題は解決できるだろうか? 権力にある誰一人として、本気で考えてなどいない! 世界中の貧困問題は解決できるだろうか? 権力にある誰一人として、本気で考えてなどいない! 人類の間で平和が広まることが可能だろうか? 権力にある誰一人として、本気で考えてなどいない! 亡くなった人々は何ら恩恵を求めないのだから、極めて小さな政府で十分なのだ。
べつに目新しい情報は含まれていないが、政府という存在についての基本認識を青少年が持つためにはいい文章だろう。
つまり、基本的に政府とは国民の大多数に敵対する存在だ、という認識が必要なのである。
もっと適切な言い方をするなら、国家の主人である国民は、性質の悪い下僕(公務員・官僚)に金を預ける以外にはどうすることもできない、ということである。場合によってはその下僕の命令で主人がこき使われ、戦場に行かされ、死ぬこともある。
そういう逆立ちした関係が「国民主権」の国家における国民と官僚の関係だ。これが君主国ならべつにおかしくもなんともないが、民主主義国家というのは、そういうナンセンス国家になるのが普通なのである。
だからといって民主主義が間違っているということにはならない。我々はまだ真の民主主義など経験したことなどないのだ。それがどんなものとして実現できるかというアイデアさえ、実は誰も出していない。三権分立や法治主義などのアイデアは、多少の有効性はあったかもしれないが、満足にはほど遠いものだ。
これについては、そのうち私自身でも考察してみようかと思っている。
今はとりあえず、「民主主義と、そのあるべき政府」を一つのアポリア(難問)として提示するだけにしておく。
(以下引用)
町にいる全く正常な若いアメリカ人を選んで、戦地に送る場合、彼らが生まれつきの殺し屋だと我々が思っているわけではない。結局、殺し屋というのは悪い人間なのだ。ところが、我々はこうした良き若き男女を人殺しをさせるために派兵し、彼らは人を殺すのだ。彼らが帰国すると、我々は、連中が殺し屋だとはもう思わない。彼らが完全に普通の若い男女に戻るよう期待する。だから銀行家がしていることは、彼らが悪い連中だからなのか、それとも彼らが銀行家であり、銀行業務がそれを要求するのだろうか? 政治家は悪い連中なので、腐敗しているのだろうか、それとも政治がそれを要求するから腐敗しているのだろうか?
皆様には、是非これを自問願いたい。アメリカの機構が今の我々を創り出しているのだろうか? アメリカの様々な機構が拝金主義を推進すれば、我々は拝金主義になるのだろうか、アメリカの様々な機構が殺人を推進すれば、我々は殺し屋になるのだろうか?アメリカの様々な機構が賄賂を推進すれば、我々は賄賂を受け取るのだろうか?アメリカの様々な機構が腐敗を推進すれば、我々は腐敗するのだろうか? アメリカの様々な機構が善を推進すれば、我々はどうなるのだろう?そして一体どうやれば、そういう機構を作り上げられるのだろう?
ローマにはある表現があった。cui prodest、つまり“誰が利益を得るのか?"だ。誰が特定の見解を主張するかは重要ではない。重要なのは、それで誰が利益を得るのかだ。そうして始めて、その見解が誰の為になるのかがわかるのだ。だが現代社会では、“誰が利益を得るのか?というのは質問として余りにおおまか過ぎる。多くの人、あるいは全員が得をすると主張する理屈を捻り出すのは、あっけないほど簡単だ。金持ちの減税によって全員が裨益するという話題なら際限なく議論することが可能だ。
だが、誰が財政的に一番得をするのかという議論はそうは行かない。必ず特定の答えがあり、どこかの時点で、政権の特権集団が誰なのかを知りたいというのは、まさに答えられるべき疑問だ。答えが、庶民以外のいずれかの集団であれば、その見解は否定されるべきだ。そうでなければ、人間の状態は、憎悪の泥沼にはまりこみ、決して向上せず、紛争は続き、人類は自らを、そしておそらくは、あらゆる生命そのもの絶滅しかねない。
ジェファーソンは商人達には祖国がないことを知っていた。そして「アメリカのビジネスこそ本当のビジネスである」というセリフは、体制派エリートの発言であり、共和党が是認することが多い。自分達の大切な支持者達の権益さえ確保される限り、アメリカやアメリカ人がどうなろうと、共和党はかまわないので、議会は手詰まり状態なのだ。それがポール・クルーグマンや彼の同類が理解し損ねていることなのだ。それが、経済学者達の経済モデルなど、実際に機能しようがしまいが、どうでもよい理由なのだ。唯一大事なモデルとは、特権集団の権益を推進し、確保するものだ。失業問題は解決できるだろうか? 権力にある誰一人として、本気で考えてなどいない! 世界中の貧困問題は解決できるだろうか? 権力にある誰一人として、本気で考えてなどいない! 人類の間で平和が広まることが可能だろうか? 権力にある誰一人として、本気で考えてなどいない! 亡くなった人々は何ら恩恵を求めないのだから、極めて小さな政府で十分なのだ。
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