「クレアなひととき」(「in deep」の管理人氏の別ブログ)から転載。
「神」というものについては、私は単純に、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」「人間が神を作ったのは、人間の中に『神性』があるからだ」と考えている。つまり、人間の中には野獣性もあるが、神性もある、という、当たり前の思想をしている。
これが当たり前でなくなるのは、「神が人間を創った」派の人々、たとえばユダヤ教やキリスト教の人々がこの世界には存在し、しかもその連中が政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも世界をかなり支配しているからである。
さらに、どういうわけか、もともとキリスト教徒のほとんどいない日本ですら、「外部の神(的なもの)」を信じる者はいる。つまり、自分の頭で考え、自分で善悪を判断する代わりに、「権威的なもの」に思考も判断もすべてお任せするわけである。これはユダヤ・キリスト教の信者と同じ精神構造である。
こうした「良心(あるいは良知、ボン・サンス)の外部化(外部委託)」というのは、生きる上ではなかなか便利なもので、たとえば兵隊などは、上官の命令があれば相手が武器を持たない農民や市民だろうが、女子供だろうが、平気で殺せるようになる。実はこれは会社員なども同じであり、上司や会社の命令であれば、法律に違反しようが、倫理道徳に反しようが、平気で実行できるのが「有能な人間」として会社などでは重用されるのである。
「神が存在しなければ、作る必要がある」(ヴォルテール)
(以下引用)
最近、手当たり次第に Amazon などで本を買っていて、ほとんど古本なんですが、「一冊一冊理路整然と読んでいく」ということができない私は、手が空いた時に、その時の気分でどれか一冊手に取り、すでに読んだページ以降の適当な場所を開いて、10分くらい読み、また手が空いたら別の本を・・・という、実にいい加減な読書方法なのですが、しかし、それだけに、パッと目にしたフレーズが忘れにくいというものがあります。
今日、パッと開いて目にした部分で、とても「なるほど」と思ったのは、下のフレーズでした。
これは、谷口雅春の『生命の実相』からですが、この、
> 神や真理が私たちの「外」にあるのなら、私たちは決して自由になれない
ということは、以前からそんなようなことを思っていたこともありますが、現実には、さまざまな宗教では、たとえば、その宗教の聖典などを読めば、このことはどこかに必ず書かれてあることだと思うのに、「その宗教を伝えている人がそれを大きく言わない」というところに問題があるような気がしています。
世界中にある多くの宗教の多くの信者たちの中の多くが、
> 神は「外」にいる
というような概念を持っていると思うのですよ。
これでは、宗教を信仰すればするほど、自由になれない。
神(あるいは真理)は、「自分の内部にいる」と考えなければ、どこまでも「外部の神」に精神的に縛られてしまう。
上の文章を書いている谷口雅春も新宗教の代表ではあるわけですけれど、「人間と自由」という問題と、「宗教と自由」ということについて、漠然とそう思ってはいたことですけれど、上の部分は、文字として読んで刮目した部分ではあります。
「神」というものについては、私は単純に、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」「人間が神を作ったのは、人間の中に『神性』があるからだ」と考えている。つまり、人間の中には野獣性もあるが、神性もある、という、当たり前の思想をしている。
これが当たり前でなくなるのは、「神が人間を創った」派の人々、たとえばユダヤ教やキリスト教の人々がこの世界には存在し、しかもその連中が政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも世界をかなり支配しているからである。
さらに、どういうわけか、もともとキリスト教徒のほとんどいない日本ですら、「外部の神(的なもの)」を信じる者はいる。つまり、自分の頭で考え、自分で善悪を判断する代わりに、「権威的なもの」に思考も判断もすべてお任せするわけである。これはユダヤ・キリスト教の信者と同じ精神構造である。
こうした「良心(あるいは良知、ボン・サンス)の外部化(外部委託)」というのは、生きる上ではなかなか便利なもので、たとえば兵隊などは、上官の命令があれば相手が武器を持たない農民や市民だろうが、女子供だろうが、平気で殺せるようになる。実はこれは会社員なども同じであり、上司や会社の命令であれば、法律に違反しようが、倫理道徳に反しようが、平気で実行できるのが「有能な人間」として会社などでは重用されるのである。
「神が存在しなければ、作る必要がある」(ヴォルテール)
(以下引用)
最近、手当たり次第に Amazon などで本を買っていて、ほとんど古本なんですが、「一冊一冊理路整然と読んでいく」ということができない私は、手が空いた時に、その時の気分でどれか一冊手に取り、すでに読んだページ以降の適当な場所を開いて、10分くらい読み、また手が空いたら別の本を・・・という、実にいい加減な読書方法なのですが、しかし、それだけに、パッと目にしたフレーズが忘れにくいというものがあります。
今日、パッと開いて目にした部分で、とても「なるほど」と思ったのは、下のフレーズでした。
神とか、真理とかいうものがわれわれの「外」にばかりあるものならば、神とか真理とかに従うということは、われわれ自身が「外」から縛られることになりますので、われわれは決して自由になれないのであります。
神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、神に従うということ、真理に従うということが、自己に埋められている神性をのびのびと外に出すことになるのであります。
これは、谷口雅春の『生命の実相』からですが、この、
> 神や真理が私たちの「外」にあるのなら、私たちは決して自由になれない
ということは、以前からそんなようなことを思っていたこともありますが、現実には、さまざまな宗教では、たとえば、その宗教の聖典などを読めば、このことはどこかに必ず書かれてあることだと思うのに、「その宗教を伝えている人がそれを大きく言わない」というところに問題があるような気がしています。
世界中にある多くの宗教の多くの信者たちの中の多くが、
> 神は「外」にいる
というような概念を持っていると思うのですよ。
これでは、宗教を信仰すればするほど、自由になれない。
神(あるいは真理)は、「自分の内部にいる」と考えなければ、どこまでも「外部の神」に精神的に縛られてしまう。
上の文章を書いている谷口雅春も新宗教の代表ではあるわけですけれど、「人間と自由」という問題と、「宗教と自由」ということについて、漠然とそう思ってはいたことですけれど、上の部分は、文字として読んで刮目した部分ではあります。
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