第一に、この題名にそういう意味が隠されているとしたら、それは
誰の利益(娯楽)なのか
という問題だ。映画の内容からすると、ローマの休日を楽しんだのはヘップバーン扮する某国の王女だろう。で、それは誰を犠牲にして得た娯楽なのか。グレゴリー・ペック扮する新聞記者やその相棒の写真家が「特ダネをあきらめて、公表しなかったこと」か。はたして、それが「他人を犠牲にして得た娯楽」なのだろうか。まあ、百歩譲って、そういう「些細な」犠牲でも犠牲は犠牲だ、としてもいいが、それは「自分の自由な人生を半分あきらめて王女として生きる」王女の決心より小さな犠牲だろうか。
第二に英語原題の「Roman Holiday」は本当にそういう意味があるのか。これは調べてみる。romanは形容詞で「ローマの」の意味だ、と英語辞書にはある。つまり、「ローマの休日」は英語の直訳であり、まさにそのままで英語タイトルの意味を伝えているのである。確かにromanには「ローマ人の」の意味があるが、それはjapaneseが「日本の」でもあり「日本人(の)」の意味でもあるのと同じで、ごく普通のことだ。何も、roman holidayを、誰かを犠牲にして成り立つ娯楽、の意味に解することはない。少なくとも、この映画のどこにも、古代ローマのコロッセウムで剣闘士が殺し合ったり野獣と戦ったりしたような殺伐としたものは存在しない。唯一のバイオレンスは、ヘップバーン扮する王女が、彼女たちを捕まえに来た連中のひとりの頭をギターか何かでぶん殴る(カメラマンがその決定的シーンを撮り逃して、「もう一回」と注文すると、もう一度殴るというギャグがある。)シーンだけだwww
私は「ローマの休日」は歴代映画の中でも一、二番に好きな作品なので、宗純氏の度重なる「ローマの休日」への発言は神聖なものへの冒涜としか思えないのである。
(以下引用)
ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)
映画史に残る不朽の名作『ローマの休日』(オードリー・ヘプバーン主演、1954年日本公開)は、ローマ滞在中に自由を求めて宮殿を抜け出した王女アン(オードリー・ヘプバーン)と、町で偶然出会ったアメリカ人の新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)の恋を描くラブストーリー(★注、当時のハリウッド映画の定番のハッピーエンドではなく王女は恋を諦め記者はスクープ記事を諦めて別れる悲恋として描かれる)
日本語版タイトルは英語を日本語に直訳したものだが、この映画の正しいタイトルは「Roman Holiday」(=ローマ人の休日、「ローマの休日」はホリディ・イン・ローマ)
映画「ローマの休日」の原題の「ローマ人の休日」とは古代ローマ帝国においてコロッセウムでキリスト教徒をライオンに食わせるとか剣闘士の戦い(奴隷同士の殺し合い)を、ローマの民衆たちが見世物として楽しんでいた史実に由来する慣用句で「他人を犠牲にして得る娯楽・利益」という恐ろしい英語表現で、密かにタイトルにもう一つの意味が隠されていた。脚本を担当したダルトン・トランボは当時のアメリカで吹き荒れた「赤狩り」(マッカーシズム)の標的になって投獄され、ハリウッドから追放されたハリウッド・テンの一人で、「ローマの休日」には別人(偽名)で参加。死後の1993年「ローマの休日」アカデミー原案賞がトランボに贈られた。2011年米脚本家組合が『ローマの休日』のクレジットをトランボに変更したと発表した。2022年05月13日 | 経済 ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)