恩田陸という作家は、現代の小説家の中では「横綱不在の番付で東の正大関」ではないか、と私は思っているのだが、とにかく才能のある作家だと思うし、その気になれば松本清張レベルになれるのではないか、と思っている。ただ、歴史的視点や政治的視点が薄いようで、だから「横綱」にはならないだろうな、というわけだ。
とにかく、「雰囲気」を出すのが抜群に上手い人で、それはデビュー作の「六番目の小夜子」以来変わっていない。で、その雰囲気とは、「詩情」にも近いわけで、ホラーを書いても青春の抒情を描いても上手い。
で、詩と詩情は別であり、世間に流布している詩の中には完全に詩情の欠如したものが多いという気がする。特に現代詩はそうである。現代詩は昭和で終わったのではないか。いや、読んでいないが。
詩と詩情の違いは何か、というと、「詩」とは形式的に詩の形を取っているもので、その中に詩情(美感)があるかどうかで、「単に行分けした散文」にすぎないものと真の詩に分かれる。小学生に読ませる児童向けの詩は前者が圧倒的に多いので、詩や詩人が馬鹿にされることになる。それよりはポップスの歌詞のほうがはるかに詩情があるわけだ。もっとも、最近のポップスは、歌詞そのものが聞き取りにくいので、歌詞に詩情があるかどうかは私には分からない。詩情より市場優先のポップスになっていないか? www
ついでに言えば、前にも書いたが「ポエマー」とは詩情の欠如した詩(あるいは、意味不明の言葉)を書く、有象無象の自称他称詩人のことを言う造語(蔑称)である。小泉進次郎(の発言)もそれだ。
話を前に戻して、恩田陸のことだが、彼女自身が詩情を愛していることは、その作品の細部によく表れている。作中で言及される事象や名称が、詩的な事柄であるだけでなく、作品タイトルや章題にしばしばジャズやクラシック音楽や昔のポップスのタイトルを使うことで、それが分かる。その好みが私の好みとだいたい同じであるのが、私には嬉しいが、そういう恩田ファンは多いかもしれない。ちなみに、歌や映画や小説のタイトルは、それ自体が「短い詩」なのである。たとえば「太陽がいっぱい」など、そのタイトルだけで、既に映画を見たような気持になるのではないか。これなど、名タイトルの代表的なもののひとつだろう。
恩田陸の小説にも言及されていた「去年マリエンバードで」なども、実に詩的なタイトルである。映画そのものは、夢の中でまた夢を見ているような、夢幻的なもので、意味を考えるのではなく、感覚(情感)の中に浸るのが正しい鑑賞法だろう。
まあ、映画がセックスそのものを描写するようになってから、映画から詩情は消えたというのが私の説である。至高の恋愛も、やってしまえばただの猿の交尾だ。恋愛は性交のための手続きではない。まあ、一種の病気かもしれないが、美しい精神病である。だから小説になり映画になる。もちろん、恋愛は詩の最大のネタだ。
なお、小説の「話」そのものより、描写の詩情が価値がある作家として、フィッツジェラルドやカポーティなどがそれではないか、と思う。先ほど、フィッツジェラルドの「バビロン再訪」(映画「雨の朝パリに死す」の原作)を読んだが、「小説家としては下手だなあ。でも、詩情があるなあ」と感じたので、追記する次第だ。その発展形が村上春樹だろうか。ただし、小説家として、より上手い分、詩情はフィッツジェラルドほどではないと思う。なお、「バビロン再訪」の映画化の際のタイトル「雨の朝パリに死す」は原作タイトルよりはるかに優れているが、映画の原題は知らない。日本の映画配給会社の人が付けたなら、抜群のセンスである。映画の主題曲が「The last time I saw Paris」だと思うので、映画の元の題名もそれではないか。昔の人は言葉のセンスがいい。小説の方のタイトルは「Babylon revisited」。
とにかく、「雰囲気」を出すのが抜群に上手い人で、それはデビュー作の「六番目の小夜子」以来変わっていない。で、その雰囲気とは、「詩情」にも近いわけで、ホラーを書いても青春の抒情を描いても上手い。
で、詩と詩情は別であり、世間に流布している詩の中には完全に詩情の欠如したものが多いという気がする。特に現代詩はそうである。現代詩は昭和で終わったのではないか。いや、読んでいないが。
詩と詩情の違いは何か、というと、「詩」とは形式的に詩の形を取っているもので、その中に詩情(美感)があるかどうかで、「単に行分けした散文」にすぎないものと真の詩に分かれる。小学生に読ませる児童向けの詩は前者が圧倒的に多いので、詩や詩人が馬鹿にされることになる。それよりはポップスの歌詞のほうがはるかに詩情があるわけだ。もっとも、最近のポップスは、歌詞そのものが聞き取りにくいので、歌詞に詩情があるかどうかは私には分からない。詩情より市場優先のポップスになっていないか? www
ついでに言えば、前にも書いたが「ポエマー」とは詩情の欠如した詩(あるいは、意味不明の言葉)を書く、有象無象の自称他称詩人のことを言う造語(蔑称)である。小泉進次郎(の発言)もそれだ。
話を前に戻して、恩田陸のことだが、彼女自身が詩情を愛していることは、その作品の細部によく表れている。作中で言及される事象や名称が、詩的な事柄であるだけでなく、作品タイトルや章題にしばしばジャズやクラシック音楽や昔のポップスのタイトルを使うことで、それが分かる。その好みが私の好みとだいたい同じであるのが、私には嬉しいが、そういう恩田ファンは多いかもしれない。ちなみに、歌や映画や小説のタイトルは、それ自体が「短い詩」なのである。たとえば「太陽がいっぱい」など、そのタイトルだけで、既に映画を見たような気持になるのではないか。これなど、名タイトルの代表的なもののひとつだろう。
恩田陸の小説にも言及されていた「去年マリエンバードで」なども、実に詩的なタイトルである。映画そのものは、夢の中でまた夢を見ているような、夢幻的なもので、意味を考えるのではなく、感覚(情感)の中に浸るのが正しい鑑賞法だろう。
まあ、映画がセックスそのものを描写するようになってから、映画から詩情は消えたというのが私の説である。至高の恋愛も、やってしまえばただの猿の交尾だ。恋愛は性交のための手続きではない。まあ、一種の病気かもしれないが、美しい精神病である。だから小説になり映画になる。もちろん、恋愛は詩の最大のネタだ。
なお、小説の「話」そのものより、描写の詩情が価値がある作家として、フィッツジェラルドやカポーティなどがそれではないか、と思う。先ほど、フィッツジェラルドの「バビロン再訪」(映画「雨の朝パリに死す」の原作)を読んだが、「小説家としては下手だなあ。でも、詩情があるなあ」と感じたので、追記する次第だ。その発展形が村上春樹だろうか。ただし、小説家として、より上手い分、詩情はフィッツジェラルドほどではないと思う。なお、「バビロン再訪」の映画化の際のタイトル「雨の朝パリに死す」は原作タイトルよりはるかに優れているが、映画の原題は知らない。日本の映画配給会社の人が付けたなら、抜群のセンスである。映画の主題曲が「The last time I saw Paris」だと思うので、映画の元の題名もそれではないか。昔の人は言葉のセンスがいい。小説の方のタイトルは「Babylon revisited」。
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