「混沌堂主人雑記」から引用記事の後半の読みやすく分かりやすい部分を転載する。ただ、記事前半との関連で分かりにくい部分も当然ある。もちろん、記事前半も面白いのだが、後半のほうが具体的で読みやすいというだけだ。特にここに引用した部分は、「安倍政権の何が日本社会を壊滅的状況にしたか」が分かりやすく書かれている。今でも安倍政権を支持する馬鹿は熟読するといい。
(以下引用)記事筆者は法曹(裁判官)経験の長い人のようだ。
(以下引用)記事筆者は法曹(裁判官)経験の長い人のようだ。
『現代日本人の法意識』第8章でも述べたとおり、第二期安倍政権時代以降の自民党、また政治全般の問題の中核にあるのが、「人の支配の横行」と「手続的正義の原理の無視」である。安倍政権における「人の支配」は目に余るものだった。また、内閣法制局長官について最高裁判事任命という栄転のかたちで更迭し、後任については内部昇格の慣例を破って外務官僚(小松一郎氏。第一期安倍内閣時代に、外務省国際法局長として、集団的自衛権の行使をめぐる「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の立案・実務にたずさわった人物)を採用する異例の強引な人事を行った上で、本来憲法改正によるべき集団的自衛権の行使認容を閣議で決定し、各種の関連立法を強行採決したのは、「手続的正義の原理の徹底的な無視」であった。
また、世論やメディアが、そのような政治の横暴を厳しく批判することなくずるずると許容してしまい、あまつさえ、先のような専横の政治について、「強いリーダーシップ」と賞賛する声さえ相当に強くあったという事実は、まことに残念ながら、日本人の法意識の未熟さを端的に示すものというほかないであろう。
人とムラとオキテの支配、無意味な規則、
空洞化する制度
それでは実際に日本社会を規定している原則は何かといえば、前記のとおり、「法の支配」よりも「人の支配」であり、部分社会である「ムラ、タコツボ」における暗黙の「オキテ」なのではないかと思われる。日本人は、現実には、多くの場合、「法」に従って行動しているのではなく、法の内側に引かれた見えない「オキテ」に従って行動している。
この点では、現代日本の社会は、江戸時代とそのまま接続しているともいえる。いや、『現代日本人の法意識』第2章でみたとおり、むしろ、江戸時代には、村社会すなわち「村落共同体」と「家」とが強固で安定した実体であったためにそれらの枠組みを超えられないという意味での限界はあったものの、その限界内における法意識は現在よりも高く、村の運営における手続的正義についての関心も高かったという側面さえあるかもしれない。
また、明治時代以降のシステムが、「村落共同体」や「家」の利用できる部分だけを、明治天皇制という擬似的な普遍の下に組織し収奪したために、川島が批判したようなその悪い側面だけが、生き延びてしまったのかもしれない。
戦後の「村落共同体」や「家」の解体も、たとえば、「家」は消滅しても「氏」を中心とする戸籍の体系はそのまま残されたように、過去を振り返り、受け継ぐ部分と断ち切る部分を仕分けした上で、受け継ぐべき部分は受け継ぎ、断ち切るべき部分はきちんと断ち切るという作業を十分にした上でのものではなかった。
その結果として、この高度資本主義社会にも、過去の亡霊は、「日本型管理社会の核」として生き残っている可能性がある。いわゆる国粋保守派の人々が、「夫婦同姓=事実上夫の姓を名乗らせる」制度にあれほど固執するのも、この「過去の亡霊」への執着と考えれば、よく理解できるのではないか。『現代日本人の法意識』で論じてきた事柄のすべてを解く鍵の一つは、この「意識化されないままに残存している江戸時代の負の部分」という問題かもしれない。
先の「オキテ」とも関連するが、日本社会の問題の一つとして、何の意味もない、本当に無意味な「規則」の多いことが挙げられる。その代表的なものである校則についてさえ、ようやく改善の動きが出始めたという段階なのだ。これは、学校だけのことではない。日本社会のどの部分をみても基本は同じなのである。
私は、裁判官として、事件を通じ、さまざまな組織や社会の有様を見た上で学界に移り、出版やジャーナリズムの世界もひととおり見てきた。したがって、日本人としては相対的に多数の部分社会をみてきた人間だと思うが、「どこまで意味があるのか不明な規則や規制でがんじがらめ」の感が強いのは、おそらく、それらのすべてに共通する事柄ではないかと考える。
特に、あらゆる部門の官僚たちは、そうした規則の精緻化作業ばかり行っている。独立性の高い職業の代表とみられている裁判官の実情にしてからが、無意味なオキテ・規則や自己規制で身動きのとれない有様なのである。
そして、作る意味がどこにあるのかはっきりしない規則や制度は、容易に空洞化する。日本企業のコンプライアンスが規則ずくめで時間を食う割には機能していないのも、社外取締役制度が存在する企業で実際には人の支配が横行しているのも、ただ「かたち」だけをまねて、それらを採用した「目的、動機」について、また、その「意味、機能」についての考察がお留守になっているからではないだろうか。
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