「神州の泉」から転載。
現在のアメリカを、近代史の大きな流れの中で捉えた好文章であり、私自身の参考として保存しておく。
もちろん、書かれた内容には私にとって新しい情報や知識は無いが、まとめ方が簡にして要を得ているので、「これからの世界」について私自身が考察(なぜかいきなり「絞殺」と変換された。不吉な!)するためのいい叩き台になりそうだ、と思ったわけだ。
21世紀は「1%対99%」の戦いになるだろうが、それは「コーポラティズム対民衆」の戦いでもある。で、前者の場合は、かつては「資本主義対社会主義(または共産主義)」という明確な対立軸があったのだが、ソ連消滅によって社会主義(または共産主義)は敗北したことになっている。そして、奇妙なことにネオコンなどの富裕層の手下連中が一部の論者にかかると「共産主義者」扱いされるという有様である。(神州の泉氏も「共産主義」に関しては「アナーキスト」や「官僚主義」と区別がついていないように見える。本来の「共産主義」とは別の文脈で「共産主義」というレッテルがネット論者の間で使われているわけだ。もちろん、ここには「共産主義はウォール街が作った」というネット神話が底流しているのだろう。もちろん、レーニンへの欧米資本家の資金援助は事実だろうが、それはユダヤの政治支配手法の基本である「両賭け」か、あるいは単に「帝政ロシア解体」とその後の資本主義化が目的であり、それによって「共産主義はウォール街が作った」と言うのは拡大解釈の度が過ぎるだろう。)いずれにせよ、現在は「共産主義対資本主義」という図式は消滅した、と言えるだろう。だが、「社会主義対資本主義」の戦いはまだこれからも続く、というのが私の見方だ。社会主義と共産主義を同一視する人々には意味不明の話かもしれないが。
さて、「コーポラティズム対民衆」の戦いは、ある意味では「資本主義対社会主義」の戦いよりも困難だ。なぜなら、現代社会では、民衆の生活物資はほとんどが企業から提供(もちろん、有料提供、ということだ)されているからだ。いわば、兵站が敵に抑えられた状態で長期戦を戦うという不可能な戦いなのである。この戦いが本当に不可能か、あるいは勝つ手段がどこかにあるか、というのが私の今後の考察課題の一つになりそうである。まあ、老後のボケ防止のための頭の体操にはなるだろう。
(以下引用)
2013年6月20日 (木)
9・11以降、米国はプルトノミー社会への変移でジョン・ロックの建国精神を放棄した
題名にいきなり、「プルトノミー」とか「ジョン・ロック」という、馴染みのないカタカナを使用して申し訳ないと思っている。
書いている神州の泉自身もこれらの言葉には正直馴染みがない。むしろ、普段は全く意識もせず、考えてもいない類(たぐい)のワードと言ってもよい。
とくにプルトノミー(Plutonomy)なる言葉は、反骨の映画監督・マイケル・ムーアの『キャピタリズム マネーは踊る~』を観て初めて知った。
これは2009年に公開された映画だが、この中に「プルトノミー」という聞いたこともない言葉が出てくる。
それは1%の超リッチな金融寡頭勢力が、95%の底辺層の持つ全財産よりも多い富を占有し、そのことによって独占的に利益を得る社会のことをいうそうである。
映画では、シティバンクが超優良顧客に配ったペーパーに、「現在のアメリカの体制は民主主義ではなくプルトノミーだ」と書いてあったそうである。
つまり、アメリカの金融寡頭勢力は、自分たちが確立した経済的な人民支配体制をプルトノミーなる用語で定義付けていたのである。
プルトノミーという言葉は、ギリシア語で「富」を表す「プルトン」と、英語で経済を表す「エコノミー」の合成語だそうである。
ムーアは、金融寡頭勢力は労働者に対して一片の愛情ももたず、ひたすら金(かね)だけを愛していて、しかも彼らは自分の持ち金だけではなく、貧しい労働者の金にも尽きせぬ食指を伸ばしているという意味のことを言っている。
これは強欲資本主義の行き着いた結果である。富める者はますます富み、持たざる者は搾取されてますます貧しくなっていく。
最悪の二極分化構造ができあがってきたが、これがアメリカ社会の現実である。
さて、次はジョン・ロックだが、彼は18世紀イギリスの啓蒙主義・経験哲学の大御所であり、民主主義の理論的開祖のように思われている超有名人である。
二十歳くらいのときに岩波文庫の小さな文字で書かれているロックの「統治二論」を読んだ記憶はあるが、ほとんど覚えていない。
ただ、これがアメリカ建国精神、つまりアメリカ独立宣言の原理的な思想になっているということはうろ覚えに残っている。
むずかしいことを言うつもりはさらさらないのだが、マイケル・ムーアは映画『キャピタリズム マネーは踊る~』で、じつに重要なことを語っているので、その部分だけをここに紹介する。
現在のアメリカの超格差社会=プルトノミーは、1980年代のレーガン政権時代から続いたフリードマン主義(新自由主義)が社会出力となった総体的な負の結果である。
『やじうまUSAウォッチ』さんの『キャピタリズム マネーは踊る~』に関するとても優れた記事を参照して以下を書く。
ムーアは、アメリカ現下の惨状は、ニューディール政策を始めたルーズベルト大統領最後の演説の思想と全く食い違っていると嘆く。
ルーズベルトは、アメリカ憲法で保障された「幸福の追求」をより具体的に実現するための新しい権利章典の提唱を言挙げした。その演説の要点は次の権利である。以下、上記サイトから転載させていただく。
○社会に貢献し、正当な報酬を得られる仕事を持つ権利
○充分な食事、衣料、休暇を得る権利
○農家が農業で適正に暮らせる権利
○大手、中小を問わず、ビジネスにおいて不公平な競争や独占の妨害を受けない権利
○すべての世帯が適正な家を持てる権利
○適正な医療を受け、健康に暮らせる権利
○老齢、病気、事故、失業による経済的な危機から守られる権利
○良い教育を受ける権利
この演説の後すぐにルーズベルトは逝去し、この権利章典は実現されなかった。
ここに書かれてあることと、今のアメリカには彼我の懸隔(けんかく)が横たわっている。
この時点から半世紀以上も経って、アメリカという国家そのものは、少数の金融寡頭勢力に簒奪され、アメリカ人のマジョリティは文字通り急速な奴隷化に向かっていて、完全なディストピアに変わり果てている。
ムーアはどうやらこの惨状が、アメリカの国策の変遷というよりも、キャピタリズム(資本主義)の存在そのものにあるのではないかと、強い懐疑を持ったようだ。
神州の泉もまったく同じ感想を持つ。
コントロールの効かない資本の躍動は、人間の生命や環境、国家の多様性を脅かす。
アメリカという国はレーガン政権以降、フリードマン主義の台頭に反比例して国家としての内実を徐々に失い、現在は多国籍企業に母屋を乗っ取られた。
それは人民統治(デモクラシー)から企業統治(コーポレートクラシー)への変貌である。
従って、利潤追求の原理だけを究極的に作動させるだけの、企業のための社会統治原理しか働かない構造ができあがり、そこには肝心の人間の暮らしが存在しなくなっている。
かつては世界中が憧れた豊かさと自由の国は、今や最も貧乏で不自由な国となっている。
企業体が国家を掌握し、人間が完全に疎外された統治構造に変化した結果、そこには人々の幸福追求の空間はすっかり消えてしまっている。
これはルーズベルトが指向した幸福追求の権利とは完全に逆ベクトルである。
それのみか、コーポラティズムはその自己保存本能をますます強めて、アメリカ国民をがんじがらめに弾圧し始めている。
9・11以降、アメリカがテロ対策として敷いた愛国者法(Patriot Act)という翼賛体制は、テロとは無関係に国民の移動の自由や言論の自由を縛るために機能している。
このムーアの話題が、上述したジョン・ロックと何の関係があるのか!?と思われるだろうが、上記に掲げた権利章典の理想はジョン・ロックが「統治二論」で叙述した次の三つの権利をベースに成り立っている。
1、 人はすべて創造主によって平等に創られ、それぞれ譲るべからざる権利を持っている。
2、 政府はこの権利を保障するために、被統治者(人民)の同意によって設けられたものであること。
3、 その自然なる結果として、政府を変更することは人民の権利であること。
(以上の3項目は、岩波文庫のロック著『市民政府論』を訳出した鵜飼信成氏の解説から引用した。)
神州の泉は、メイフラワー号で大陸にやってきた清教徒たちが北米原住民を大虐殺して土地を奪い、奴隷を使役してアメリカを建国した経緯に究極の胡散臭さを見ている。
しかし、それはそれとして、アメリカ建国史にはジョン・ロックの理想を活かそうとした思いがあったことは少なくとも事実である。
しかし当時のアメリカと現在では全く別の世界になってしまっている。
今のアメリカは、他世界を永久に支配・奴隷化して資本の利益だけを求め続ける冷酷な多国籍企業の牙城と化している。
彼らの自己保存・生存欲求は9・11以降、アメリカを完全な監視社会に変貌させ、文字通りオーウェルの「1984年」を実現させてしまっている。
ジョン・ロックの良し悪しは別として、アメリカは彼の理想とは全く異なる、人間不在のモンスター国家に変貌した。
(※推奨 もし『キャピタリズム マネーは踊る~』の概要を知りたければ、『やじうまUSAウォッチ』さんの記事をご覧になっていただきたい。とても正確にこの映画の内容を捉えています。)
現在のアメリカを、近代史の大きな流れの中で捉えた好文章であり、私自身の参考として保存しておく。
もちろん、書かれた内容には私にとって新しい情報や知識は無いが、まとめ方が簡にして要を得ているので、「これからの世界」について私自身が考察(なぜかいきなり「絞殺」と変換された。不吉な!)するためのいい叩き台になりそうだ、と思ったわけだ。
21世紀は「1%対99%」の戦いになるだろうが、それは「コーポラティズム対民衆」の戦いでもある。で、前者の場合は、かつては「資本主義対社会主義(または共産主義)」という明確な対立軸があったのだが、ソ連消滅によって社会主義(または共産主義)は敗北したことになっている。そして、奇妙なことにネオコンなどの富裕層の手下連中が一部の論者にかかると「共産主義者」扱いされるという有様である。(神州の泉氏も「共産主義」に関しては「アナーキスト」や「官僚主義」と区別がついていないように見える。本来の「共産主義」とは別の文脈で「共産主義」というレッテルがネット論者の間で使われているわけだ。もちろん、ここには「共産主義はウォール街が作った」というネット神話が底流しているのだろう。もちろん、レーニンへの欧米資本家の資金援助は事実だろうが、それはユダヤの政治支配手法の基本である「両賭け」か、あるいは単に「帝政ロシア解体」とその後の資本主義化が目的であり、それによって「共産主義はウォール街が作った」と言うのは拡大解釈の度が過ぎるだろう。)いずれにせよ、現在は「共産主義対資本主義」という図式は消滅した、と言えるだろう。だが、「社会主義対資本主義」の戦いはまだこれからも続く、というのが私の見方だ。社会主義と共産主義を同一視する人々には意味不明の話かもしれないが。
さて、「コーポラティズム対民衆」の戦いは、ある意味では「資本主義対社会主義」の戦いよりも困難だ。なぜなら、現代社会では、民衆の生活物資はほとんどが企業から提供(もちろん、有料提供、ということだ)されているからだ。いわば、兵站が敵に抑えられた状態で長期戦を戦うという不可能な戦いなのである。この戦いが本当に不可能か、あるいは勝つ手段がどこかにあるか、というのが私の今後の考察課題の一つになりそうである。まあ、老後のボケ防止のための頭の体操にはなるだろう。
(以下引用)
2013年6月20日 (木)
9・11以降、米国はプルトノミー社会への変移でジョン・ロックの建国精神を放棄した
題名にいきなり、「プルトノミー」とか「ジョン・ロック」という、馴染みのないカタカナを使用して申し訳ないと思っている。
書いている神州の泉自身もこれらの言葉には正直馴染みがない。むしろ、普段は全く意識もせず、考えてもいない類(たぐい)のワードと言ってもよい。
とくにプルトノミー(Plutonomy)なる言葉は、反骨の映画監督・マイケル・ムーアの『キャピタリズム マネーは踊る~』を観て初めて知った。
これは2009年に公開された映画だが、この中に「プルトノミー」という聞いたこともない言葉が出てくる。
それは1%の超リッチな金融寡頭勢力が、95%の底辺層の持つ全財産よりも多い富を占有し、そのことによって独占的に利益を得る社会のことをいうそうである。
映画では、シティバンクが超優良顧客に配ったペーパーに、「現在のアメリカの体制は民主主義ではなくプルトノミーだ」と書いてあったそうである。
つまり、アメリカの金融寡頭勢力は、自分たちが確立した経済的な人民支配体制をプルトノミーなる用語で定義付けていたのである。
プルトノミーという言葉は、ギリシア語で「富」を表す「プルトン」と、英語で経済を表す「エコノミー」の合成語だそうである。
ムーアは、金融寡頭勢力は労働者に対して一片の愛情ももたず、ひたすら金(かね)だけを愛していて、しかも彼らは自分の持ち金だけではなく、貧しい労働者の金にも尽きせぬ食指を伸ばしているという意味のことを言っている。
これは強欲資本主義の行き着いた結果である。富める者はますます富み、持たざる者は搾取されてますます貧しくなっていく。
最悪の二極分化構造ができあがってきたが、これがアメリカ社会の現実である。
さて、次はジョン・ロックだが、彼は18世紀イギリスの啓蒙主義・経験哲学の大御所であり、民主主義の理論的開祖のように思われている超有名人である。
二十歳くらいのときに岩波文庫の小さな文字で書かれているロックの「統治二論」を読んだ記憶はあるが、ほとんど覚えていない。
ただ、これがアメリカ建国精神、つまりアメリカ独立宣言の原理的な思想になっているということはうろ覚えに残っている。
むずかしいことを言うつもりはさらさらないのだが、マイケル・ムーアは映画『キャピタリズム マネーは踊る~』で、じつに重要なことを語っているので、その部分だけをここに紹介する。
現在のアメリカの超格差社会=プルトノミーは、1980年代のレーガン政権時代から続いたフリードマン主義(新自由主義)が社会出力となった総体的な負の結果である。
『やじうまUSAウォッチ』さんの『キャピタリズム マネーは踊る~』に関するとても優れた記事を参照して以下を書く。
ムーアは、アメリカ現下の惨状は、ニューディール政策を始めたルーズベルト大統領最後の演説の思想と全く食い違っていると嘆く。
ルーズベルトは、アメリカ憲法で保障された「幸福の追求」をより具体的に実現するための新しい権利章典の提唱を言挙げした。その演説の要点は次の権利である。以下、上記サイトから転載させていただく。
○社会に貢献し、正当な報酬を得られる仕事を持つ権利
○充分な食事、衣料、休暇を得る権利
○農家が農業で適正に暮らせる権利
○大手、中小を問わず、ビジネスにおいて不公平な競争や独占の妨害を受けない権利
○すべての世帯が適正な家を持てる権利
○適正な医療を受け、健康に暮らせる権利
○老齢、病気、事故、失業による経済的な危機から守られる権利
○良い教育を受ける権利
この演説の後すぐにルーズベルトは逝去し、この権利章典は実現されなかった。
ここに書かれてあることと、今のアメリカには彼我の懸隔(けんかく)が横たわっている。
この時点から半世紀以上も経って、アメリカという国家そのものは、少数の金融寡頭勢力に簒奪され、アメリカ人のマジョリティは文字通り急速な奴隷化に向かっていて、完全なディストピアに変わり果てている。
ムーアはどうやらこの惨状が、アメリカの国策の変遷というよりも、キャピタリズム(資本主義)の存在そのものにあるのではないかと、強い懐疑を持ったようだ。
神州の泉もまったく同じ感想を持つ。
コントロールの効かない資本の躍動は、人間の生命や環境、国家の多様性を脅かす。
アメリカという国はレーガン政権以降、フリードマン主義の台頭に反比例して国家としての内実を徐々に失い、現在は多国籍企業に母屋を乗っ取られた。
それは人民統治(デモクラシー)から企業統治(コーポレートクラシー)への変貌である。
従って、利潤追求の原理だけを究極的に作動させるだけの、企業のための社会統治原理しか働かない構造ができあがり、そこには肝心の人間の暮らしが存在しなくなっている。
かつては世界中が憧れた豊かさと自由の国は、今や最も貧乏で不自由な国となっている。
企業体が国家を掌握し、人間が完全に疎外された統治構造に変化した結果、そこには人々の幸福追求の空間はすっかり消えてしまっている。
これはルーズベルトが指向した幸福追求の権利とは完全に逆ベクトルである。
それのみか、コーポラティズムはその自己保存本能をますます強めて、アメリカ国民をがんじがらめに弾圧し始めている。
9・11以降、アメリカがテロ対策として敷いた愛国者法(Patriot Act)という翼賛体制は、テロとは無関係に国民の移動の自由や言論の自由を縛るために機能している。
このムーアの話題が、上述したジョン・ロックと何の関係があるのか!?と思われるだろうが、上記に掲げた権利章典の理想はジョン・ロックが「統治二論」で叙述した次の三つの権利をベースに成り立っている。
1、 人はすべて創造主によって平等に創られ、それぞれ譲るべからざる権利を持っている。
2、 政府はこの権利を保障するために、被統治者(人民)の同意によって設けられたものであること。
3、 その自然なる結果として、政府を変更することは人民の権利であること。
(以上の3項目は、岩波文庫のロック著『市民政府論』を訳出した鵜飼信成氏の解説から引用した。)
神州の泉は、メイフラワー号で大陸にやってきた清教徒たちが北米原住民を大虐殺して土地を奪い、奴隷を使役してアメリカを建国した経緯に究極の胡散臭さを見ている。
しかし、それはそれとして、アメリカ建国史にはジョン・ロックの理想を活かそうとした思いがあったことは少なくとも事実である。
しかし当時のアメリカと現在では全く別の世界になってしまっている。
今のアメリカは、他世界を永久に支配・奴隷化して資本の利益だけを求め続ける冷酷な多国籍企業の牙城と化している。
彼らの自己保存・生存欲求は9・11以降、アメリカを完全な監視社会に変貌させ、文字通りオーウェルの「1984年」を実現させてしまっている。
ジョン・ロックの良し悪しは別として、アメリカは彼の理想とは全く異なる、人間不在のモンスター国家に変貌した。
(※推奨 もし『キャピタリズム マネーは踊る~』の概要を知りたければ、『やじうまUSAウォッチ』さんの記事をご覧になっていただきたい。とても正確にこの映画の内容を捉えています。)
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