私は昔からロック音楽が嫌いで、なぜかというと「音がうるさい」からである。で、ロック好きな若者から「静かなロックもありますよ」と言われたのだが、静かなロックは本当にロックなのか、という疑問もある。では、ロックとは何か、と言えば、その本質は「反抗精神」だろう、と思うのだが、異論は認める。
「ロック精神とは反抗精神だ」とすると、私は既成概念というもの、特に「流行りの概念」は大嫌いなのだが、私はロック音楽が嫌いなくせに私の精神はロックなのだろうか。
私は(「私」という語を多用することから分かるように)自己愛が非常に強い人間なのだが、「何かへの反抗」とは、そもそも自己愛の産物だろう、と思う。だから私の文章は他者批判がほとんどなのかもしれない。まあ、自己愛と反抗精神との関係は措いておく。
で、私がロック音楽(以後は単に「ロック」と表記する)が嫌いなのは、音量的にうるさいだけで反抗精神などかけらもない、という「疑似的ロック」が多いのではないか、と思うからだ。
昔、「理由なき反抗」という映画があって、私はその映画の主人公が嫌いなのだが、それは主に「理由なき反抗」という題名のためだったように思う。私のロック嫌いは、それと通底している気がする。つまり、「権威や権力に反抗しているフリだけの、甘ったれた遊び」に見えるのだ。反抗するなら、「反抗する理由」があって当然だろう。学校という制度や機構が若者(自分)を抑圧しているなら、それをはっきり言葉で表明するか、学校の校長や教師と戦えばいい。校舎の窓ガラスを壊して、何の「反抗」なのか。その修理のために父兄の懐に損害を与えるだけだ。
私は「本物の反抗」は非常に高く評価する。
そういう意味で本当にロックなのはたとえば映画「暴力脱獄」の主人公、「冷たい手のルーク」や、あるいははるかに巨大な存在だが、キリストやルターなどこそがロックだと思う。
若者がゲバラの顔を描いたTシャツなどを着るのも、ロック精神がそこにあるからだろう。ならば、キリストの顔を描いたTシャツのほうが、骸骨や悪魔を描いたTシャツよりロックなのではないか。(ロックが骸骨や悪魔を表象として好むのは、「既成秩序への反抗」のお手軽な表象だからだろう。西洋では、やはり宗教の束縛が強いからで、キリスト教と無関係な東洋人が骸骨や悪魔をロックの表象とするのは馬鹿であるわけだ。)
「ロック精神とは反抗精神だ」とすると、私は既成概念というもの、特に「流行りの概念」は大嫌いなのだが、私はロック音楽が嫌いなくせに私の精神はロックなのだろうか。
私は(「私」という語を多用することから分かるように)自己愛が非常に強い人間なのだが、「何かへの反抗」とは、そもそも自己愛の産物だろう、と思う。だから私の文章は他者批判がほとんどなのかもしれない。まあ、自己愛と反抗精神との関係は措いておく。
で、私がロック音楽(以後は単に「ロック」と表記する)が嫌いなのは、音量的にうるさいだけで反抗精神などかけらもない、という「疑似的ロック」が多いのではないか、と思うからだ。
昔、「理由なき反抗」という映画があって、私はその映画の主人公が嫌いなのだが、それは主に「理由なき反抗」という題名のためだったように思う。私のロック嫌いは、それと通底している気がする。つまり、「権威や権力に反抗しているフリだけの、甘ったれた遊び」に見えるのだ。反抗するなら、「反抗する理由」があって当然だろう。学校という制度や機構が若者(自分)を抑圧しているなら、それをはっきり言葉で表明するか、学校の校長や教師と戦えばいい。校舎の窓ガラスを壊して、何の「反抗」なのか。その修理のために父兄の懐に損害を与えるだけだ。
私は「本物の反抗」は非常に高く評価する。
そういう意味で本当にロックなのはたとえば映画「暴力脱獄」の主人公、「冷たい手のルーク」や、あるいははるかに巨大な存在だが、キリストやルターなどこそがロックだと思う。
若者がゲバラの顔を描いたTシャツなどを着るのも、ロック精神がそこにあるからだろう。ならば、キリストの顔を描いたTシャツのほうが、骸骨や悪魔を描いたTシャツよりロックなのではないか。(ロックが骸骨や悪魔を表象として好むのは、「既成秩序への反抗」のお手軽な表象だからだろう。西洋では、やはり宗教の束縛が強いからで、キリスト教と無関係な東洋人が骸骨や悪魔をロックの表象とするのは馬鹿であるわけだ。)
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