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劇場型恋愛について(承前)

さて、右近の下の和歌だが、


わすらるるみをばおもはずちかひてしひとのいのちのをしくもあるかな


多くの人は、句読点や分かち書き、漢字無しでこの歌を読むと次のように読むのではないだろうか。漢字交じりで書くと、こんな感じ。(って、これは駄洒落ではない。)


忘らるる身をば思はず誓ひてし。人の命の惜しくもあるかな。


この読み方で、最初の句点の位置が間違っている、と判断できる人がどれくらいいるだろうか。
というのは、現代語で「思わず」は、「思わず○○してしまった」のように副詞的に使われることが多いから、「思わず」を「誓ひてし」に掛かる修飾語だ、と判断するのは大いにありそうだ、と私は思うのである。しかも、前回書いたように、我々は和歌の上の句と下の句の切れ目をそのまま意味の切れ目(句切れ)として読みがちだから、「~誓ひてし。」と句切ってしまうのではないか。
もちろん、古文に堪能な方なら、「誓ひてし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、終止形ではないから、ここが句切れではなく、「誓ひてし」は、次の「人」という名詞(体言)を修飾するものだ、と分かるのだが、ここでは「一般人」つまり、古文の勉強など、いい加減にしかしなかった人のことを言っている。
言うまでもなく、正しい読みは、「思はず」の「ず」が終止形だから、ここが句切れで、次のようになる。

忘らるる身をば思はず。誓ひてし人の命も惜しくもあるかな。


しかし、問題はそれでは終わらない。いったい「忘らるる」の主語(主体)は誰、「人」とは誰、という問題がある。それが分からないと、この歌は意味不明である。
そこで必要なのが、「古文世界の理解」というもので、言い換えれば、王朝(平安)文学の世界の(生活習慣・生活感情)理解だ。ただし、以下に書くことは、私の個人的な理解であり、こんなことは古文の参考書にはほとんど書いていないと思う。あるいは、私が無知なだけで、古文常識かもしれないが、私は読んだことは無い。
それは、「和歌とは基本的には個人的詠嘆を歌うものではなく、何よりも、誰かに宛てたメッセージである」ということ、「それらの歌が残ったということは、そのメッセージが、たとえ個人的なものでも、それは他の人にも知られることを前提として詠まれたものだ」ということである。これが恋の歌であるならば、それは「自分たちの恋を他人に披露する」という側面があった、というのが、私の「古文常識」なのである。
特に、平安文学における(いや、大和・奈良時代も含めて)歌に詠まれた恋愛は、その恋愛を「他人に披露し、人々を面白がらせる」という側面があったというのが私の推測である。これを私は「劇場型恋愛」と呼ぶことにする。
たとえば、額田王の有名な「茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る」は、おそらく宴会の席上で、座興として詠まれたものだろう、というのは、誰だったかは忘れたが、高名な大学の先生が言っていた説だ。私もそう思う。額田王をめぐる天智天皇と天武天皇(当時はまだ天皇ではないが)の心理的闘争が無かったとは言わないが、この歌が詠まれた時点では、額田王はかなりな年齢であり、大海人皇子(後の天武天皇)が額田王に「袖を振った」のも冗談なら、額田王が即座にそれを「たしなめて」みせたのも冗談に対する当意即妙の応答だったというのがたぶん、正しい解釈なのである。
これが「劇場型恋愛」の典型的なものだが、さて、「忘らるる」の歌もまた劇場型恋愛の歌だ、と私が思う理由は、そう解釈しないと、腑に落ちないからである。
前に書いた句切れで読むと、解釈は次のようになる。



現代語訳
あなたに忘れられる我が身のことは何ほどのこともありませんが、ただ神にかけて (わたしをいつまでも愛してくださると) 誓ったあなたの命が、はたして神罰を受けはしないかと、借しく思われてなりません。


上の解釈(現代語訳)の中の「借しく」はもちろん「惜しく」の誤植だが、原典を尊重してそのままにしておく。
それはともかく、この歌を純粋に個人的な歌(メッセージ)だと考えると、不自然に思わないだろうか。「あなた(ここでは『人』と言っている。つまり、『誰かさん』だ。)は私との恋の誓いを破ったのだから、神罰で死にますよ」と言っているのである。いかに、自分を振った相手だからと言って、ここまで言うだろうか。だから、私はこれを「多くの人に披露し、ウケることを狙った歌だ」と推理するのである。
現代人は恋愛というと、中島みゆきの或る歌のように「道に倒れて誰かの名を呼び続ける」ような壮絶なもの、あるいは失恋というと、『よつばと!』のよつばが言うように「あの、殺したり、死んだりするやつな」と思っているから、恋愛の和歌というものもその手の重苦しい、生きるか死ぬかのものと想像しがちだが、平安朝廷における恋愛の大半は、「遊戯的恋愛」だった、というのが私の考えだ。むしろ『蜻蛉日記』の作者のような、陰鬱な恋愛は稀な例外だったのではないか。もちろん、「死ぬの生きるの」という恋愛歌が和歌には多いのだが、それを本気で詠んだ、とは私は思わないのである。なぜなら、それらが「人々に知られ、遺されている」からだ。
そもそも、恋愛の和歌にはパターンがあり、それは「私はこんなにあなたを愛しているのに、あなたは私を愛していない」ということを手を換え品を換え言い表すことである。
だからといって、その恋愛が本気でないとは言えない。言えないが、「外野席をかなり意識した恋愛」であることは確かだ、と私は思っている。何しろ、狭い世界だから、それは当然ではないだろうか。
そもそも、「汝(なれ)の命」とか「君(公とも書く)の命」と言わないで、「人(誰かさん)の命」とぼやかしたところに、この歌が個人に宛てたメッセージではなく、自分の失恋をネタにして周囲の人々の笑いを誘う目的の歌だったという、私の「非常識」な解釈の出発点があるのである。
この歌に深い思い入れのある人には申し訳ない「実も蓋もない」解釈だが、それでこの歌の価値が下がるものではないだろう。
平安の恋愛和歌の解釈として、この『劇場型恋愛』の概念は、あるいは、なかなか画期的で有用なものではないだろうか。












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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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