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地球幼年期の終わり

「内田樹の研究室」から一部転載。
ここで言われている「いじめることはよいことだ」というイデオロギーが、新自由主義的思想であること、競争を社会の原動力とする資本主義の帰結であることは言うまでもないだろう。何度も言うが、「自由主義」とは「(勝つためには)何をやってもいい」というとんでもない思想なのである。
「自由」という美しい言葉に誤魔化されて、それを無条件に良いものと信じている阿呆が世界にはゴマンといる。特にアメリカ人の好きな言葉だが、そのアメリカが今や世界でもっとも悲惨でもっとも自由の欠如した国の一つなのである。アメリカの真似をし続けてきた日本が、橋下らの新自由主義者によってその最悪のイミテーションになる日は、このままだと遠くはないだろう。だから私はずっと前から橋下を、そしてその前は前原を自分のブログで批判し続けてきたのである。
もちろん、競争の無い人間社会は無い。競争は能力を向上させるという事も認めよう。だが、この社会の競争は、人間を疲弊させ、圧殺している。その結果がいじめ社会である、という内田樹の認識に私も賛成する。
いや、内田は競争という言葉は使ってはいないのだが、生産性の評価とは、評価される側を競争させ、その結果を評価するということである。
私がスポーツやスポーツマンが嫌いなのは、彼らがほとんど無意識に持っている勝利至上主義、つまり競争の全肯定という体質が嫌いなのである。会社というものが体育会系の社員を好んで採用するのは「競争と評価」ということを無批判に、むしろ好んで受け入れる彼らの体質が、会社の利益を向上させるからにほかならない。
利益を上げるのが会社の目的であり、存在意義なのだから、それを批判するのはおかしい、と言われるだろう。批判ではない。ただの嫌悪感の表明、つまり感想だ。
自分の利益のために他人を打ち負かすというのは会社もスポーツも同じなのである。敗者に同情し、相手を悲しませるくらいなら、自分が負けよう、という人間にスポーツができないのと同様、他の会社が可哀相だから自分の会社の利益はほどほどにしよう、などという会社は生き残れない。(これはもちろん一般論で、例外はある)
それを批判しているのではない。ただ、会社やスポーツの持つ「自分の勝利のために他人を敗北させる」という当たり前の事実を、もっと見つめた方がいい、ということだ。
センチメンタル? まあ、そうだ。動物だって弱肉強食なんだから、競争して他人を滅ぼし、その死体の山の上に自分の快適な生活を打ち建てるのは当然だ、と思うのもいいだろう。その結果が福島原発事故であろうと、自分の子や孫から奇形児が無数に生まれようと、「俺が一杯の紅茶を飲むためなら、世界が滅んだってかまうものか」と思うのもいい。
だが、人間の文明は、実はそんな動物的闘争などしなくても、世界全体が楽に暮らしていけるだけの段階に達しているはずだ。壺の中に閉じ込められた虫がお互いを食い合うような、そんな社会には、本当はみんなうんざりしているはずだ。
「アセンション(次元上昇)」などというスピリチュアルな言葉は嫌いだ、という人もいるだろうが、我々人類は、動物的闘争の段階を終わる段階に来ているはずである。
それが「地球幼年期の終わり」である。
(追記)
わざわざ書くまでもないことだが、私は「向上心」を否定する者ではない。今の自分自身を乗り越えるためには他者との競争など本当は不要だが、他者との競争は目に見える形の結果がすぐに出るから、それを励みにするのもいい。要するに勝敗の絶対視や「評価システム」の不当性を見つめ直そう、ということだ。言いかえれば、社会全体のこの精神病(勝利至上主義と格付け思想)を何とかしないと、日本人はどんどん不幸になるよ、と言いたいだけだ。



(以下引用)



「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。

生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。

「生産性の低いもの、採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。

そういう社会環境の中で、「いじめ」は発生し、増殖しています。

教委が今回の「いじめ」を必死で隠蔽しようとしたのは、彼らもまた「業務を適切に履行していない」がゆえに、処罰の対象となり、メディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからです。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと信じていたからこそ、教委は「いじめ」を隠蔽した。自分たちが「いじめ」の標的になることを恐れたからです。でも、隠蔽できなかった。

ですから、これからあと、メディアと政治家と市民たちから、大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でも、そのような「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることにはもうすこし不安を抱くべきでしょう。

私はだから学校や教委を免罪せよと言っているわけではありません。責任は追及されなければならない。でも、その責任追及が峻厳であればあるほど、仕事ができない人間は罰を受けて当然だという気分が横溢するほど、学校はますます暴力的で攻撃的な場になり、子供たちを市民的成熟に導くという本来の目的からますます逸脱してゆくだろうという陰鬱な見通しを語っているだけです。

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