別ブログに書いたものだが、こちらにもそのシリーズを載せておく。「神を前提としない倫理」の考察は、私自身の宿題のひとつなのである。
(以下自己引用)
(以下自己引用)
現代倫理学(1)神の倫理
(1)神の倫理
或る随筆というか、イギリス文学評論集のような本で読んだのだが、イブリン・ウォーの「ブライズヘッドふたたび」の中で、登場人物の一人である女性がこういうことを言うらしい。
「私はこれからも悪いことをして神に許されながら生きていくのでしょう」
これは、倫理の根幹に深く関わる問題だと思うので、これを考察の出発点にしてみる。
まず、いくつかの命題や考察ポイントを立ててみる。
1:倫理には「神(創造神)を前提とする倫理」と「神を前提としない倫理」がある。
2:絶対的な強制力を持つ倫理は「神を前提とする倫理」である。
3:「仏」、あるいは「非創造神」を前提とする倫理は「来世」が必須条件である。
4:「神仏を前提としない倫理」の「強制力」は「法律」より弱い。
5:「法律」は「倫理」とは別の強制力があるが、その強制力の前提は「暴力」である。
6:「神仏」は、その存在証明が不可能であるために、「宗教」なのである。
7:存在が証明された神仏は、信仰の対象ではなく、ただの「暴力装置」である。
8:神仏以外でも反抗が絶対不可能な倫理もまた「暴力装置」であるかもしれない。
これ以外の考察ポイントは適宜追加することにして、最初の出発点に戻る。
この女性は「神を信じている」。にも関わらず、「悪いことをして生きている」。そして、それが「神に許される」と思っている。
では、
1:そのような神(悪を許す神、つまり悪を許容する神)とは何なのだろうか。
2:また、その「悪いこと」がなぜ「悪い」と判断する(できる)のだろうか。
この女性の宗教はカトリック(カソリック)であるらしい。その前提で上記2点を考察する。
カトリックの教義はローマ教会の教義であり、それは原始キリスト教、つまりキリスト本来の教えとは別だろう。新約聖書の中でキリストは「これこれの行為は罪である」という発言は特にしていないと私はかすかに記憶しているが、要は「父なる神を信じない」ことが罪なのであり、「父なる神の意思を曲解する宗教者は大きな罪を犯している」としているようだが、キリスト自身の「倫理概念」は旧約聖書の教え(ユダヤ教)に則っていると思われる。しかし、旧約聖書の十戒の厳密な適用には反対であったらしい。イエスの神(自分の父)は、愛と寛容の神だったと言っていいのではないか。そうなると、カソリックの教えでは何が罪とされているのか。おそらく、ユダヤ教(旧約聖書の十戒)が踏襲されていると思われる。
しかし、ユダヤ教の神、つまり十戒という倫理の根幹の存在は、非常に厳しい、恐ろしい神であり、その戒律に違反することは現実に死罪に相当することもある。たとえば、安息日に働いたということですら重罪なのである。これは「神の言葉をないがしろにした」からである。それが「神を前提とする倫理」としては普通なのであり、神自身が「自分の戒律の運用は適当でいいよ」とするはずはないのである。それでは戒律の意味など無くなるはずではないか。
とすれば、冒頭の女性の言葉は、「私は神の教えを裏切るが、神はそれを許すだろう」ということになる。これは、カソリック的には許容される思想なのだろうか。
ここで思い出すのは「第三の男」のハリー・ライムである。語り手(狂言回し)のホリーがハリー・ライムに「君は昔は神を信じていたはずだが」と言うと、この悪党は「今でも信じているよ」と言うのである。その宗教はカソリックである。
ここで注意したいのが、カソリックの「告解」である。
罪を犯しても、神父(教父?)の前で告解したら、その罪は許されるという、不思議な儀式である。これがカソリック教徒の社会的精神安定剤であるらしい。
つまり、一週間悪の限りを尽くしていても、日曜日に教会で告解をすれば、その犯した罪はすべて許されるということだ、と私は理解しているが、そのような都合のいい宗教があるというのが不思議そのものである。もちろん、神父(教父?)は聞いた内容については守秘義務がある。
まあ、私はカソリックに詳しくはないので、誤解もあるだろうが、「神の倫理」の抜け穴としてこういうものがあると理解しないと、冒頭の女性の言葉はまったく不可解なものになるだろう。
或る随筆というか、イギリス文学評論集のような本で読んだのだが、イブリン・ウォーの「ブライズヘッドふたたび」の中で、登場人物の一人である女性がこういうことを言うらしい。
「私はこれからも悪いことをして神に許されながら生きていくのでしょう」
これは、倫理の根幹に深く関わる問題だと思うので、これを考察の出発点にしてみる。
まず、いくつかの命題や考察ポイントを立ててみる。
1:倫理には「神(創造神)を前提とする倫理」と「神を前提としない倫理」がある。
2:絶対的な強制力を持つ倫理は「神を前提とする倫理」である。
3:「仏」、あるいは「非創造神」を前提とする倫理は「来世」が必須条件である。
4:「神仏を前提としない倫理」の「強制力」は「法律」より弱い。
5:「法律」は「倫理」とは別の強制力があるが、その強制力の前提は「暴力」である。
6:「神仏」は、その存在証明が不可能であるために、「宗教」なのである。
7:存在が証明された神仏は、信仰の対象ではなく、ただの「暴力装置」である。
8:神仏以外でも反抗が絶対不可能な倫理もまた「暴力装置」であるかもしれない。
これ以外の考察ポイントは適宜追加することにして、最初の出発点に戻る。
この女性は「神を信じている」。にも関わらず、「悪いことをして生きている」。そして、それが「神に許される」と思っている。
では、
1:そのような神(悪を許す神、つまり悪を許容する神)とは何なのだろうか。
2:また、その「悪いこと」がなぜ「悪い」と判断する(できる)のだろうか。
この女性の宗教はカトリック(カソリック)であるらしい。その前提で上記2点を考察する。
カトリックの教義はローマ教会の教義であり、それは原始キリスト教、つまりキリスト本来の教えとは別だろう。新約聖書の中でキリストは「これこれの行為は罪である」という発言は特にしていないと私はかすかに記憶しているが、要は「父なる神を信じない」ことが罪なのであり、「父なる神の意思を曲解する宗教者は大きな罪を犯している」としているようだが、キリスト自身の「倫理概念」は旧約聖書の教え(ユダヤ教)に則っていると思われる。しかし、旧約聖書の十戒の厳密な適用には反対であったらしい。イエスの神(自分の父)は、愛と寛容の神だったと言っていいのではないか。そうなると、カソリックの教えでは何が罪とされているのか。おそらく、ユダヤ教(旧約聖書の十戒)が踏襲されていると思われる。
しかし、ユダヤ教の神、つまり十戒という倫理の根幹の存在は、非常に厳しい、恐ろしい神であり、その戒律に違反することは現実に死罪に相当することもある。たとえば、安息日に働いたということですら重罪なのである。これは「神の言葉をないがしろにした」からである。それが「神を前提とする倫理」としては普通なのであり、神自身が「自分の戒律の運用は適当でいいよ」とするはずはないのである。それでは戒律の意味など無くなるはずではないか。
とすれば、冒頭の女性の言葉は、「私は神の教えを裏切るが、神はそれを許すだろう」ということになる。これは、カソリック的には許容される思想なのだろうか。
ここで思い出すのは「第三の男」のハリー・ライムである。語り手(狂言回し)のホリーがハリー・ライムに「君は昔は神を信じていたはずだが」と言うと、この悪党は「今でも信じているよ」と言うのである。その宗教はカソリックである。
ここで注意したいのが、カソリックの「告解」である。
罪を犯しても、神父(教父?)の前で告解したら、その罪は許されるという、不思議な儀式である。これがカソリック教徒の社会的精神安定剤であるらしい。
つまり、一週間悪の限りを尽くしていても、日曜日に教会で告解をすれば、その犯した罪はすべて許されるということだ、と私は理解しているが、そのような都合のいい宗教があるというのが不思議そのものである。もちろん、神父(教父?)は聞いた内容については守秘義務がある。
まあ、私はカソリックに詳しくはないので、誤解もあるだろうが、「神の倫理」の抜け穴としてこういうものがあると理解しないと、冒頭の女性の言葉はまったく不可解なものになるだろう。
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