下の記述の中で記述者によって批判されている「反ユダヤ思想」は、「反DS思想」と言い換えれば、見事な先見の明を持っていたと言えるのではないか。また、マルキシズムはスターリニズムにつながることを予見していたとも言えるだろう。
(以下引用)記述の中に記述者の主観が時々現れることは言うまでもない。そこに記述内容の矛盾も生じている。第一行の「政治機構」は、その定義が不明確であり、後で出て来る「労働者自身による生産者組織」も立派な「政治機構」だろう。国家(政府)だけが政治機構ではない。
政治的信念[編集]
バクーニンはその政治的信念においていかなる名称であれ形式であれ、政治機構というものを認めなかった。支配者の意志であろうと全員一致の望みであろうと、外部の権力機関をことごとく否定した。この信念はバクーニンの死後、1882年に出版された『神と国家』にも貫かれている[23]。
バクーニンはまたあらゆる特権的地位や階級という概念を拒絶した。それらが人の知性や精神を腐敗させると考えていたのである。
バクーニンの政治的信念はいくつかの相関する概念に基づいていた。自由、社会主義、連邦主義、反神論、そして唯物論である。またマルクス主義への批判も行ったが、これが未来を予見していたという指摘もある。バクーニンは、マルクス主義者が権力を得た場合に彼らが「人民の意志であると見せかけている分、さらに危険な」一党独裁体制を敷くであろう、と予言したのである[24]。
自由[編集]
バクーニンが「自由」という語によって示したのは抽象的な理想などではなく、明確で具体的な現実であった。肯定的に述べれば、自由とは「教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させること」によって成り立つものであった。またそのような捉え方は「非常に社会的である。なぜならば社会にあってのみ実現される」からであって、孤立していては不可能だからである。否定的にとらえると、自由の意味するところは「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」である[25]。
無政府集産主義[編集]
バクーニンの社会主義は「無政府集産主義」として知られている。そこでは労働者らは自身の運営する生産者組織によって生産手段を直接管理することになる。子供たちはみな平等に学習と成長の機会を与えられ、大人はみな平等に物資を得て生産にいそしむのであるという[26]。
連邦主義[編集]
バクーニンは、連邦主義という思想によって「下から上へ、周縁から中央へ向けた、連帯や連邦の自由という原則に則った」社会の組織化を唱え、社会は「個人、生産者組織およびコミューンの自由を基盤として」「全ての個人、全ての組織、全てのコミューン、全ての宗教、全ての国家によって構成され」「完全なる自己決定権、結社の自由、同盟の自由をもつ」ものとされた[26]。
反神学主義[編集]
バクーニンは「神という思想は人類の生存理由と正義の放棄を意味しており、まぎれもなく人間の自由を否定するものであり、理論的にも実際的にも、必然的に人類の隷属化という結果をもたらす」と主張していた。バクーニンは「もし神が存在しないというなら、それを発明しなければならない」というヴォルテールの著名な文言を逆転させ、「もし神が実在するというなら、それを破棄しなければならない」と述べている[23]。
唯物論[編集]
バクーニンは自由意志を宗教的にとらえることなく、自然現象を唯物論的に説明することを支持した[27]。「科学の使命とは、目の前にある実際の物事の全体的関係を観察し、物質的社会的現象の産物に具わった普遍的法則を明文化することである」。だがバクーニンは「科学的社会主義」という概念は受け入れなかった。『神と国家』の中では「社会の統治権を委ねられた科学的身体はすぐに滅びるであろう」と書いている[23]。
社会革命[編集]
革命の実現に向けバクーニンが用いようとした方法は、自身の主義思想と一致していた。工場労働者と農民が連邦を基盤として組織化され「アイデアだけでなく、未来の事実をも創出し」ていく[3]。工場労働者は通商組合を作り「すべての生産用具を、建物や資産と同じように一手に」所有する[4]。農民層は「土地を農民たち自身のものとし、他人の労働によって生活している地主らを追放する」[19]。バクーニンは「下層の人々」に注目し、貧困に苦しむ大勢の被搾取層、いわゆるルンペンプロレタリアートは「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、ゆえに「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると考えた[28]。
マルクス主義批判[編集]
バクーニンとマルクスの間で交わされた論争は、アナキズムとマルクス主義との相違点を浮き彫りにした。バクーニンは多くのマルクス主義者らが持ついくつかの考えに対して異を唱え、革命が全て暴力的である必要はないと主張した。同時にマルクスの提示するプロレタリア独裁という概念には強く反対した。マルクスの支持者はこの言葉を現代で言うところの労働者による民主制と解釈するが、これによって共産主義への過渡期の状態にも国家は存続することになる[29]。バクーニンは「革命家による独裁という考えはもう捨てており」[29]、革命は民衆主導で行われるべきであると主張し、また「知識を身につけたエリート」には「表には出ず」「人に負担をかけず」「公権力を持たず、要職につかずに」「ただ影響を及ぼすにとどまる」[30]べきであるとした。国家というものを直ちに無くすべきである、というのがバクーニンの見解であった。いかなる形の政府も、やがては抑圧への道をたどる、と考えたのである[29]。バクーニンにとって、自由とはあくまでも「下から上へと向けて実現される」べきものであった[31]。
社会的アナキストとマルクス主義者の両者とも、目指すところは自由の創出であり、社会的階層や統治機関なき平等社会の実現であったが、目的を達するための手段については激しく対立した。アナキストの信念によれば、階級も国家も存在しない社会を築くためには大衆自身が直接行動を起こし、社会革命を達成するべきであり、プロレタリア独裁のような中間的な段階を認めるべきではない。そのような独裁体制はのちに永久化の土台と化してしまうからである。バクーニンから見ると、マルクス主義者は根本的な矛盾を抱えていた[32]。
バクーニンは1844年にマルクスと出会って以来、「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である」とその能力を認めつつも、「マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」と彼の気質に対しては反感に近い感情を抱いており、その評価は後年も変わらなかった[33][34]。
だがバクーニンは経済学者としてのマルクスを評価し、『資本論』のロシア語訳に取り掛かった。一方マルクスは1848年のドレスデン蜂起について「ロシアからの避難民の中ではミハイル・バクーニンが有望で有能な指導者とみなされていた」と記している[35]。マルクスはまたエンゲルスへの手紙でシベリアから戻ったバクーニンと1864年に再会したことに触れ「16年を経て老い衰えた様子もなく、なおも成長を遂げたようにさえ思われた。彼のような人物は稀有である」と書いている[36]。
バクーニンは、国家において官僚制度を形成する知識人や行政官からなる、いわゆる新階級について論じた最初の人間であるともいえる。バクーニンによれば、一部の特権階級の世襲財産とされてきた国家は、やがてこの新しい階級である「官僚階級の手に渡り、単なる機械へと成り下がる――あるいは成り上がると言うべきか。」[37]
批判[編集]
暴力性、革命、「見えざる独裁」[編集]
バクーニンを隠れた独裁者であると批判する意見もある。アルベール・リシャールに宛てた手紙で、バクーニンは「見えざる独裁」という概念について記している。だが、バクーニンの支持者からはこの「見えざる独裁」には秘密結社的意味合いはないという主張がなされている。「見えざる独裁」の参加者が公然と政治力を行使することはない、とバクーニンは明示している、とする意見である[38]。
だがチャールズ・A・マディソンによれば、第一インターナショナルを自らの支配下に置こうとするバクーニンの策謀がマルクスとの対立と1872年の追放を招いたのだという。暴力の肯定はやがてニヒリズムへとつながっていき、その結果「アナキズムという言葉が、一般的には暗殺や混乱状態と同義に捉えられることとなったのである[39]」という。
この分析を否定する意見もある。バクーニンは自分個人でインターを支配しようとはしておらず、自身の作った地下組織にも独裁者的権力は行使せず、テロリズムに関しては、革命に反する活動であるとして非難していたという主張である[40]。
民族主義[編集]
アナキズムの歴史を研究するマックス・ネットラウは、バクーニンの汎スラヴ主義を、民族主義という逃れがたい病の発現であると記した。『告白』は皇帝の囚人としてペトロパヴロフスク要塞監獄にいた時に書かれ、1851年には出版されている。自らの罪への赦しを乞うとともに、皇帝に対し、救い主として、また同時に父なる者としてスラヴに君臨するよう懇願するという内容であったため、この著作はバクーニンへの攻撃材料として利用された。
反ユダヤ主義[編集]
バクーニンは死後、ユダヤ人嫌いとしてしばしばその名を挙げられてきた[41]。マルクスとの論争にしばしば反ユダヤ主義を持ち込み、典型的な反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論的見解を繰り返し述べている。
「貪欲な寄生虫で構成されるユダヤ世界は国境を超えるばかりか、政治思想の違いさえも超えてくる。この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」[42][43]、「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」[43]、「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲者となるだろう。ラテン系の人々だけがユダヤの世界征服の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である[44]。
このような偏狭なユダヤ人観は当時、他の急進的社会主義者やアナキストの間にもみられた[45]。例えばプルードンの覚書には、ヨーロッパからユダヤ人の追放または根絶を呼びかけている一節がある[46]。