「谷間の百合」から抜粋転載。
まったく、私も同感である。
「競争」とは言うまでもなく「競い」「争う」ことだが、「争う」ことを上の人間が下の人間に強制したり、勧めたりする社会が良いものであるはずはない。他人と競いたくない、争いたくない、という平和的人間(まあ、周囲からは弱虫・無能力者と看做されがちだが)も沢山いるだろう。しかも、この国の総理はそれに加えて、隣国との「争い」を積極的に進めているわけだ。
「競争」の概念が良い意味で捉えられるようになったのは、スポーツのためではないだろうか。確かにスポーツは(「紳士のスポーツ」と言われた、昔のゴルフなどを除いて)、他者との競争がその本質である、と言っていい。他人との競争の結果、選手の能力も向上し、勝利の栄光も手に入るわけだ。だから、「競争は正しい」「競争は素晴らしい」というような思い込みが世界的に広がってきたのだろう。しかし、スポーツにおいて競争が肯定されるからと言って、他の分野でも競争が正当性を持つかどうか、ここらで立ち止まって考える必要があるのではないか。
そもそも、スポーツの世界では厳密なルールでスタート時点の公平性が担保されており、ルールを守って競技することが大前提だ。そして、たとえルール違反ではなくても汚いプレーは批判され、「フェアプレー」が賞賛されるものであるはずだ。(最近は、「フェアプレー」が馬鹿にされ、ずるいプレーが賞賛されるという傾向もあるのだが。)
では、他の分野でそういう「スタート時点の公平性」はあるか。ほとんど無いはずである。学歴競争だけは、だいたいそういう公平性のもとにある、とも言えるが、それ以外には思いつかない。また、ルールを守るという点、フェアプレーの点においても、実社会というものはスポーツの世界とは似ても似つかないものであるのは言うまでもない。
とすれば、実社会における「競争」は、人間性を堕落させ、勝者を傲慢にし(下記記事における女性管理職を見よ。)、敗者を負け犬にし、精神的にどん底に追い込むものではないか。
もちろん、実社会においても「良い競争」もあるだろうが、競争というものへのこうした批判精神、つまりブレーキを持つことが、今の社会には必要ではないだろうか。
なお、実社会における「競争」の対抗概念として、私は「職人意識」を挙げたい。つまり、他者と戦ったり、他人の足を引っ張って勝とうとするのではなく、自分の職業への誇り(あるいは自分自身へのプライド)から、誰に言われなくても常に最善の仕事をする、という精神だ。日本の多くの「現場仕事」では、こうした職人意識で仕事は行われているはずである。
(以下引用)
きのう、総理は成長戦略の第三弾?として「稼ぐ力」という努力目標を出してきましたが、ちょっと意味がわかりません。
ごまかさないようにハッキリ言ってもらわないと分からないのです。
「競争力」というキーワードが価値観を持ち市民権を得るようになったのは竹中、橋下両人の努力の賜物?ですが、この頃思うのが、ほんとうに競争しなければ国は没落していくのだろうかという疑問です。
総理はグローバル経済に勝ち抜くためと言いますが、グローバル経済とは多国籍企業を中心にして動く経済のことではありませんか。
その多国籍企業に勝つということですが、総理の推し進めている政策はすべて多国籍企業を利するものばかりです。
ウソなのです。
実際は、多国籍企業のために、日本人を奴隷にして相競わせて極限まで働かせるのが「稼ぐ力」ということではありませんか。
ほんとうに、人はなんのために働くのかという根本のところが分からなくなりました。
企業エゴの代弁者である経団連が、日本の政治を主導している感さえあります。
そこで働く人あっての企業です。
そこの製品や商品を買ってくれる人あっての企業です。
人びとに支えられているという原点を忘れ、危険な国家戦略に進んで協力し国民を苦しめている企業は早晩天罰がくだることになるのではないでしょうか。
競争力にそれほどの経済効果があるのなら、過酷な競争社会だといわれる韓国はもっと国力を付けて発展していなければならない道理です。
わたしは競争がむしろ国力を削いでいるのではないかと思っています。
働く喜びを奪い、競争だけを強いる社会が豊かになるとはとても思えません。
今年の上級公務員試験の合格者は女性が男性を上回ったというニュースがありました。
わたしがあまり喜ばしいことだと思えないのは、いままで遭遇した複数の管理職の女性の対応がトラウマになっているからかもしれません。
その横暴さは犯罪的でさえありました。
後日、上司の男性が訪ねてきて「恥ずかしいことですが、自分も何も言えないのです。あの人もちゃんと試験に受かって今の地位にあるのですから、、」とよくわからない言い訳をしました。
つまり、優秀な女性だと言わんとしたのでしょう。
子どものときから、勉強で競争してきた人はやはり違いますね。
(もちろん、男性だって横柄で威張り散らす人間はゴマンといます。)
まったく、私も同感である。
「競争」とは言うまでもなく「競い」「争う」ことだが、「争う」ことを上の人間が下の人間に強制したり、勧めたりする社会が良いものであるはずはない。他人と競いたくない、争いたくない、という平和的人間(まあ、周囲からは弱虫・無能力者と看做されがちだが)も沢山いるだろう。しかも、この国の総理はそれに加えて、隣国との「争い」を積極的に進めているわけだ。
「競争」の概念が良い意味で捉えられるようになったのは、スポーツのためではないだろうか。確かにスポーツは(「紳士のスポーツ」と言われた、昔のゴルフなどを除いて)、他者との競争がその本質である、と言っていい。他人との競争の結果、選手の能力も向上し、勝利の栄光も手に入るわけだ。だから、「競争は正しい」「競争は素晴らしい」というような思い込みが世界的に広がってきたのだろう。しかし、スポーツにおいて競争が肯定されるからと言って、他の分野でも競争が正当性を持つかどうか、ここらで立ち止まって考える必要があるのではないか。
そもそも、スポーツの世界では厳密なルールでスタート時点の公平性が担保されており、ルールを守って競技することが大前提だ。そして、たとえルール違反ではなくても汚いプレーは批判され、「フェアプレー」が賞賛されるものであるはずだ。(最近は、「フェアプレー」が馬鹿にされ、ずるいプレーが賞賛されるという傾向もあるのだが。)
では、他の分野でそういう「スタート時点の公平性」はあるか。ほとんど無いはずである。学歴競争だけは、だいたいそういう公平性のもとにある、とも言えるが、それ以外には思いつかない。また、ルールを守るという点、フェアプレーの点においても、実社会というものはスポーツの世界とは似ても似つかないものであるのは言うまでもない。
とすれば、実社会における「競争」は、人間性を堕落させ、勝者を傲慢にし(下記記事における女性管理職を見よ。)、敗者を負け犬にし、精神的にどん底に追い込むものではないか。
もちろん、実社会においても「良い競争」もあるだろうが、競争というものへのこうした批判精神、つまりブレーキを持つことが、今の社会には必要ではないだろうか。
なお、実社会における「競争」の対抗概念として、私は「職人意識」を挙げたい。つまり、他者と戦ったり、他人の足を引っ張って勝とうとするのではなく、自分の職業への誇り(あるいは自分自身へのプライド)から、誰に言われなくても常に最善の仕事をする、という精神だ。日本の多くの「現場仕事」では、こうした職人意識で仕事は行われているはずである。
(以下引用)
きのう、総理は成長戦略の第三弾?として「稼ぐ力」という努力目標を出してきましたが、ちょっと意味がわかりません。
ごまかさないようにハッキリ言ってもらわないと分からないのです。
「競争力」というキーワードが価値観を持ち市民権を得るようになったのは竹中、橋下両人の努力の賜物?ですが、この頃思うのが、ほんとうに競争しなければ国は没落していくのだろうかという疑問です。
総理はグローバル経済に勝ち抜くためと言いますが、グローバル経済とは多国籍企業を中心にして動く経済のことではありませんか。
その多国籍企業に勝つということですが、総理の推し進めている政策はすべて多国籍企業を利するものばかりです。
ウソなのです。
実際は、多国籍企業のために、日本人を奴隷にして相競わせて極限まで働かせるのが「稼ぐ力」ということではありませんか。
ほんとうに、人はなんのために働くのかという根本のところが分からなくなりました。
企業エゴの代弁者である経団連が、日本の政治を主導している感さえあります。
そこで働く人あっての企業です。
そこの製品や商品を買ってくれる人あっての企業です。
人びとに支えられているという原点を忘れ、危険な国家戦略に進んで協力し国民を苦しめている企業は早晩天罰がくだることになるのではないでしょうか。
競争力にそれほどの経済効果があるのなら、過酷な競争社会だといわれる韓国はもっと国力を付けて発展していなければならない道理です。
わたしは競争がむしろ国力を削いでいるのではないかと思っています。
働く喜びを奪い、競争だけを強いる社会が豊かになるとはとても思えません。
今年の上級公務員試験の合格者は女性が男性を上回ったというニュースがありました。
わたしがあまり喜ばしいことだと思えないのは、いままで遭遇した複数の管理職の女性の対応がトラウマになっているからかもしれません。
その横暴さは犯罪的でさえありました。
後日、上司の男性が訪ねてきて「恥ずかしいことですが、自分も何も言えないのです。あの人もちゃんと試験に受かって今の地位にあるのですから、、」とよくわからない言い訳をしました。
つまり、優秀な女性だと言わんとしたのでしょう。
子どものときから、勉強で競争してきた人はやはり違いますね。
(もちろん、男性だって横柄で威張り散らす人間はゴマンといます。)
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