スタヴローギンとはどういう人間か、と考える際に一番の手がかりは、チホン僧正が彼を「土壌から引き離されておられる。(神を)信じておられない」と言っていることだろう。「土壌、あるいは大地から引き離された人間」というのはドストエフスキーの小説の中にしばしば出て来る言葉だが、それは何を意味するか。それは「世界から遊離した人間」ということだろう。
世界との関係が希薄な人間はたくさんいるし、思索に耽る人間ほどそうなりがちだ。そしてそういう人間は他者との関係も当然希薄なのであり、「自分(の心の中)しか見ていない」から、彼にとって他者は実は人形のようなものか道具のようなものになる。
倫理の基盤は、自分自身が世界とつながっていることだろう。他者(他の存在)を物としか見ていない人間には実は真のモラルは持てない。他者を尊重する気持ちなど無いからだ。
だが、モラルの話をする前に、「美」の話をしよう。
「悪霊」を読んでいて多くの人がたぶん見落とすのは、この作品には「自然の美」の描写がまったく無いことだ。そもそも西洋人は小説の中で自然の美を描くことはほとんど無いのだが、自然の美への感動は、日本人にとっては実は宗教と同じ働きを持っている、という奇抜な説を私はここで提出する。
スタヴローギンが神を信じなくても、彼が自然の美に感動できる人間だったら、あそこまで彼の精神は荒廃しなかっただろう、と私は見ている。と言うのは、自然の美への感動とは、「この世界への感動」であり、この世界の肯定だからである。それは、西洋人にとっても、「この世界を作った創造主への信仰」になるだろうが、創造神など仮定しなくても日本人は自然の美に感動し、それだけでこの世界とこの人生を肯定できるだろう。もちろん、自然に限らず、「自分以外の他の存在の肯定、共感、感謝、愛情」が倫理の土台にはあるわけだ。
ついでに「善」とは何か、「悪」とは何かについて単純な定義をしておく。
「善」とは「この世界を肯定し、愛し、守ること」であり、「悪」とは「この世界を否定し、嫌悪し、破壊すること」である。つまり、善とは生の顔であり、悪とは死の顔だ。ここでは善の仮面をかぶった悪や、一見悪に見える善のことは論じない。
まだ書くべきことはいろいろあるが、無理に文章を長くする必要もないから、この話はここでいったん打ち切っておく。
(夢人追記)だいぶ前に書いた「全能と無能」云々という記事の一部を自己引用しておく。
澁澤龍彦の或る評論というか、随筆のようなものを読んでいたら、
「化け物は全能なので、何かを望めば即座にそれが手に入る。したがって、『あきらめる』ということだけが不可能であり、そこが人間が化け物に優越しているところである」
という趣旨のことが書いてあり、興味深い逆説だな、と思ったが、まあ、単なる言葉遊びと思う人のほうが多いだろう。
これを「化け物」ではなく、「全能の神」に置き換えたら、人間という無能な存在は、その無能さゆえに神に勝っている、ということになる。まったく、全能の神であることほど退屈なものはないだろう。人間は無能だからこそ、何かを得るために努力をする。その過程でいろいろな喜びに遭遇するわけだ。とすれば、望めば即座にすべてが手に入る全能の神は退屈さのあまりニヒリズムに陥るのではないかwww
世界との関係が希薄な人間はたくさんいるし、思索に耽る人間ほどそうなりがちだ。そしてそういう人間は他者との関係も当然希薄なのであり、「自分(の心の中)しか見ていない」から、彼にとって他者は実は人形のようなものか道具のようなものになる。
倫理の基盤は、自分自身が世界とつながっていることだろう。他者(他の存在)を物としか見ていない人間には実は真のモラルは持てない。他者を尊重する気持ちなど無いからだ。
だが、モラルの話をする前に、「美」の話をしよう。
「悪霊」を読んでいて多くの人がたぶん見落とすのは、この作品には「自然の美」の描写がまったく無いことだ。そもそも西洋人は小説の中で自然の美を描くことはほとんど無いのだが、自然の美への感動は、日本人にとっては実は宗教と同じ働きを持っている、という奇抜な説を私はここで提出する。
スタヴローギンが神を信じなくても、彼が自然の美に感動できる人間だったら、あそこまで彼の精神は荒廃しなかっただろう、と私は見ている。と言うのは、自然の美への感動とは、「この世界への感動」であり、この世界の肯定だからである。それは、西洋人にとっても、「この世界を作った創造主への信仰」になるだろうが、創造神など仮定しなくても日本人は自然の美に感動し、それだけでこの世界とこの人生を肯定できるだろう。もちろん、自然に限らず、「自分以外の他の存在の肯定、共感、感謝、愛情」が倫理の土台にはあるわけだ。
ついでに「善」とは何か、「悪」とは何かについて単純な定義をしておく。
「善」とは「この世界を肯定し、愛し、守ること」であり、「悪」とは「この世界を否定し、嫌悪し、破壊すること」である。つまり、善とは生の顔であり、悪とは死の顔だ。ここでは善の仮面をかぶった悪や、一見悪に見える善のことは論じない。
まだ書くべきことはいろいろあるが、無理に文章を長くする必要もないから、この話はここでいったん打ち切っておく。
(夢人追記)だいぶ前に書いた「全能と無能」云々という記事の一部を自己引用しておく。
澁澤龍彦の或る評論というか、随筆のようなものを読んでいたら、
「化け物は全能なので、何かを望めば即座にそれが手に入る。したがって、『あきらめる』ということだけが不可能であり、そこが人間が化け物に優越しているところである」
という趣旨のことが書いてあり、興味深い逆説だな、と思ったが、まあ、単なる言葉遊びと思う人のほうが多いだろう。
これを「化け物」ではなく、「全能の神」に置き換えたら、人間という無能な存在は、その無能さゆえに神に勝っている、ということになる。まったく、全能の神であることほど退屈なものはないだろう。人間は無能だからこそ、何かを得るために努力をする。その過程でいろいろな喜びに遭遇するわけだ。とすれば、望めば即座にすべてが手に入る全能の神は退屈さのあまりニヒリズムに陥るのではないかwww
PR