哲学というのは、私流の解釈では、「物事の根本を考える」という作業である。扱う物事の細部は無限だから、当然、その中の本質的な部分だけを追求すればいいわけで、膨大な知識よりも、論理の道筋が正しいかどうかが問題になる、と思う。などと言うのは、私のような無知な素人が哲学を論じることをおこがましいと思う人間も膨大にいるだろうと思うからである。しかし、大学で学ばないと哲学を考察することもできない、ということはない。ソクラテスも孔子もブッダも大学には行っていないwww
で、昔の賢人が考えたのは「この世界はどういう世界か」ということと、「その世界でいかに生きるべきか」ということだと思うのだが、私が考える哲学の主な主題もそれである。つまり、倫理(いかに生きるべきか)が哲学の大きな主題となるわけだが、その倫理には「神仏の存在を前提とした倫理」と「神仏が存在しない前提の倫理」がある、と私は思っている。これはだいたい賛同されるだろう。そして、現代に必要なのは後者だということも賛同する人はいるとは思うが、それよりも「倫理など考えても無意味だ」という思想の人間が多いのではないか。どうせこの世はカネと力(「か」ではなく「ちから」)次第なのだから、というわけである。
しかし、そうした世界でも立派な人格を持った庶民はたくさんいるわけで、もしもそうした人格が「神仏の存在を信じている」ことから来ているなら、やはり宗教には価値がある、と言えそうだ。その反面、その宗教が組織化すると争闘の種にもなる。毎度言うが、組織の第一義は組織そのものの防衛となってしまう宿命があるからだ。そのために個々の成員が犠牲にされることも多い。
何はともあれ、哲学というのは、要するに「思考そのものを楽しむ行為」である、というのが私がデカルトの『方法序説』から得た結論でもある。その深浅や正誤は問わないとすれば、私の毎日は哲学を趣味としていると言える。それ以外は、窓の外に木々の枝や葉が風に揺れ、日の光を受け、雨に濡れる美しさをぼんやりと眺めているだけだ。どんな美術品より、一本の雑木のほうが私には好ましい。
で、昔の賢人が考えたのは「この世界はどういう世界か」ということと、「その世界でいかに生きるべきか」ということだと思うのだが、私が考える哲学の主な主題もそれである。つまり、倫理(いかに生きるべきか)が哲学の大きな主題となるわけだが、その倫理には「神仏の存在を前提とした倫理」と「神仏が存在しない前提の倫理」がある、と私は思っている。これはだいたい賛同されるだろう。そして、現代に必要なのは後者だということも賛同する人はいるとは思うが、それよりも「倫理など考えても無意味だ」という思想の人間が多いのではないか。どうせこの世はカネと力(「か」ではなく「ちから」)次第なのだから、というわけである。
しかし、そうした世界でも立派な人格を持った庶民はたくさんいるわけで、もしもそうした人格が「神仏の存在を信じている」ことから来ているなら、やはり宗教には価値がある、と言えそうだ。その反面、その宗教が組織化すると争闘の種にもなる。毎度言うが、組織の第一義は組織そのものの防衛となってしまう宿命があるからだ。そのために個々の成員が犠牲にされることも多い。
何はともあれ、哲学というのは、要するに「思考そのものを楽しむ行為」である、というのが私がデカルトの『方法序説』から得た結論でもある。その深浅や正誤は問わないとすれば、私の毎日は哲学を趣味としていると言える。それ以外は、窓の外に木々の枝や葉が風に揺れ、日の光を受け、雨に濡れる美しさをぼんやりと眺めているだけだ。どんな美術品より、一本の雑木のほうが私には好ましい。
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