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自由の究極は、世界の破壊である

前に載せたウィキペディアの「バクーニン」の項目は非常に示唆的で面白いが、中には理解しがたい部分がある。
「自由」について書かれた部分など、内容は興味深いのだが、文意が不明なところがある。
先に引用する。

(以下引用)

自由[編集]

バクーニンが「自由」という語によって示したのは抽象的な理想などではなく、明確で具体的な現実であった。肯定的に述べれば、自由とは「教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させること」によって成り立つものであった。またそのような捉え方は「非常に社会的である。なぜならば社会にあってのみ実現される」からであって、孤立していては不可能だからである。否定的にとらえると、自由の意味するところは「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」である[25]



(以上引用)

上記の文の中で「肯定的に述べれば」の部分には「自由」の定義が無い。「否定的にとらえると」の部分で自由の定義が出て来るが、その何が「否定的にとらえると」なのか、私には意味が分からない。つまり、この解説の筆者は「神的権威、集団の権威、個人の権威すべてに対する個々人の反逆」は好ましくないもの、という意見の持ち主なのだろうか。しかし、自由とはまさにそういうものではないだろうか。あらゆる権威や権力への隷従こそが自由の反対物なのであり、権威も我々を奴隷化するものだというのは自明ではないだろうか。
そしてまた、その「自由」こそが社会を危険に陥れる可能性を持つというのも自明だろう。「神的権威、集団の権威、個人の権威」に人がおとなしく従う社会は牧童や牧羊犬に従う羊の集団のように「平和な社会」ではあるはずだ。
私が以前に書いた「倫理」もまた「人から自由を奪う」ものであり、法律も同様である。つまり、社会秩序の維持のためには自由の制限は不可避的なのであり、「新自由主義」という、経済活動における企業の無制限の自由を求める思想が世界をどんどん破壊しているのは明白だろう。
ただし、「無制限の自由」が許されるものがある。
それは人の思考である。
その自由こそが世界の文明を発達させたのであり、同時に世界を危険にもさらしてきたわけだ。
そこで言えることは、「思考の自由」と「表現の自由」とはまったく別であり、「無制限の表現の自由」は許容されるべきではなく、表現行為は社会的な制限を受けるのが当然だということで、またその制限には細心の注意が必要だということである。
こういう当たり前のことを結論にするのは恥ずかしいが、当たり前が通用しない社会、幼稚化した社会では、こうした言葉も無意味ではないかもしれない。



































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