「健康寿命」、つまり自立して生きることができる寿命、というのはいい概念かもしれない。後で引用する予定だが、「in deep」に自死(自殺)することについての興味深い記事があったが、自立して生きることが不可能になったら自殺したい、という人は多いはずである。私はその一人であり、そのことは何度も書いてきた。しかし、自殺は後処理が面倒だから、できれば政府による「殺処分施設」を作ってもらいたい、ということも何度も書いてきた。
日本全体が放射能による緩慢なスローターハウス(屠殺場)みたいなものだから、慌てて自殺する必要もないのだが、放射能で不治の病になって要介護の状態でゆっくりと死んでいくのもいやだ。べつに死にたいわけではなく、まともな状態で生きられなくなるのがいやなのである。
もちろん、要介護の状態であっても立派な生を送れるという人はそれでいいのだが、私は、自分が他人に迷惑をかけていると思いながら生きるのは耐え難い。まあ、安倍や石破や橋下や石原が世間にかけている迷惑に比べたら、老人や病人のかける迷惑の度合いなどたかが知れていると言えるだろうが、これは身近な人間だけが蒙る迷惑だから、いっそう負担が大きいはずだ。周囲の人間にとっては、ある意味、理不尽な迷惑である。
政府による「殺処分施設」は、これからの日本にとって絶対に必要なものになる、と皮肉でも何でもなく私は思っている。それは非人道的どころか、この上ない善政であり、下々に対するお慈悲ですらある。生きる意欲を失った人、生きる能力を失った人は、政府がお慈悲で殺してくれるのである。年間3万人とか4万人とかいう自殺者(実数はその10倍以上とも言う)がいる以上は、需要は歴然とあるわけだ。そして、痴呆状態で生かされている超高齢老人の頭脳が明晰になる一瞬があれば、その大半は自死を選ぶのではないだろうか。
施設の名前は「クールジャパン」にちなんで「クール・ユートピア」でどうか。安楽死のことを「ユータナジー」と言うのだから。「クール」は「かっこいい」の意味と、「冷たい死体」の二つを懸けている。
(以下引用)
(引用2)「in deep」より抜粋。
単に放っておいても高齢化で滅びる日本という国
これは上の『自死という生き方』の内容とは関係のないことですが、私の周辺もそうですが、今では多くの人々が、自分が直接介護などに関わったり、あるいは周囲で介護やそれに準じた状態というのを様々に見たり聞いたりしているのではないかと思います。
というより、最近では、この「高齢化社会」というのは、単なる日本の社会問題であるということを越えて、どういったらいいのか、宿痾とでもいうのか、要するに、このままだと、この「高齢化社会の進行で日本自体が滅びるのでは?」とさえ真面目に思うことがよくあります。
経済的な破綻とか、戦争がどうのこうのとか、あるいは天地がひっくり返るような自然災害とか、そんなことがどちらに転ぼうと、単に「放っておけば、そのうち日本は自滅する」というのが明らかであるというようにしか見えないのです。
しかも、それは私の生きているかもしれない間の、ほんの 10年先とか 20年先に起こりうることだと思っています。
いやいや。
そんな小難しい話をしなくとも、たとえば、今、介護をされている方は、
「将来の私もこの人(自分が介護しているお相手)のようになりたい」と思うかどうか
というような話でもいいですし、そうは考えなくともいいのですけれど、2年くらい前の記事で、日本だけではないですが、現在の「普通の」価値観として、
という概念があるというようなことを記したことがありました。
そして、それは社会的に絶対的な思考であり、つまり、
という社会であることの事実。
「介護に疲れた人」でも、それを言ってはいけない。
そして、あちこちで現に起きている「共倒れ」(老老介護でどちらも立ちゆかなくなる)。そのうち、子供なども関係してきて、そちらも参加することで三重の共倒れ(仕事をやめたりしての介護で収入の問題が出て来る)なども起きる。
それでも、
「長生きしてくれているから・・・それだけで・・・」
と他人の前では呟かなくてはならない。
今の日本の高齢者がいる家庭で、「高齢者の病気の問題や、介護とは無縁」の家は、むしろ少ないのではないでしょうか。
うちの母方の祖母は、もうかなり昔の話ですが、10年間寝たきりでしたが、うちの母の妹さんが長く介護していました。しかし、介護を続けるうちに、もともと上品で穏やかだった母の妹さん、つまり私の叔母さんの顔の様相が年々やつれ果てていくのを見るのはつらいものでした。
最後の何年間かは、介護を受けているお婆さんご本人は、すでに自分の娘の顔というか、その存在自体を忘れているのです。
下の世話から何から何まで介護する娘さん(私からすれば叔母さん)に対して、
「あなたはどなたですか?」
と言うのです。
こんなような同じ例は今現在おびただしくこの世に存在しているはずです。
そして、今のままだと、こういう事例はどんどん増えていくしかないはずです(減る道理がないので)。
中途半端な健康知識や健康番組などのせいで、体の寿命だけは伸びていく。
私は最近は特に漠然と、「これはもう本当にダメなのではないだろうか」と感じることがあります。そして、これから老境に入ってく私たちのような五十代くらいの人間というのは、「本気で生き方の考え方を変えるべき世代なのではないか」というようには思うようになっていました。
いずれにしても、今の社会が漫然と進行していけば、あと・・・それこそ 30年もすれば、日本は何も機能していない実質的な廃墟となっている可能性さえ感じます。
日本全体が放射能による緩慢なスローターハウス(屠殺場)みたいなものだから、慌てて自殺する必要もないのだが、放射能で不治の病になって要介護の状態でゆっくりと死んでいくのもいやだ。べつに死にたいわけではなく、まともな状態で生きられなくなるのがいやなのである。
もちろん、要介護の状態であっても立派な生を送れるという人はそれでいいのだが、私は、自分が他人に迷惑をかけていると思いながら生きるのは耐え難い。まあ、安倍や石破や橋下や石原が世間にかけている迷惑に比べたら、老人や病人のかける迷惑の度合いなどたかが知れていると言えるだろうが、これは身近な人間だけが蒙る迷惑だから、いっそう負担が大きいはずだ。周囲の人間にとっては、ある意味、理不尽な迷惑である。
政府による「殺処分施設」は、これからの日本にとって絶対に必要なものになる、と皮肉でも何でもなく私は思っている。それは非人道的どころか、この上ない善政であり、下々に対するお慈悲ですらある。生きる意欲を失った人、生きる能力を失った人は、政府がお慈悲で殺してくれるのである。年間3万人とか4万人とかいう自殺者(実数はその10倍以上とも言う)がいる以上は、需要は歴然とあるわけだ。そして、痴呆状態で生かされている超高齢老人の頭脳が明晰になる一瞬があれば、その大半は自死を選ぶのではないだろうか。
施設の名前は「クールジャパン」にちなんで「クール・ユートピア」でどうか。安楽死のことを「ユータナジー」と言うのだから。「クール」は「かっこいい」の意味と、「冷たい死体」の二つを懸けている。
(以下引用)
「健康寿命」延ばすことを重視…厚労白書原案
読売新聞 7月14日(月)17時22分配信
2014年版の厚生労働白書の原案が明らかになった。
14年を「健康・予防元年」と位置づけ、医療費抑制の観点から、介護などを受けずに自立して生活できる期間である「健康寿命」を延ばすことの重要性を強調した。白書は8月上旬に閣議で報告された後、厚労省が公表する。
原案では、厚生労働行政が、平均寿命を延ばすことから「健康寿命」を延ばすことに変化してきたことを紹介。一方、現状では、「健康寿命」という言葉の認知度は3割程度と低く、健康に何らかの不安を抱く人も約6割いると指摘。日常の健康づくりや、特定健診(メタボ健診)の受診率を上げ、健康寿命を延ばすことで、「結果的に、医療・介護費用の増加を少しでも減らすことができれば、国民の負担軽減、社会保障の持続可能性も高まる」とし、対策の重要性を強調した。
最終更新:7月14日(月)17時22分
(引用2)「in deep」より抜粋。
単に放っておいても高齢化で滅びる日本という国
これは上の『自死という生き方』の内容とは関係のないことですが、私の周辺もそうですが、今では多くの人々が、自分が直接介護などに関わったり、あるいは周囲で介護やそれに準じた状態というのを様々に見たり聞いたりしているのではないかと思います。
というより、最近では、この「高齢化社会」というのは、単なる日本の社会問題であるということを越えて、どういったらいいのか、宿痾とでもいうのか、要するに、このままだと、この「高齢化社会の進行で日本自体が滅びるのでは?」とさえ真面目に思うことがよくあります。
経済的な破綻とか、戦争がどうのこうのとか、あるいは天地がひっくり返るような自然災害とか、そんなことがどちらに転ぼうと、単に「放っておけば、そのうち日本は自滅する」というのが明らかであるというようにしか見えないのです。
しかも、それは私の生きているかもしれない間の、ほんの 10年先とか 20年先に起こりうることだと思っています。
いやいや。
そんな小難しい話をしなくとも、たとえば、今、介護をされている方は、
「将来の私もこの人(自分が介護しているお相手)のようになりたい」と思うかどうか
というような話でもいいですし、そうは考えなくともいいのですけれど、2年くらい前の記事で、日本だけではないですが、現在の「普通の」価値観として、
長生きすることは無条件に素晴らしい。(場合によっては健康であろうがなかろうが)
という概念があるというようなことを記したことがありました。
そして、それは社会的に絶対的な思考であり、つまり、
その「長生きすることは素晴らしい」ということに対しての、いかなる反対意見の存在も許されない。
という社会であることの事実。
「介護に疲れた人」でも、それを言ってはいけない。
そして、あちこちで現に起きている「共倒れ」(老老介護でどちらも立ちゆかなくなる)。そのうち、子供なども関係してきて、そちらも参加することで三重の共倒れ(仕事をやめたりしての介護で収入の問題が出て来る)なども起きる。
それでも、
「長生きしてくれているから・・・それだけで・・・」
と他人の前では呟かなくてはならない。
今の日本の高齢者がいる家庭で、「高齢者の病気の問題や、介護とは無縁」の家は、むしろ少ないのではないでしょうか。
うちの母方の祖母は、もうかなり昔の話ですが、10年間寝たきりでしたが、うちの母の妹さんが長く介護していました。しかし、介護を続けるうちに、もともと上品で穏やかだった母の妹さん、つまり私の叔母さんの顔の様相が年々やつれ果てていくのを見るのはつらいものでした。
最後の何年間かは、介護を受けているお婆さんご本人は、すでに自分の娘の顔というか、その存在自体を忘れているのです。
下の世話から何から何まで介護する娘さん(私からすれば叔母さん)に対して、
「あなたはどなたですか?」
と言うのです。
こんなような同じ例は今現在おびただしくこの世に存在しているはずです。
そして、今のままだと、こういう事例はどんどん増えていくしかないはずです(減る道理がないので)。
中途半端な健康知識や健康番組などのせいで、体の寿命だけは伸びていく。
私は最近は特に漠然と、「これはもう本当にダメなのではないだろうか」と感じることがあります。そして、これから老境に入ってく私たちのような五十代くらいの人間というのは、「本気で生き方の考え方を変えるべき世代なのではないか」というようには思うようになっていました。
いずれにしても、今の社会が漫然と進行していけば、あと・・・それこそ 30年もすれば、日本は何も機能していない実質的な廃墟となっている可能性さえ感じます。
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