ああ世は夢か幻か
「美しき天然」という唱歌のメロディーが好きである。
空にさえずる鳥の声
峰より落つる滝の音(後略)
しかし、この歌ほど悲惨な運命をたどった楽曲はない。まず、ジンタというサーカスの客寄せの宣伝の曲に使われた。
そして極め付きは、殺人者が獄中で作詞したのが巷に流れ、「美しき天然」の替え歌になってしまったことだ。
1902年というから明治の末期である。東京の麹町で、11歳の少年が圧殺され、臀部の肉がはぎ取られる事件がおこった。
犯人は、東京外語生だった野口男三郎といい、「男三郎事件」として有名になる。男三郎はある家の入り婿になったが、義兄はらい病患者だった。
らい病(レブラ)には人肉が効くという迷信があり、それを信じた男三郎は、少年の臀部の肉を煮て義兄に食わせ、スープを飲ませたのである。
逮捕された男三郎が、獄中で作った詞はこうである。
1,ああ世は夢か幻か
獄舎に独り思い寝の
夢より醒めて見廻せば
あたりは静かに夜は更けて
2.月影淡く窓を射す
ああこの月の澄む影は
梅雨いとけなき青山に
静かに眠る兄上の
3.その墳墓を照らすらん
また世を忍び夜を終夜
泣き明かす
愛しき妻の袂にも
このもの悲しい詞を、演歌師が「美しき天然」のメロディーで歌い、一世を風靡したのである。
少年時代にこの歌を歌い、私は父にひどく叱られた。
(去年の名月)