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運命(4)

燕王は太祖の第4子で、威容あり、智勇あり、大略あり、臣下をよく使い、太祖に似ているところが多かったので太祖もこれを喜び、人も或いは彼を次期皇帝として心を寄せる者が多かった。そこで太祖も、彼を次期皇帝にという気持ちもあったが、老臣劉三吾がこれを阻んだ。
三吾が言うには、もし燕王を皇位に立てなさるなら、秦王、晋王をいずこに置きなさるのかと。
秦王、晋王はどちらも燕王の兄である。兄を越して弟を立てるのは長幼の序を乱るものでございます。それでは無事に済みますまい、と。太祖もその道理に頷いて、元のとおりに太孫を皇太孫とした。
太祖の遺詔に言う、「諸王は自国で服喪し、都に来ることが無いようにせよ」とは、諸王が葬儀参列のためにその封土を去って都に来たならば、前王朝元の遺臣や辺境の異民族がその虚に乗じて事を挙げることもあろうかという深い慮りのためだろう。
だが、子供が父の葬儀に出たいというのは肉親の情である。諸王が葬儀に参列することを禁じたその詔は、はたして真に太祖の言葉であろうか。
太祖の崩御を聞いて、諸王は都に入ろうとし、燕王はまさに淮安に至ろうとした時に、斉泰は帝に申して、諸王への勅を発して国に帰らせた。燕王をはじめ、諸王はこれを不快に思ったであろう。この勅は尚書斉泰が帝と諸王を離間させようとするものだと彼らは言った。
建文帝は位に就いた最初から、諸王に不快感を与えたのである。


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運命(3)

太孫(洪武帝の孫)が皇太孫(皇位を継ぐ孫)となった以上、若年とは言ってもやがて天下の君となるべく、諸王に或いは功績があり、或いは徳があっても、遠からず皇帝の前に頭を下げてその命を奉ずるべきであり、道理において皇太孫を尊敬するべきである。しかし、諸王は積年の威を押し立て、封土の巨大さに傲慢になり、また皇太孫の叔父であることの尊さを理由にして不遜なふるまいが多かったので、皇太孫はどれほど心苦しく厭わしく思い沁みたことだろうか。
或る日、侍読(皇室の家庭教師的存在)の太常卿黄子澄という者に、諸王の驕慢の様を嘆き、諸叔父それぞれ大封大兵を擁し、叔父の尊い故を頼みに私に対して傲然と向かう、この行く末のことも、どうすればいいのだろう、これに処し、これを制する道を問う、とおっしゃった。
子澄は博学の人であったが、世故に長けておらず、ひたすら太孫に忠実であろうと思うあまり、「このような例はその昔もあったことで、ただし、諸王の兵が多いとは言っても、元々は護衛の兵で、わずかに自ら(護衛対象)を守るだけの兵です。前々代に漢が七国を削った時、七国は背きましたが、まもなく平定しました。心やすくお思いください」と七国の例を出して答えたので、太孫も、子澄の答えを道理(もっとも)だと信じなさった。太孫は年が若く、子澄もまだ世に老いておらず(世間知が少なく)、片時の談にすぎない七国の論が、あに図らんや、他日、山崩れ、海が沸騰する大事を生じようとは。

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運命(2)

太祖(洪武帝)が諸子を封じて王としたのも、また多いと言うべく、枝葉が多く幹がかえって弱いという成り行きになったのも、当然かもしれない。明の制度として、親王は多大な財産を与えられ、歳禄は万石、護衛の士は少ないもので三千人、多いものは一万九千人にのぼり、正装、車、旗、邸宅の様は天子に近い有様で、公侯大臣も伏して拝謁する。皇族を厚くし、臣下を抑えるのもまた、極度の様と言うべきだろう。しかも、元の末裔がなお存在して、時には辺境に出没するという理由で、辺境に接する諸王には、その国内で専制し、多くの軍兵を擁することを可能にし、諸事、親王に報告の上でその決裁を仰ぐようにした。諸王に権力を得させる様、大であると言うべきのみ。
太祖が心に思うには、このようにすれば、幹と枝という元末が互いに助け合い、朱氏(朱一族)が長く栄えて、威権が下に移ることもなく、転覆の憂いも無くなるだろうと。
太祖の深智達識は、まことに前代の覆轍に鑑みて、後世に長計を残そうとしたものだ。だが、人智には限りがあり、天意は測り難い。太祖が熟慮遠謀して施し為したことが、太祖の墓の土がまだ乾かないうちに、北の平原(注:原文の「北平」は北京の意味らしいが、ここでは意図的に「誤訳」しておく。)の戦乱の塵が舞い上がり、矢と石が都城に降り注ぎ、皇帝が遠い僻地に逃走する原因になろうとは、誰が予想しただろうか。

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運命 (1)

建文皇帝は、太祖高皇帝(洪武帝)の正嫡の孫である。父太子が太祖に継ぐべきであったが、夭折しなさったので、洪武三十一年に孫君を即位させて、翌年を建文元年となさった。帝は時に十六歳である。思慮深く温和な人柄であった。
太祖(洪武帝)が言うには「私は乱世(元末の乱世)を治めたので、刑を重くせざるを得なかった。お前は平世を治めるのだから、刑を軽くするがよい」と。建文帝刑官に向かっていわく、「それ律は大法を設け、礼は人情に従う。民を整えるに刑をもってするは礼をもってするに如かず。天下有司(諸官僚)に諭し、務めて礼教を尊び、疑獄を赦(ゆる)し、朕があらゆる方面、人々と共にするのを喜ぶ意に叶うようにせしめよ」と。その、民に慈であり、性質の温良なこと、このごとくであった。
このような人柄であったにも関わらず、帝となって帝位を保つことができず、死後に、その在位の記録すら長い間歴史から消されていたこと、廟も墓もないままであったことは、歴史の、あるいは運命の残酷さの一例だろうか。

建文帝が国を譲らざるを得なくなった、その最初の原因は、太祖(洪武帝)が諸子を封ずる(領土を与える)ことが過当であり、その領土が広く、その権力が過大であったことによる。
太祖は天下を平定した後、前代の宋や元の転覆した原因を考え、宗室の孤立はその無力の原因であるとして、子供たちを多く四方に封じて兵馬の権を得させ、それによって帝室の守りとさせ、都を共に守らせようとしたのである。これは無理の無い理屈であり、兵馬の権が他人の手に落ち、貨幣や穀物の利益が宗室の所有とならず、諸侯が外に驕り、その間に奸邪の輩がはびこるならば、一朝、事有る場合には都城を守ることができず、宗廟は失われるに至るだろう。
というわけで、洪武帝は、第二子から第二十五子に至るまで、秦王、晋王、燕王、その他の諸王とした。この第4子燕王が後の永楽帝、つまり、建文帝との闘争に勝って帝位に就いた王である。洪武帝の第4子とは、建文帝の叔父にあたる。


(注)未校正、未添削のまま載せるので、誤記や不適切な記述もたくさん出て来る。それらは随時校閲訂正していく予定。


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