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人生の「聖性」と「地獄性」

小説には娯楽小説と純文学があるというのが私の考えだが、西洋の小説の中にはその垣根を超えたものが多い。サマセット・モームの選んだ「世界の十大小説」はほとんどすべてそれだと言っていい。
すなわち

1:トム・ジョーンズ
2:高慢と偏見
3:赤と黒
4:ゴリオ爺さん
5:ディヴィッド・コパーフィールド
6:ボヴァリー夫人
7:モウビー・ディック
8:嵐が丘
9:カラマーゾフの兄弟
10:戦争と平和

である。ただし、私はこの中で「ボヴァリー夫人」は読んでいない。たぶん、「娯楽性」がゼロだろうからだ。モーム自身も、この小説を「楽しくは読めない」と思っているらしいことがその筆致で分かる。しかし、「見事な小説」だから、高く評価したのだろう。
それ以外の九つは、すべて偉大な小説でありながら、娯楽性も抜群なのである。まさに、それこそが小説の目指すべきものだろう。
だから私は日本の「純文学」が嫌いなのである。そこには鋭い人間観察や人生への深い洞察はあるが、まったく「娯楽性」が無いからだ。読んでいて気が滅入る小説をなぜ書くのか。これが人間の真実だからと言って、美女の出した大便や無残な死体を目の前に置かれて嬉しいか。
と言うことで、私が読んで楽しくないだろうな、と見当をつけた小説を私はまったくと言っていいほど読まないが、それらが無価値だとは思わない。単に「私には」ほとんど無価値であるだけだ。

と書いたのは前置きで、先ほど読んだ中学生向けの名作短編集の中で、人間の聖性と地獄性について考え、そして、娯楽小説は概して人間の聖性を本質とし、日本の純文学は人間の地獄性を本質としているのではないか、と考えたからだ。というか、それは当たり前の話で、娯楽とは読んで楽しいということであり、地獄を見て楽しいという人間は稀だろう。そして聖性とは人間が天使的存在になることで、光に満ちているわけだ。

その意味では、この短編集「家族の物語」に載せられた向田邦子の「かわうそ」は日本的純文学で、井伏鱒二の「へんろう宿」や太宰治の「黄金風景」は娯楽小説だな、というのが私独自の評価である。遠藤周作の作品「夫婦の一日」も純文学だ。これらが一般的な「娯楽小説」と「純文学」の区別とは別の基準であることを注意しておく。遠藤周作が純文学と娯楽小説の二股をかけていたことは言うまでもないが、「夫婦の一日」は純文学であり、人間の生の地獄性を暗示していると思う。「へんろう宿」や「黄金風景」の背景は最底辺の庶民の生活や人生である。しかし、そこに聖性がある。つまり、光に溢れているのである。もちろん、庶民の生活がすべてそういうものであるはずはない。しかし、ここに描かれた生活は、人生の地獄を地獄とせず、明るく前を向いて生きている人々の生活だ。それを私は聖性と言うのである。つまり、人生を地獄にするか天国にするかはそれぞれの人次第である、という話だ。

なお、太宰治の「黄金風景」の冒頭に、プーシキンの詩の一節が置かれている。この作品を読んだ後で、この詩に戻ると、なぜそれが冒頭に置かれたか分かる。

「海の岸辺に緑なす樫の木、
その樫の木に黄金の細き鎖の結ばれて」

つまり、この「黄金の細き鎖」こそが人間の中の聖性である。



(注)人間の地獄性は、スィフトや筒井康隆のようにそれをブラックユーモアにした時に娯楽になるので、一応、注意しておく。これには高度な知能が必要なのであり、ネットのブラックジョークは、夜郎自大の下種たちの弱者叩きが大半で、笑えるものはほとんど無い。


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美術鑑識眼の無い詐欺師たち

100%まがい物だろう。これほど品の無いへたくそなゴッホの作品はありえない。まともな画家なら粉々にして廃棄するレベルの絵だ。中学生レベルの技術だろう。まともに髭すら描けていない。詐欺でも、もっとうまくやるべきである。あまりも恥ずかしい詐欺だ。

(以下引用)


専門家がこれまで知られていなかったゴッホの作品だと発表した肖像画/courtesy LMI Group International, Inc© CNN.co.jp

(CNN) 米ミネソタ州のガレージセールで購入された絵は、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホの手による未知の肖像画だった――。専門家によるそんな分析が新たに発表された。


絵は1889年、南フランスの精神病院に滞在中だったゴッホによって描かれたものだという。美術調査会社LMIグループがキャンバスの織り目や絵の具の顔料などの特徴を分析した結果、明らかにした。


2016年に骨董(こっとう)品コレクターが入手した絵の右下隅には、「エリマール」という言葉が記されている。


サイズは45.7×41.9センチ。専門家は4年間の作業を経て、ゴッホの絵であることを確認した。

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キャンバスの油絵には、パイプをくゆらせながら網を修理する白ひげ姿の漁師の肖像が描かれている。


LMIによると、デンマーク人の画家ミカエル・アンカー(1849~1927年)の絵が元になっており、他の画家の絵を「翻案」したゴッホの数多くの作品の一つだという。


研究チームは画布に埋め込まれた毛髪も発見し、分析に回した。LMIによると、人間の男性の髪の毛であることは分かったが、「劣化した状態」にあったため、毛髪のDNAをゴッホの子孫と一致させる試みは不首尾に終わった。


絵の分析は徹底的に行われたものの、オランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館によってゴッホの作品と認定される必要性がまだ残っている。


ファン・ゴッホ美術館は2018年12月、この絵の以前の所有者から打診を受けた際、ゴッホの絵と認定するのを拒んでいた。


ただ、19年に絵を入手したLMIは真贋(しんがん)に自信を示している。


LMIは報告書で、「以前存在が知られていなかったゴッホの絵が見つかるのは驚きではない」と指摘。「よく知られているように、ゴッホは多くの作品を紛失したり、友人に譲り渡したりしており、習作とみなした作品については特段大切にしていなかった。そうした習作は数多くある」としている。



原文タイトル:Painting found at garage sale is a Van Gogh, experts say(抄訳)


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「(ドスト対ツルゲ)=(ユーモア対詩情)」説

私は書きながら考えるのが習慣で、書いていないときの思考は「浮遊思考」で、すぐに消えてしまうのが常だ。で、書いたら書いたで、それを闇に葬るのももったいないので、誰が読もうが読むまいが関係なしに、つまり無思慮に公開して時には後悔するという悪習がある。
まあ、わざわざ言わなくても、このブログの大半がそういう「思考のごみ溜め(この言葉自体が嫌いなら、何なら花園と言ってもいいww)」であるのは読めば分かることだ。

さて、先ほどトイレで、世に出るのを拒否するあれとの長い勝負の間に読んでいたのがドストエフスキーの「作家の日記」で、日記とは言いながら彼が主催する雑誌に載せられた評論である。これが本物の日記だったら、私と同様の思想的露出狂である。

その中に書かれた文章のひとつで、私の長年の疑問と、近年の或る確信への裏付けが同時に手に入ったのだが、後者は長い引用が必要なので今は書かない。これから書くのは前者についてだが、それも本当は引用が必要だが面倒なので、概略を私なりに書いてみる。ついでに、私自身の別ブログから、その補強となる記事を転載しておく。

問題は何かというと、「ドストエフスキーはなぜあれほどツルゲーネフを嫌悪し憎悪し、自作の小説(評論含む)の中であれほど攻撃したのか」という問題だ。これが私には長年の謎で、ドストの攻撃はツルゲの何を攻撃しているのか、さっぱり分からない書き方なのである。まあ、非ロシア的なインテリ姿勢が嫌いなのだろう、と感じるくらいが関の山である。「ロシア最高!ロシアこそ世界を救う」というドストの信念も読者には意味不明なのだが、だからと言ってツルゲを「欧州インテリ気取りの俗物」扱いするほど、ツルゲは反ロシア的だろうか。むしろ彼のロシア民衆への同情や人道主義的姿勢は彼の散文詩などでも分かるのではないか。
で、私が「作家の日記」で「もしかしたら、これがドストのツルゲ嫌悪の核心ではないか」と考えたのは、両者の作家的体質の根本的違いである。まあ、私の勘違いである可能性も高いとは思うが、ドストはツルゲの詩人的気質を「現実を隠蔽するものだ」と嫌ったのではないか。その証拠にツルゲの作品は詩情に溢れているが(私は二葉亭四迷訳の「あひびき」と訳者は覚えていないが彼の「散文詩」しか読んでいないが)、ユーモア描写はゼロなのである。ユーモアこそ、現実を裏返す形で現実の本質を正確に示すものなのだ。
で、ドストはツルゲ監修によるゴーゴリの諸作品の仏語訳からゴーゴリのユーモアが完全に姿を消していることに怒り狂っているのである。知っている人は知っているだろうが、ゴーゴリはドストにとって「作家としての神」というか、「ロシア現代文学の父」である。その偶像の作品をいびつに改変して欧州に伝えるという「悪業」は、ドストにとって絶対に許せない行為だったわけだ。

そしてツルゲがなぜゴーゴリ作品のユーモアを全部消してしまったかというと、先に書いたようにそれは彼が詩人だったからだ、というのが私の説である。詩人にはユーモアは分からない、いや、ユーモアを消すことによって詩情は生じる(詩人たりうる)とすら言える、というのが私の珍説だ。

その説を私の別ブログから転載する。

(夢人追記)

たまたま市民図書館から借りてきた児童文学評論の中に、ロアルド・ダールが「マチルダ」の中で、主人公のマチルダ(天才少女である)に、「C・S・ルイスは優れた作家だがユーモアがない」と言わせていると書いてある。この評論の筆者はその言葉に反対のようだが、私はマチルダ(=ダール)の言葉がまったく正しいと思う。(私自身「マチルダ」は読んだと思うが、マチルダのこの言葉の記憶はない。つまり、下の自己引用でのルイスに関する私の言葉は私自身の考えだ。まあ、無意識の記憶のせいかもしれない。)



(夢人追記 2)

念のために、本棚に埋もれていて一度も目を通さなかった小林秀雄の「ドストエフスキーの生活」の、ツルゲーネフの出てくる部分をざっと見て、少し考えが変わったので追記する。

これも極論だが、ドストがツルゲを憎んだのは、貴族のツルゲとほとんど平民のドストの身分差から来た階級的憎悪と、さらに、キチガイ理論をここで言えば、ドストはツルゲからカネを借りて、それを返せないからツルゲを憎んだのであるwww つまり、「お前が俺にカネを貸したから、俺は返せなくて苦しんでいる。つまり、お前が悪い」というわけであるwww
まさに、「カラマーゾフの兄弟」の中で言っている「人間を定義するなら、恩知らずな動物だ」とは、彼自身の心理そのままだったのであるwww
このような人間だったからと言って、彼の作品が人類史上最大最高の作品であることに変わりはまったくない、ということを付け加えておく。作家と作品はまったく別なのである。ただし、作中人物は作家の一部の反映であるのは当然だ。


(以下自己引用)末尾の一節を省略。
「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。
それで思うのだが、詩人というのは、たいていがユーモア感覚が欠如しているのではないだろうか。ユーモア感覚があれば、おおげさに泣いたり感動したりすることに抵抗があり、それを笑いに換えるはずだからだ。ルイス・キャロルなどがその代表で、「アリス」の中の詩はすべて冗談詩である。私はウィリアム・ブレイクが好きだが、彼もユーモア感覚は無かったと思う。蠅一匹が打ち殺されるのを見て、そこにあらゆる生物の宿命を見る、というのは詩人ならではだろう。
宮沢賢治は詩人であり優れた童話作家だったが、彼の作品はユーモアよりは詩情が高度である。ユーモアも無いではないが、どちらかというとペーソス(哀感)が多い。
つまり、詩情というのは、笑いではなく、涙を誘うものだということだ。
なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。

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Hazy shade of winter

サイモン&ガーファンクルに「冬の散歩道」という歌があって、その途中までうろ覚えで覚えているので、そこまで書いてみる。

なお、「冬の散歩道」は日本語題で、原題は「Hazy shade of winter」ではないかと思う。「冬の煙ったような影」である。(念のためだが、下に書く「英文まがい」の単語の綴りはあやふやだ。私が、英語が好きだが英語が不得意であることは何度も書いている。)

Time time time, see what's become of me

When I look around my possibility

I was so hard to please

But look around
 
Leaves are brown

And the sky is a hazy shade of winter....

この後に、「救世軍バンドの演奏を聞け」、とか、「川沿いの道を下って」とか何とか続くが、まあ、それは周囲の風景描写だからどうでもいい。
この曲を無意識的に思い出したのは、たぶんネットテレビで「暗殺教室」というアニメを見ていて、その回が、「子供の、親からの自立」という人生論的に重要なテーマだったからだろう。
上記の歌を訳してみる。


「時よ、時よ、時よ
僕に起こったことを見ろ

僕が自分の可能性を探していた間
僕は気難しかった

だが、周りを見ろ

木の葉は茶色に枯れ
そして空には曇ったような冬の影がある」

木の葉が枯れ、空に冬の影があるとは、「(精神的には)もはや老いている」、ということだろう。まあ、そこでどうするかは知らないが、「無意味に(無駄に)悩んでいるより、まず生きてみろ」という話ではないか。
なお、「sky is a hazy shade of winter」のisは「存在する」の意味だと思う。「in the sky, there is a hazy shade of winter」を短く言ったのではないか。 歌い方も「and the sky」で切って、その後と分けている。つまり「and the sky, is a hazy shade of winter」である。

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ムーラン・ルージュの歌 (Where is your heart?)



The song from Moulin Rouge   作詞 William Engvik  作曲 Georges Auric
 

Whenever we kiss, I worry and wonder...

Your lips may be near, but WHERE IS YOUR HEART?

It's always like this, I worry and wonder...

You're close to me here, but WHERE IS YOUR HEART?

It's a sad thing to realize that you've a heart that never melt.

When we kiss, do you close your eyes, pretending that I'm  someone else?

You must break the spell, this cloud that I'm under.

So please won't you tell darling  WHERE IS YOUR HEART?
 

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小学生の「世界的名作」への軽蔑

特に書きたい話題もないので、先ほど読んでいた私自身の(娯楽記事中心の)別ブログ記事を自己引用というか、転載しておく。

(以下自己引用)

北村薫の「謎物語(あるいは物語の謎)」というエッセイ集、あるいはミステリー評論集を読んでいると、その中で少年時の北村が「Yの悲劇」にまったく感心しなかったという話が出ていて、それがその後訂正されたという記述も無いので、その意見は今でも変わらないのだろうと推定される。
同氏はエラリー・クイーン自身は大好きで、私がまったく感心しない「国名シリーズ」のファンでもあるらしく、「ニッポン樫鳥の謎」というオマージュ作品も書いている。

「Yの悲劇」を読んだことのない読者でも、今のような時代では話の大筋は知っているだろうから、以下、ネタ晴らしになることも書く。
種明かしを知りたくない人のために、数行開けておく。








さて、問題は北村氏が「Yの悲劇」に感心しなかった理由だが、「子供(自分)でも知っている『鈍器』という言葉を犯人(子供である)が『楽器』と間違えるはずがない」ということらしい。文中の他の記述から、当時の氏は小学校高学年だろうと推定される。
私が「Yの悲劇」を読んだのは中学生か高校生くらいだったかと思うが、この「鈍器」という言葉は英語では「楽器」と紛らわしい言葉なのだろうということは、「推理しなくても」分かった。そして、それが「鈍器」と訳されたら、日本では「子供でも分かる」言葉になってしまう(つまり、推理のポイントが成り立ちにくくなる)のだろうな、と「翻訳の苦労」を思いやったものである。それらを度外視しても、この作品は推理小説史上の名作だ、と思ったのである。(ちなみに、「犯人の意外性」という点でも、この作品は無数の追随者を出して、今では読者は最初から「犯人は意外な人物なんだろうな」という心構えで読んでいるのではないかww つまり「Yの悲劇」は「アクロイド殺人事件」と同様、そういう「歴史的価値」が高い作品なのである。)

で、北村薫の文章を読んで、改めて「鈍器」の英語がどんなものか調べてみた。すると、こうである。

鈍器の英語


英訳・英語
blunt instrument

つまり、まさに「楽器」と紛らわしい「instrument」という言葉を含んでおり、子供が「鈍器」という言葉を「楽器」と間違えるのは、英語では自然だったわけだ。
まあ、北村薫氏ほどの人間がこのことを本当に知らなかったのかどうかは分からないが、少なくとも「鈍器」問題に関して少年時の自分の考えの訂正自体はやっていない。
ついでに言えば、北村氏の少年時代には既に「Yの悲劇」の名声が知られており、北村少年は大きな期待を持って読んだと思う。で、少しでも「おかしい」と思った瞬間に、作品への期待感は軽蔑心となったのではないか。その印象自体は今でもそのまま心に残っているのだろう。

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「世に倦む日々」氏お勧めの大河ドラマ原作

「世に倦む日々」記事で、お堅い印象の世に倦む氏には珍しく、趣味全開で、意外に少女漫画まで読破している。ちなみに私は漫画ファンで少女漫画のファンでもあるが、後者の趣味は偏っていて、好きな作家しか読まない。大和和紀や里中真知子は絵が苦手である。

(以下引用)前の部分を少しカットした。私のお勧めは、そのうち書く。


『光る君へ』も『どうする家康』も最悪だった。感じるのは、作り手の独善と驕慢と俳優の未熟である。『光る君へ』は特にそれが目立った。脚本家と女優の露骨な独りよがりが前面に押し出され、それをNHKやマスコミ業界関係者が忖度して美化し、ネットメディアが阿諛に加勢、拡散し、奇妙な空回りのブームを作り上げていた。何やら裸の王様的な雰囲気が漂っていたのを否めない。視聴者に共感されない、国民的評価を受ける要素のない失敗作だった。一国民の立場で言えば、日本文学の至高の天才である紫式部を、あのように手荒に乱雑に扱われるのは心外であり、幼稚に感情を噴出させる、知性と気品に欠けた軽薄なキャラクターに描かれるのは容認できない。紫式部の存在は、敢えて言えば「神聖ニシテ侵スヘカラス」な日本文学の聖人であって、安易にドラマの主人公などに設定する対象ではないし、そもそも日本史の人物としてドラマに描くほど多くの史料情報を持っていない。




もし紫式部の時代を大河ドラマで描きたいのなら、思い切って大和和紀の『あさきゆめみし』を実写化すればよく、源氏物語をそのまま大河ドラマにする挑戦に出ればよかった。歴史上の実在人物が一人も登場しない大河ドラマという革命的作品になるが、別に構わないだろう。歴史に謙虚な態度を持たないNHKスタッフが皮相な思いつきで企画・構想し、不倫ドラマで売れた脚本家に間に合わせの脚本を書かせ、無理やり紫式部を主人公にして一年間長丁場のドラマを作るよりも、ストーリーが確立していて、登場人物が多彩で、物語として十分なボリュームのある『あさきゆめみし』の方が、はるかに制作しやすく、脚本も書きやすく、俳優も演じやすく、視聴者国民も興味関心を持てるだろう。監督や演出家やセット係やCG担当も、想像力を発揮しやすいだろう。源氏物語の人物群像には、まさに日本人の千年のイメージがある。キャストされた女優たちは興奮して役に臨むに違いない。




最近のNHKの大河ドラマに感じるのは、日本史へのリスペクトの欠如である。そして、アカデミーでの当世流行の歴史認識や研究傾向をそのまま大河ドラマに持ち込む安直な態度だ。過剰なジェンダー主義の強調がそうだし、日本史として一般に定着していない歴史から無理やり題材を引っ張り出してきて、視聴者国民を強引に「啓発」しようとする「教育姿勢」もそうである。二つとも脱構築主義に由来する態度であり、脱構築主義で正当化される方法に他ならない。それらの、言わば前衛的で実験的な、アカデミー迎合的な(学者が悦んで満足する)歴史ドラマは、大河ドラマとは別の枠で制作すればよく、NHKの『大奥』のように放送すればよい。大河ドラマは基本的に保守的(政治イデオロギーの意味ではなく)であるべきだ。歴史アカデミーの最先端の主義主張を投影させるのではなく、長く日本人の間に根づいてきた歴史物語をバックボーンにして、それを反復し再現芸術するべきだ。




例えば、子どもが漫画で読む日本史の学習シリーズが出ていて、小中学校の図書館に置かれ、親が子どもに読ませている。何十年に一度かは改訂されるが、基本的にオーソドックスな、スタンダードな、トラディショナルな日本史が描かれている。NHK大河ドラマは、そうした子どもの漫画日本史を基調にした歴史物語を映像化するべきで、小中学生の子どものいる家庭をキーの視聴者として想定すべきだろう。なので、同じ歴史物語を10年20年に一度繰り返して見せてよいし、そうすべきである。戦国時代と幕末維新が主要なモチーフに選ばれるのは当然で、この二つの歴史的転換期が日本史と日本人の形成・構築にとってどれほど決定的に重要かは説明するまでもない。そこにフォーカスした司馬遼太郎が、日本人にとって最も人気のある歴史作家となっていて、その作品が広範に愛読され、現代日本人の標準的な歴史教科書となっている。司馬遼太郎を超える日本史教師は当分出ないだろう。




歴史ドラマや歴史映画は、歴史作家が世に出して人気を博した作品こそをベースとするべきで、大学の研究者の評論や説教をコンセプトにするのは適当ではない。最近のNHKの大河ドラマは、歴史作家の原作を元にせず、NHKスタッフと脚本家が打ち合わせて勝手に小手先で作り、それを身内のアカデミーの学者がエンドースして権威づけ、正当化し、ネット宣伝で大衆の関心を醸成するビジネスに仕上げている。原作がなく、原作者がいないので、物語に熱と想像力とメッセージが籠もらない。それゆえ、空っぽさが見抜かれ、視聴率が低い結果に終わる。日本史を描くNHK大河は、過去から日本人が愛読して定評のある物語 - 日本人の大切な財産である日本史 - をオリジナルにして、そのリメイクに徹するべきである。その方が視聴者に馴染みがあり、展開への興味関心が維持され、高視聴率に繋がるに違いない。NHKが営業成績を重視するのなら、この批判に耳を傾けてもらいたい。




ということで鬱々と日頃思う持論を述べたが、「批判するなら対案を出せ」の命題と要請に従って、NHK大河ドラマをどう制作するべきか、具体的にプランを述べよう。


1.忠臣蔵


忠臣蔵は10年に一度のペースで大河ドラマで作品化すべきだ。63年の間に3回作品化されているが、もっと頻度を上げてよい。日本史らしい感動的な日本史であり、日本人の自己認識を前向きに確認する材料であり、まさにNHKが大事にしなければいけない珠玉の歴史物語と言える。江戸期を通じて儒学者はずっと赤穂事件を論争して理論を磨いてきた。解釈はいろいろあってよく、演出も時代に応じて変えて行けばいい。忠臣蔵はもっと世界に普及してよい歴史物語であり、世界の人々が誰でも知る史実として広まることを期待する。なので、そのプレゼンテーションに日本人(NHKや映画界)はもっと力を入れるべきだ。この物語は1年50話を制作するのに最適で十分な内容と分量があり、登場人物も適当な多さと個性がある。12月がクライマックスで、まさしくNHK大河ドラマのためにあるような物語だ。


2.竜馬がゆく


日本史最大のヒーローは坂本龍馬である。龍馬はこれまで2度主人公で登場しているが、率直に足りないと思う。15年に一度は作品化すべきで、司馬遼太郎の原作を映像化するのがよい。確実に視聴率を取れる。原作が世に出て62年になるが、この物語は忠臣蔵と同じ日本人の古典のポジションを獲得したと言っていい。大河ドラマの困難は、主人公の生涯を50話で追いかけたとき、どうしても尺が余る点だ。45分x50話の脚本を書くほど誰も豊富な材料を持っていない。ところが龍馬だけは別で、わずか33歳の生涯を描くのに45分x50話では足りないのである。100話ぐらい要る。それだけ、龍馬の一日一日は濃く、転換期の激動に関わって政治を動かしている。ゲバラが尊敬する革命家。女性陣も華麗に登場する。司馬遼太郎が描くキャラクターは明確で、認知度も高く、女優も男優もオファーを受けて演じたいだろう。


3.関ケ原


司馬遼太郎ばかりで恐縮だが、『関ケ原』は未だ大河ドラマ化されていない。日本史上最大の政治カリスマである徳川家康。家康はこれまで3度主人公となっているが、『関ケ原』の原作で描くのが最も説得的な像を提供できると思われる。登場人物もバラエティに富み、個性と戦略と心理がくっきりで、原作に沿って諸武将の動向を丹念に描くことで、いわゆる「ご当地大河」のリクエストにもサブセット的に応えられる。戦国が総決算される日本史のダイナミズム。やはり、司馬遼太郎が最も分かりやすく物語にしていて、これ以上の関ケ原論はない。関ケ原と家康を思い、脇役諸将を思うと、あらためて日本史は大型で魅力的だと感じ入る。日本史の魅力を描き伝えるのがNHK大河ドラマの使命である。真田広之の功績によって、この時代に興味を持った外国人も多い。ぜひ、世界の観客を意識した『関ケ原』の大河ドラマをNHKに制作してもらいたい。


4.天上の虹


以前から推挙している里中満智子の作品。この名作は絶対に大河化すべきだろう。42年前に世に出て以来長く愛読され、『竜馬がゆく』のような準古典と言うか必読書の地位を得ている。子どもたちの古代日本史学習を支援し、その世界への興味関心を誘う補助教材として役割を果たしてきた。同時に、雄渾で豊穣なジェンダーの古代史の提起と説得のチャレンジでもあった。偉大な文化的業績を称える意味でも、作家が元気な裡に大河ドラマ化を果たしてもらいたい。大河ドラマの難点である45分x50回の脚本ネタ不足の問題は、『天上の虹』にはない。登場人物は多く、教科書に載っているキャラクターが華麗に舞う。恋愛と陰謀があり、詩歌の叙情があり、革命的内乱があり、国際情勢の激動がある。人は屡々、戦国と幕末ばかりを大河でやるなと非難を言うのだが、ならばなぜ『天上の虹』を後押ししないのだろう。この時代を知ることも日本人の自己認識にとって不可欠だ。


5.あさきゆめみし


これは上に書いた。何と言っても累計部数1800万部のベストセラー。堂々たる実績があり、国民の間に広く定着している。外国語版(英・独・仏・韓・中)も多く出版・発売されている。源氏物語は過去に何本も映画制作されてきたけれど、基本的に、あの長編物語の分量を考えると、2時間や3時間の映画単作の枠内で収まるものではない。そのため、中途半端なつまみ食いで終わってしまう。そこから考えれば、源氏物語を描くのに最も適しているのは、一年50話が長々と続く、そして予算と俳優のリソースをふんだんに使えるところの、NHK大河ドラマの仕様と環境だと言えるだろう。宇治十帖含めて物語全体を大河に完成してもらいたいし、それこそが日本人の、特に映像文化業界に携わる者が果たすべき使命であって、紫式部への現代日本からの恩返しと思われる。20年に一度のペースでローテーションするとよく、ここから新進気鋭の大型女優を発掘・育成すればよい。


6.国盗り物語


これまた司馬遼太郎の戦国作品で恐縮だが、やはり日本人の歴史認識に欠くべからざる物語だと思われるので、20年に一度の頻度で再現芸術化をお願いしたい。斎藤道三、織田信長、明智光秀の3人が描かれている。信長、秀吉、家康の3傑は、それぞれ20年に一度は大河ドラマに登場するのが自然で、愛知県の3傑が日本史を作っている。それは否定しようもない事実だ。信長という日本史における例外的存在の革命児については、やはり20年に一度は注目し、復習して意味を再確認してよい。信長が生きていたら日本はどうなったか、天皇制はどうなったか、その設問が視聴者に突きつけられる。本能寺の変のドラマは日本人にとって重要な歴史であり、信長と光秀の物語は各自が青壮老の人生の過程で解釈し直し、再び興味を惹かれ、自分なりの歴史像を作って納得する問題に違いない。高橋英樹と近藤正臣、松坂慶子と中野良子が競演した1973年の前作はとても面白かった。



他にも「平家物語」とか「宮本武蔵」とか「翔ぶが如く」とか「子連れ狼」とかあるが、長くなるので一旦止めたい。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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