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小説と「読者の視点」

私はドストエフスキーの作品はかなり読んだ部類だと思うが、「二重人格」と「貧しい人々」は読んでいない。前者は途中まで読んで中断していたが、そこまで読むのにかなり難渋していた。後者は、「あまり楽しくない話だろうな」という予想があるからで、私にとって読書とは何よりもまず快楽であり娯楽だからである。「二重人格」を読むのに難渋したのも、それが「楽しくない」からだった。何しろ、主人公が人格低劣な下級官吏で、その心理を精細に描くのだから楽しいはずがない。
しかし、先ほど、寝床の中で同書を数ページ読んで考えたのだが、これは読む側が主人公に感情移入して読んではいけない種類の小説ではないか。つまり、主人公と同じ平面で世界(小説世界)を見るのではなく、主人公も含めて小説世界を「高みから見下ろして眺める」小説ではないか、ということだ。言葉を換えれば、この作品は喜劇、あるいは笑劇であり、読み手が心理的にその作中人物と同じ平面にいては、「笑えない」のである。
だが、読者の多くはふつう、小説の主人公に感情移入するものだ。そこに「二重人格」の読みにくさや不快感の原因があるということだ。感情移入してはいけない主人公に感情的に同化していてはそうなるのが当たり前だろう。

そこで思い出したのが深沢七郎の「絢爛の椅子」である。これは女子高生殺人事件の殺人犯の少年の心理を克明に描き出した小説だが、読者は読んでいる途中から、この少年の精神が、読んでいる自分とは別種の、しかし世間にはごくありふれた種類の精神でもあることに気づくのが大半だと思う。そこで、読者の心理の安全性は保たれるのだが、その一方で、世間にこうした殺人者の精神を持った人間がたくさんおり、自分の間近に無数に蠢いていることに不安感も持つのである。
これは石原慎太郎の初期の作品である「処刑の部屋」(訂正→「完全なる遊戯」)でも同じだ。小説家の中には、この種の「天才的想像力」を持つ人間がおり、つまり殺人者(アモラルな人間、低俗な人間、低知能の人間等等)の心理に「成り切れる」才能の持ち主だ。当然、世間の「普通の人間」は、この種の作品に嫌悪感を持つ。それが健全でもある。だが、文学の可能性は、この種の「冒険性」で切り開かれるものでもあるだろう。

ついでながら、「作中人物=作者」ではないのは当然だし、「主人公=作者のヒーロー」でもない。私はドストエフスキーの「未成年」を読むのに難渋していたが、当たり前の話で、主人公の青年は馬鹿な未成年者であるからだ。つまり、感情移入しにくい人物で、むしろ感情移入するべきではない存在なのである。そこで、主人公(語り手でもある)は馬鹿な未成年者だという視点で高みから見下ろすと、この小説世界がクリアに見えてきて、実に面白い小説になったのだが、これは「読書の難しさ」という一面を示してもいるようだ。そんな面倒くさい作業は嫌だ、という人もいるだろうが、それは「雲丹(蟹でも海老でもいいが)の姿は気持ち悪いから食うのも嫌だ」という、もったいない話である。私自身、こうした読み方が(いつもではないが)できるようになったのはごく最近なのである。

なお、この外に、川端康成の「夏の靴」などを念頭に置いた「小説とポエトリー(詩情)」という思考テーマも考えたが、それはいずれ考えたい。「夏の靴」は、心の部屋の壁に飾っておきたい(特選の)「小さなスケッチ画」である。




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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