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「事件」の方程式

別ブログに書いた「創作論」だが、現実の「事件」にも適用できるかと思うので、暇つぶしの文章としてお目にかける。「事件=人物×欲望×行動」という基本等式は、わりとまともだと思う。「人物・欲望・行動」のどの要素が欠けても事件にはならないだろう。で、それ(単独事件)は要素の「和」ではなく「積」である。同じ欲望でもどういう人物が持つかで事件が巨大になる。山上事件がそれである。
統一教会への復讐の気持ちを持った人間はたくさんいただろう。しかし、それをあれほど巨大な事件にした(標的を安倍にした)のは山上という人間の抜群の優秀な人格(キャラクター)による。つまり、手記に書かれていたように、分裂状態の統一教会の誰かを狙撃しても無意味だと判断し、統一教会の事実上のバックボーンである安倍を標的に変えるだけの見事な判断力を見せたのである。

捜査の面から言えば「容疑者のキャラ」「犯罪動機」「事件(現場)の詳細」を解明することが、事件全体の解明になるわけだ。さて、本気で捜査しているかね。警察上層部からはどんな命令が出ているやらwww

(以下自己引用)

小説、あるいは脚本の本質を「事件」と見做して、事件とはどういうものか、数学的に考察してみたい。
おそらく、事件とは「人物×欲望×行動」という積で表現されるものかと思う。で、その人物や欲望や行動が複数になって、事件が複雑化するわけである。物語とは「a× b× c+ d× e×f+ g× h× i」のような積と和の総合だろう。ただし、その中の欲望因子であるものが「b=e=h」であったりするわけである。つまり、3人が同じ女に恋着したり、同じ宝物を狙ったりすることもある。そして、ひとつの場面での個々の行動と、次の場面での個々の行動は変化するから、この積と和の連続は無限に展開する。変わらぬもの、あるいは基本的に変わらぬ物は、人物の個性(キャラクター)である。長編小説では人物のキャラが変わったりもするだろうが、映画やテレビドラマで人物のキャラが変わるのは反則行為だろう。ただ、善人と思われていたキャラが実は悪人だったというのはキャラの変更ではない。単に「偽善者」というキャラだったのである。
ただし、注意したいのは、寺田寅彦が言っているように、実は映画では「筋」というのはさほど大事ではない。大事なのはシーンであり、シーンとシーンの連続から来る興味である。だから、名作と言われる名画は名シーンが必ずある。キューブリックの映画などは最初から最後までが名シーンである。二流の作品は、シーンとシーンの間に「たるみ」がある。


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