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「世に倦む日々」氏お勧めの大河ドラマ原作

「世に倦む日々」記事で、お堅い印象の世に倦む氏には珍しく、趣味全開で、意外に少女漫画まで読破している。ちなみに私は漫画ファンで少女漫画のファンでもあるが、後者の趣味は偏っていて、好きな作家しか読まない。大和和紀や里中真知子は絵が苦手である。

(以下引用)前の部分を少しカットした。私のお勧めは、そのうち書く。


『光る君へ』も『どうする家康』も最悪だった。感じるのは、作り手の独善と驕慢と俳優の未熟である。『光る君へ』は特にそれが目立った。脚本家と女優の露骨な独りよがりが前面に押し出され、それをNHKやマスコミ業界関係者が忖度して美化し、ネットメディアが阿諛に加勢、拡散し、奇妙な空回りのブームを作り上げていた。何やら裸の王様的な雰囲気が漂っていたのを否めない。視聴者に共感されない、国民的評価を受ける要素のない失敗作だった。一国民の立場で言えば、日本文学の至高の天才である紫式部を、あのように手荒に乱雑に扱われるのは心外であり、幼稚に感情を噴出させる、知性と気品に欠けた軽薄なキャラクターに描かれるのは容認できない。紫式部の存在は、敢えて言えば「神聖ニシテ侵スヘカラス」な日本文学の聖人であって、安易にドラマの主人公などに設定する対象ではないし、そもそも日本史の人物としてドラマに描くほど多くの史料情報を持っていない。




もし紫式部の時代を大河ドラマで描きたいのなら、思い切って大和和紀の『あさきゆめみし』を実写化すればよく、源氏物語をそのまま大河ドラマにする挑戦に出ればよかった。歴史上の実在人物が一人も登場しない大河ドラマという革命的作品になるが、別に構わないだろう。歴史に謙虚な態度を持たないNHKスタッフが皮相な思いつきで企画・構想し、不倫ドラマで売れた脚本家に間に合わせの脚本を書かせ、無理やり紫式部を主人公にして一年間長丁場のドラマを作るよりも、ストーリーが確立していて、登場人物が多彩で、物語として十分なボリュームのある『あさきゆめみし』の方が、はるかに制作しやすく、脚本も書きやすく、俳優も演じやすく、視聴者国民も興味関心を持てるだろう。監督や演出家やセット係やCG担当も、想像力を発揮しやすいだろう。源氏物語の人物群像には、まさに日本人の千年のイメージがある。キャストされた女優たちは興奮して役に臨むに違いない。




最近のNHKの大河ドラマに感じるのは、日本史へのリスペクトの欠如である。そして、アカデミーでの当世流行の歴史認識や研究傾向をそのまま大河ドラマに持ち込む安直な態度だ。過剰なジェンダー主義の強調がそうだし、日本史として一般に定着していない歴史から無理やり題材を引っ張り出してきて、視聴者国民を強引に「啓発」しようとする「教育姿勢」もそうである。二つとも脱構築主義に由来する態度であり、脱構築主義で正当化される方法に他ならない。それらの、言わば前衛的で実験的な、アカデミー迎合的な(学者が悦んで満足する)歴史ドラマは、大河ドラマとは別の枠で制作すればよく、NHKの『大奥』のように放送すればよい。大河ドラマは基本的に保守的(政治イデオロギーの意味ではなく)であるべきだ。歴史アカデミーの最先端の主義主張を投影させるのではなく、長く日本人の間に根づいてきた歴史物語をバックボーンにして、それを反復し再現芸術するべきだ。




例えば、子どもが漫画で読む日本史の学習シリーズが出ていて、小中学校の図書館に置かれ、親が子どもに読ませている。何十年に一度かは改訂されるが、基本的にオーソドックスな、スタンダードな、トラディショナルな日本史が描かれている。NHK大河ドラマは、そうした子どもの漫画日本史を基調にした歴史物語を映像化するべきで、小中学生の子どものいる家庭をキーの視聴者として想定すべきだろう。なので、同じ歴史物語を10年20年に一度繰り返して見せてよいし、そうすべきである。戦国時代と幕末維新が主要なモチーフに選ばれるのは当然で、この二つの歴史的転換期が日本史と日本人の形成・構築にとってどれほど決定的に重要かは説明するまでもない。そこにフォーカスした司馬遼太郎が、日本人にとって最も人気のある歴史作家となっていて、その作品が広範に愛読され、現代日本人の標準的な歴史教科書となっている。司馬遼太郎を超える日本史教師は当分出ないだろう。




歴史ドラマや歴史映画は、歴史作家が世に出して人気を博した作品こそをベースとするべきで、大学の研究者の評論や説教をコンセプトにするのは適当ではない。最近のNHKの大河ドラマは、歴史作家の原作を元にせず、NHKスタッフと脚本家が打ち合わせて勝手に小手先で作り、それを身内のアカデミーの学者がエンドースして権威づけ、正当化し、ネット宣伝で大衆の関心を醸成するビジネスに仕上げている。原作がなく、原作者がいないので、物語に熱と想像力とメッセージが籠もらない。それゆえ、空っぽさが見抜かれ、視聴率が低い結果に終わる。日本史を描くNHK大河は、過去から日本人が愛読して定評のある物語 - 日本人の大切な財産である日本史 - をオリジナルにして、そのリメイクに徹するべきである。その方が視聴者に馴染みがあり、展開への興味関心が維持され、高視聴率に繋がるに違いない。NHKが営業成績を重視するのなら、この批判に耳を傾けてもらいたい。




ということで鬱々と日頃思う持論を述べたが、「批判するなら対案を出せ」の命題と要請に従って、NHK大河ドラマをどう制作するべきか、具体的にプランを述べよう。


1.忠臣蔵


忠臣蔵は10年に一度のペースで大河ドラマで作品化すべきだ。63年の間に3回作品化されているが、もっと頻度を上げてよい。日本史らしい感動的な日本史であり、日本人の自己認識を前向きに確認する材料であり、まさにNHKが大事にしなければいけない珠玉の歴史物語と言える。江戸期を通じて儒学者はずっと赤穂事件を論争して理論を磨いてきた。解釈はいろいろあってよく、演出も時代に応じて変えて行けばいい。忠臣蔵はもっと世界に普及してよい歴史物語であり、世界の人々が誰でも知る史実として広まることを期待する。なので、そのプレゼンテーションに日本人(NHKや映画界)はもっと力を入れるべきだ。この物語は1年50話を制作するのに最適で十分な内容と分量があり、登場人物も適当な多さと個性がある。12月がクライマックスで、まさしくNHK大河ドラマのためにあるような物語だ。


2.竜馬がゆく


日本史最大のヒーローは坂本龍馬である。龍馬はこれまで2度主人公で登場しているが、率直に足りないと思う。15年に一度は作品化すべきで、司馬遼太郎の原作を映像化するのがよい。確実に視聴率を取れる。原作が世に出て62年になるが、この物語は忠臣蔵と同じ日本人の古典のポジションを獲得したと言っていい。大河ドラマの困難は、主人公の生涯を50話で追いかけたとき、どうしても尺が余る点だ。45分x50話の脚本を書くほど誰も豊富な材料を持っていない。ところが龍馬だけは別で、わずか33歳の生涯を描くのに45分x50話では足りないのである。100話ぐらい要る。それだけ、龍馬の一日一日は濃く、転換期の激動に関わって政治を動かしている。ゲバラが尊敬する革命家。女性陣も華麗に登場する。司馬遼太郎が描くキャラクターは明確で、認知度も高く、女優も男優もオファーを受けて演じたいだろう。


3.関ケ原


司馬遼太郎ばかりで恐縮だが、『関ケ原』は未だ大河ドラマ化されていない。日本史上最大の政治カリスマである徳川家康。家康はこれまで3度主人公となっているが、『関ケ原』の原作で描くのが最も説得的な像を提供できると思われる。登場人物もバラエティに富み、個性と戦略と心理がくっきりで、原作に沿って諸武将の動向を丹念に描くことで、いわゆる「ご当地大河」のリクエストにもサブセット的に応えられる。戦国が総決算される日本史のダイナミズム。やはり、司馬遼太郎が最も分かりやすく物語にしていて、これ以上の関ケ原論はない。関ケ原と家康を思い、脇役諸将を思うと、あらためて日本史は大型で魅力的だと感じ入る。日本史の魅力を描き伝えるのがNHK大河ドラマの使命である。真田広之の功績によって、この時代に興味を持った外国人も多い。ぜひ、世界の観客を意識した『関ケ原』の大河ドラマをNHKに制作してもらいたい。


4.天上の虹


以前から推挙している里中満智子の作品。この名作は絶対に大河化すべきだろう。42年前に世に出て以来長く愛読され、『竜馬がゆく』のような準古典と言うか必読書の地位を得ている。子どもたちの古代日本史学習を支援し、その世界への興味関心を誘う補助教材として役割を果たしてきた。同時に、雄渾で豊穣なジェンダーの古代史の提起と説得のチャレンジでもあった。偉大な文化的業績を称える意味でも、作家が元気な裡に大河ドラマ化を果たしてもらいたい。大河ドラマの難点である45分x50回の脚本ネタ不足の問題は、『天上の虹』にはない。登場人物は多く、教科書に載っているキャラクターが華麗に舞う。恋愛と陰謀があり、詩歌の叙情があり、革命的内乱があり、国際情勢の激動がある。人は屡々、戦国と幕末ばかりを大河でやるなと非難を言うのだが、ならばなぜ『天上の虹』を後押ししないのだろう。この時代を知ることも日本人の自己認識にとって不可欠だ。


5.あさきゆめみし


これは上に書いた。何と言っても累計部数1800万部のベストセラー。堂々たる実績があり、国民の間に広く定着している。外国語版(英・独・仏・韓・中)も多く出版・発売されている。源氏物語は過去に何本も映画制作されてきたけれど、基本的に、あの長編物語の分量を考えると、2時間や3時間の映画単作の枠内で収まるものではない。そのため、中途半端なつまみ食いで終わってしまう。そこから考えれば、源氏物語を描くのに最も適しているのは、一年50話が長々と続く、そして予算と俳優のリソースをふんだんに使えるところの、NHK大河ドラマの仕様と環境だと言えるだろう。宇治十帖含めて物語全体を大河に完成してもらいたいし、それこそが日本人の、特に映像文化業界に携わる者が果たすべき使命であって、紫式部への現代日本からの恩返しと思われる。20年に一度のペースでローテーションするとよく、ここから新進気鋭の大型女優を発掘・育成すればよい。


6.国盗り物語


これまた司馬遼太郎の戦国作品で恐縮だが、やはり日本人の歴史認識に欠くべからざる物語だと思われるので、20年に一度の頻度で再現芸術化をお願いしたい。斎藤道三、織田信長、明智光秀の3人が描かれている。信長、秀吉、家康の3傑は、それぞれ20年に一度は大河ドラマに登場するのが自然で、愛知県の3傑が日本史を作っている。それは否定しようもない事実だ。信長という日本史における例外的存在の革命児については、やはり20年に一度は注目し、復習して意味を再確認してよい。信長が生きていたら日本はどうなったか、天皇制はどうなったか、その設問が視聴者に突きつけられる。本能寺の変のドラマは日本人にとって重要な歴史であり、信長と光秀の物語は各自が青壮老の人生の過程で解釈し直し、再び興味を惹かれ、自分なりの歴史像を作って納得する問題に違いない。高橋英樹と近藤正臣、松坂慶子と中野良子が競演した1973年の前作はとても面白かった。



他にも「平家物語」とか「宮本武蔵」とか「翔ぶが如く」とか「子連れ狼」とかあるが、長くなるので一旦止めたい。


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松岡正剛と「日本文化の核心」

松岡正剛が去年亡くなっていたとは初めて知ったが、惜しい人ではある。硬軟入り混じった膨大な本を読破し咀嚼しただけでも偉いものだが、「知の巨人」というよりは「読解の巨人」「知識人としての巨人」なのではないか。まあ、南方熊楠のように、社会的にはまったく影響力の無かった博学な人間も「知の巨人」だろうから、特に、その言い方に文句をつけるまでもないことだが。
なお、私は「しつらい」という言葉を、何の気なしに「しつらえる」の名詞形かと思っていたが、引用文に書かれているように「室礼」なのだろうか。礼法なのか? まあ、客の気に入るように「相手を迎える場」をしつらえることも礼法だと言えば、そうではあるだろうが、「室」内のことに限定される話なのかどうか、気になる。なお、「礼」を「らい」と読むのは中国古典の「礼記」以外では私は聞いたことがない。もちろん、私が無知なためだろう。
引用文の中の「和漢朗詠集」の話は非常に面白い。

(以下引用)



「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?


昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。


2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。


※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。

『和漢朗詠集』の「なぞらえ」

貫之につづいて、藤原公任による『和漢朗詠集』が出現します。『古今集』のような勅撰和歌集ではなくて、私撰の詞花集です。プライベート・エディションです。


平安時代の王朝文化で流行した漢詩と和歌のヒットソングを集めたベストアンソロジー・アルバムだと見ればわかりやすいと思いますが、公任は漢詩1詩に和歌3首、あるいは和歌2首に漢詩3詩などといろいろ対比させて、漢詩と和歌を両方、非対称に収録しました。


これは「なぞらえ」(準え)という方法です。私は「なぞらえ」をみごとにはたしてみせた『和漢朗詠集』を、日本の歴代の詞花集の中でもとくに重要なポジションに位置づけています。


公任はこれを娘の婚姻記念の引き出物としてつくり、紅・藍・黄・茶の薄目の唐紙に唐花文をあしらった雲母刷りにして、名筆家で鳴る藤原行成の草仮名の書で仕上げました。目も綾な粘葉本です。

中国人も衝撃…平安時代に生み出された「日本文化の本質」と言える「3つのコンセプト」© 現代ビジネス

部立もすばらしい。上巻は春夏秋冬で、春21、夏12、秋24、冬9を配当し、下巻は「風・雲・松・猿・古京・眺望・祝……」というふうに組み立てた。これをしかも漢詩と和歌の両方のコンテキストでつなぐ。


結局、漢詩が588詩、和歌が216首になったのですが、まさに「和」と「漢」が意識的に混ぜられているのです。部立はチャプター・エディティングのことです。王朝文化は「部立の文化」でもありました。


こうしたスタイルはのちにまとめて「和魂漢才の妙」というふうに呼ばれます。「和魂」と「漢才」というふうに、あえて「魂」と「才」を振り分けたのも独特です。

「しつらい」「もてなし」「ふるまい」

このように日本人は、舶来の文字としての漢字に自分たち固有の読み方を適用し、そこからオリジナルの日本文字をつくりだしました。


そうすると、その日本文字をまじえた和歌を書にするときの書き方が柔らかく変化していきます。「和様の書」が誕生したのです。そして、漢字をちゃんと書く楷書に対して、漢字をくずす和様の行書が工夫され、さらに草仮名をメインとした草書が書かれるようになったのです。


「真・行・草」の誕生です。これは王朝のカリグラフィックな表現革命でした。


しかしそれだけではなく、その草書を美しい和紙(料紙)にさらさらと「分かち書き」や「散らし書き」にするというデザイン革命も、もたらした。小野道風、藤原佐理、藤原行成らがすばらしい和様書を書いた。これらは中国にも運ばれて展観されたのですが、中国の書人たちはその柔らかさに驚きました。


住居や生活のための素材を木と紙に替え、室内のインテリアに和風のセンスをとりこむということも工夫されます。屏風や壁代や御簾や几帳などが「調度」として登場し、そこに王朝風の「しつらい」(室礼)の文化がつくりだされたのです。そして、この「しつらい」に応じて「もてなし」と「ふるまい」が整えられていきました。

photo by iStock© 現代ビジネス

私は日本の生活文化の基本に、この「しつらい」「もてなし」「ふるまい」の三位一体があると確信しています。私はかつて平安建都1200年のフォーラムのディレクターを担当したことがあるのですが、このときはまさに「しつらい・もてなし・ふるまい」をコンセプトにしてみました。


信仰上の「和漢の境」をまたぐということもおこった。中国からやってきた儒学と仏教を学びながらも、同時にかつてから日本にあった神奈備や神祇の感覚をそこに加えていったのです。このへんのことについては第4講の「神と仏の習合」で説明します。


さらに連載記事<日本史上「最初で最大の文明的事件」…日本文化の起源とも言える「ある出来事」の「衝撃度」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。





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Tonight

今日の早朝散歩は、なぜか最初に「ウェストサイド物語」の「Tonight」の歌詞のことが頭に浮かび、その後もミュージカル映画関係のことをあれこれ考えたのだが、全部書いていると大長編随筆になるので、「tonight」のことだけ書く。

「ウェストサイド物語」は、それまでのビング・クロスビーを代表とする舞台芸人による「歌って踊って笑わせて」というミュージカルから、いわば「社会問題」などを含む、「思想的傾向」の強いミュージカルに移行した走りだろう。話の骨子が「ロミオとジュリエット」であることは言うまでもないが、そこに当時問題になっていたプエルトリコ系移民の子弟の不良行為などを絡めた現代劇にしたわけだ。まあ、人種差別問題をミュージカルでやるという冒険である。
それはともかく、私はこの映画の歌とダンスには非常に感銘を受け、たしか45回転盤のレコードも買ったような記憶がある。私が「tonight」の歌詞をうろ覚えでも覚えているのはそのためだろう。中学1年生くらいだから英語をそれほど学んだはずはないのに、わりと覚えているのは我ながら感心だが、それはその歌詞の簡明さによる。簡明だが、なかなか見事な歌詞だと思うので、自分のいい加減な記憶に頼ってだが、その翻訳と解説をする。
先に英語歌詞を書き、その後で日本語訳、その後で解説ということにする。


「Only you…」で始まる歌のプロローグ的な部分(何とか言う名称があると思うが、失念)は忘れたので省略する。下の歌はオペラで言えばアリアというか、高らかに朗唱する部分だ。


Tonight, tonight,
It'll all begin tonight
I know(knew?)you and the world went away

Tonight ,tonight
there's only you tonight 
What you are?  what you do? what you say?

Today ,all day I had a feeling
A miracle would happen
I know now I was right

For here you are
And what was just a world
is a star!

Tonight………


訳と解説は、たぶん今日中に載せると思う。宇宙を翔ける恋であるww 英文法の時制の教材にもなる。何しろ、詞の中心が「今夜」という時制に関する語だし。


(歌詞訳)一応、女性側の歌にした。映画ではナタリー・ウッドである。

今夜、今夜に
すべては今夜始まるだろう
私はあなたを知り、そして世界は彼方に消えた

今夜、今夜は
今夜存在するのはあなただけ
あなたは何者? あなたは何をするの? あなたは何を言うかしら?

今日、一日中、私にはある予感があった
ひとつの奇跡が起こるかもしれないと
今、それが本当だったと私は知っている

なぜなら、あなたがそこにいて
そして、ありふれた世界だったものが
今はひとつの星になったから!

今夜……



(「解説」は面倒だからやめておく。私は英語は苦手だし。)(なお、「今夜」は「今宵」という雅語もあるが、気取って聞こえそうなのであっさり「今夜」にした。「今宵のあなた」という名曲、いや、超名曲もあるが、それはそれで曲のムードに合った題名である。)

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エンタメにおける「いい作品」と「売れる作品」の違い

特に書きたいことも無いので、私の別ブログ(娯楽ブログ)に載せてある「エンタメ評論」のひとつを載せる。これは、エンタメ系創作者には重要な問題だと思うが、商売としての成功不成功とは無関係で、「売れさえすれば何でもいい」という電通的には笑い飛ばされる話だろう。

(以下引用)一部改訂。主にアニメ作品を論じている。念のために言えば、「いい作品」が同時に「売れた作品」でもあることも多いのであるが、下品・愚劣だが売れた作品もまた多いのである。後者はたいてい、宣伝効果による成功、つまり電通的成功である。「エスキモーに冷蔵庫を売りつける」類だ。(最近ではエスキモーを別名で呼ぶらしいがどうでもいい。大昔のポリコレの走りだ。)

アニメを含む、エンタメ商品においては、作成者の誠意、つまり、「いいものを作りたい」という気持ちが大事で、それは受容者に伝わるものである。ただ、そこから先が問題で、「いいものを作る」ということへの誤解が、作品を素直に受容できるものと、受容に抵抗を感じさせるものに分ける。要するに、「いいもの」と「売れるもの」は別だという話である。

前者(エンタメとしていいものを作りたいという精神)を「サービス精神」、後者(売れるものを作りたいという精神)を「媚び、スケベ心、受け狙い」と言えば分かるだろうか。実に上手く、破綻なく作られた作品でも、その「スケベ心」を感じると、受容者(視聴者)は不快感を感じるのだが、それはエンタメ作品受容の経験が長い人間に起こるのだろう。一般人は、「媚び、スケベ心、受け狙い」に関してほとんど拒否感は持たない。だから、後者の、私にとっては「不快な作品」がベストセラー、ヒット作品になることも多い。

先に前者の「サービス精神」に溢れた作品の事例から言えば、ほとんど世間からは無視されていると思われる「ダンジョンの中の人」がそれだ。こうした、誠実な作品、サービス精神にあふれた作品の特徴は「再視聴性」が高いことで、私はこの作品を5周くらいしているが、飽きることがない。それは、自分の好きな人間と毎日会話をして飽きるか、飽きないか、ということだ。愛着心が生じたら、飽きることはほとんど無いのである。ちなみに、EDクレジットアニメで次回予告をするが、そこで声優ふたりにコント(メタ的コント)をさせ、それが面白い。そこまでサービス精神が溢れているのである。
後者の事例が、たとえば「チ。」などである。映像は実に丁寧な作りだが、「サービス精神」はゼロに近い。作者や作成者たち側の自己満足、オナニーである。「こうしたら、読者(視聴者)は感心し、感動するだろう」という計算が見え透いている。それを私は「スケベ心」と言っているのである。そもそも「チ。」というタイトルが既に「物欲し気」である。読者の気を惹くための、「意味深そうな」気取ったタイトルだ。「受け狙い」という点では「ダンダダン」などが目立つ。実際、ある種の層には受けているようだ。(海外のアニメマニアなど)
私も楽しく視聴した作品の中では、「負けヒロインが多すぎる」などは、「受け狙い」過剰だが、キャラが面白いので、「キャラが好きになると、視聴者は視聴継続する」という路線で成功している。「チ。」や「ダンダダン」にはそれはない。

宮崎駿の後継者と考えられたアニメ作家のほとんどが、後期ではダメになったのが、この、「スケベ心」のためである。「天気の子」など、私は視聴開始30分くらいで投げ出した。(←訂正。「すずめの戸締り」だった。「天気の子」は見ていない。このアニメ作家は典型的な「書きたいものを持っていない」作家である。だから、初期ですべてを出して、後期では無理やりに作品を作っている。それは「作品をヒットさせたい」という「スケベ心」でもある。いや、誰でもその心はあるが、本物の作家は「書きたいもの」があるから作品を作るのである。と言って、「狼こども」のアニメ作家のように、「自分の書きたいもの」が視聴者とかけ離れているのを作るのは「サービス精神の欠如」なのである。ある種の傲慢であり、自分の才能レベルを見誤っている。)

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客観的相関物

「客観的相関物」について調べると、なぜか韓国のウィキペディアらしきものが検索上位に出てきたので、読むとなかなか明確で正確な解説のようだ。そもそも日本語訳である「客観的相関物」という言葉自体が分かりにくいのである。
要するに、個人の内部の主観的感情や主観的思想をそのまま作品に出すのではなく、その感情や思想を他者がイメージしやすい事物を媒介にして描くことである。そのほうが、「読者の思考の参加」「読者自身の疑似体験」が加わって感動が深くなるのである。
映画「道」の最後で、海岸の砂浜にうつ伏して号泣するザンパーノの姿を見て、観客は、この無表情で冷酷に見えた男がジェルソミナを失ったことの深い悲しみを知り、その悲しみを自分自身で体験するわけだ。

(以下引用)「草虫」という言葉は日本人にはあまり一般的ではないと思う。これだと、「草虫」という種類の虫がいるみたいだ。まあ、俳人あたりが平気で使っているかもしれない。また、記事タイトルの中の「客観」の「観」や「相関」の「関」の漢字が現代日本の漢字ではない。旧字体か。
  / objective correlative

文学作品で作家が使用する表現技法の一つ。 作家が明らかにしようとする感情や思想を直接的に表わすのではなく、他の事物を利用して明らかにしたい場合、この時使用される事物を客観的相関物と呼ぶ。

2. 詳細

この概念はトーマス・スタンス・エリオットによって提唱された。 彼は作家が自分の感情を表すことができる事物、事件を見つけることで芸術的に感情を表現することができ、これを通じて読者にも同じ感情を呼び起こすことができると話した。 言い換えれば、作家が自分の感情を言いたい場合は、直接的に明らかにするのではなく、事物や事件などを利用して間接的に言わなければならないということだ。 そしてその時の事物や事件などは客観的相関物となる。

例えば、父が死んで悲しみを感じている作家がいる。 この時、作家が自分の情緒を芸術的に表わしたいなら「悲しい」と直接現わしてはならない。 その代わり、草虫の泣き声が父を失った自分の悲しみと関連があると考え、草虫の音を作品にあらわしたら初めて芸術的に情緒を表現したことになる。 そしてこの作品に触れた読者は、草の虫の音を通じて「悲しい」という作家の情緒を芸術的に感じるようになる。 この時、草虫がまさに客観的相関物となる。

3. 感情移入との関係

客観的相関物と感情移入の概念が混乱することがあります。 一部の学校では、客観的相関物が感情移入を包括する概念で説明しているが、受験生の立場で混乱しないように一貫して記憶するには正しいと見るほうがよい。 その理由は文学作品で登場するすべての事物、事件などは作家が自分の感情表現のために配置した客観的相関物だからだ。 感情移入ができる対象がまさに客観的相関物である。

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メルエムとコムギの「ピエタ」

最近NETFLIXに登場した「ハンター×ハンター」の新シリーズだが、新シリーズとは言っても新作ではなく、以前にも見た記憶のある内容であるようだ。ただ、その当時はまったくボケーと見ていたので、その凄さを完全には理解できておらず、ただ、「コムギの膝の上で死んでいくキメラアントの王」という造形の凄さに感嘆しただけだった。(引用画像参照。)造形だけではなく、死の際に王の目の前が暗くなっていき、王が何度も、「コムギ、そこにいるか」とコムギに尋ねるのを、真っ暗な画面とふたりの会話だけで描いたのが素晴らしい。つまり、読者(視聴者)は、そのまま王の内部に入り込み、コムギの優しい言葉を聞くわけである。
で、現在見直すと、コムギの人物造形の素晴らしさに感動する。キメラアントの王という冷酷非情な存在を動かす力を持つのは、「無私の愛」だけだ、という、或る意味単純な話なのだが、王とコムギというキャラ造形が素晴らしいので、その単純な話が何よりも感動的になる。
特にコムギというキャラクターは、少し大げさに聞こえるかもしれないが、「カラマーゾフの兄弟」の蟻よー写、じゃない、アリョーシャと並ぶくらいの文学的創造だと思う。キャラ的に近いのは、むしろ「白痴」の無為手巾、じゃない、ムイシュキン侯爵だろうか。周囲からは白痴扱いされる、無垢の存在である。このどちらも、ドストエフスキーはキリストの現世化として描いていると思う。
見たことのない人は、「キメラアント篇」のコムギ登場のあたりからだけでも見ることをお勧めする。アニメ監督も(おそらく作者自身も)、この篇の中心がゴンやキルアではなく、キメラアントの王メルエムとコムギであると見ていることは、エンディング画像の中でこのふたりが強調されていることで分かる。
ちなみに、ミケランジェロの「ピエタ」とはこういうものだ。これを見ただけで泣く人もいるかと思う。

 
ミケランジェロ 画家紹介
作品解説】ミケランジェロ「ピエタ」像 - Artpedia アート ...

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イカ引用

私の別ブログに書いた記事だが、わりとお気に入りなので、こちらにも載せる。
文中末尾の「昇華された」が言葉足らずだが、「人間的次元から神的次元に昇華された」とでも言っておく。母と子の愛、あるいは男と女の愛の究極的な姿、とも言える。世界が真っ暗になっても、相手がそこにいるという愛の絆だ。

(以下引用)

「ハンター×ハンター」の「殺し屋少年」は、作者のキャラ作りの合理性が際立った特徴になっていると思う。殺しに慣れすぎているために他者を殺すことにためらいが無いし、自分の命すら軽く見ている。そのために大胆な行動(傍目には自殺的行為と思える行動)を平気でやるわけだ。
通常の作者のキャラ作りだと、ここまでの合理性はない。(ちなみに、「キルア」の中には「キル」がある。)

他のキャラの「見えづらい」合理性も同じくである。すべて、個々のキャラの独自の行動原理がある。それこそが、見かけだけではない、真の個性である。だから、個々のキャラが際立っている。
たとえば、今回見た話では、「イカルゴ」という名前の敵が出るが、これはおそらく、彼が「イカ」を理想とするタコ怪物であり、狙撃者だから「ゴルゴ13」から名前を借りて「イカ・ゴルゴ」で、「イカルゴ」という名まえになったのだろう。
イカの姿かたちがタコにとって理想であるという哲学は、分かるような分からないような話だが、まあ、どうせタコの考えることである。実際、世間でも「このタコ!」という悪口はあるが、「このイカ!」という悪口はない。なぜかタコは軽視される存在のようだ。せいぜいが「タコ焼き」で売れる程度で、しかも、タコ焼きの中にタコはほとんど入っておらず、詐欺食物だ。

なお、「ハンター×ハンター」の大きな特徴のひとつは、単なる「友情・努力・勝利」ではなく、その「勝利」に健全な少年漫画的道徳性があることだ。それは「尊敬すべき敵への敬意」である。単なる「あいつは敵だ。敵は殺せ」ではない。

「母殺し」をして生まれた冷酷無残なメルエムを、この作品のラブロマンス(おそらく過去のすべての少年漫画史上最大のラブロマンス。いや、「恋愛」ではなく、昇華された一種の疑似的な母と子の愛情か。コムギの膝の上で死んでいくメルエムの姿は、ミケランジェロの聖母子像、「ピエタ」の中のマリアとキリストである。)の主人公としたのも凄い。



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