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恋愛遊戯の手段としての相問歌

「新古今和歌集」の夏の歌の最後に紀貫之のこういう歌がある。

みそぎする河の瀬見れば唐衣ひもゆふぐれに波ぞたちける

特に優れた歌でもないとは思うが、この歌を見て、何か気づかないだろうか。
言うまでもなく、少し前に雑談として書いた、藤原清輔の歌である。


おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに

この歌を推理して、「ひもゆふぐれの」の「ひも」が夏衣の縁語で、「ゆふぐれ」は上の「紐」に続けて「紐を結う」と、「夕暮れ」を掛けていると考察したわけだが、これとまったく同じと言っていいパターンで紀貫之も歌を作っているわけだ。「夏衣」と「唐衣」が違うだけと言っていい。
では、これはどちらかがどちらかの真似をしたのか、と言うと、別にそうではなく、こういうのは当時の「共通に利用できる知識」だったわけだろう。「衣」ときたら「紐」で、「ひも」ときたら「夕暮れ」と続くわけだ。
要するに、和歌とは当時の優雅な遊びだったというだけの話である。

これと関連して言えば、恋愛も遊びだったと思う。上級国民にとって結婚と恋愛はまったく別の話で、結婚は家と家とを結ぶのが第一義である。恋愛感情の有無はほとんど問題にならない。
では、和歌にはあれほど恋愛歌が多いのはなぜかと言うと、これは「恋愛ごっこ」という遊びだからである。男が「私はあなたをこれほど愛しています」と詠むと、女は「どうせそれは軽いお気持ちだったのでしょう。それに真剣になった私はこれほど惨めに泣いています」と返すわけだ。このパターンがあきれるほど多いのである。「相問歌」というのは、ほかに詠み様は無いのか、と言いたくなるほどだ。

上級国民(地位と財産が第一義である)の間では恋愛が遊戯化するというのは洋の東西を問わない。
上古の宮中の女性は、高級キャバレーのホステスのようなものとでも思えばいい。ただ、上品に歌のやりとりができるのが現代の上級国民やその相手女性との差だろう。





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「魔術はささやく」考察(ネタバレありなので注意)

別ブログに書いた記事だが、そちらはメモ的ブログなので、こちらに「一般公開」しておく。


(以下自己引用)

作者名は忘れたが、昨日読んだばかりの「魔術はささやく」が、不快な読後感を残したので、その考察をしてみる。
この作者は非常に達者な小説家で、書いた作品の多くがベストセラーになっている。小説家としての手腕は折り紙付きである。実際、内容の緻密さ、(表面的な)破綻の無さは、大衆小説作家の中でもトップレベルだろう。

問題は、先に「破綻の無さ」にカッコを付けて「(表面的な)破綻の無さ」としたところだ。(表面的な)と言う理由は、他の人は知らないが、私には「読後感の悪さ」である。
つまり、根本的な部分が何か間違っているという感じで、それは「何のために小説を書いているのか」という疑問にもつながる。もちろん「カネのために決まっているだろ」と言えばそれでおしまいだが、小説を書くこと自体が好きでないと、小説家を職業にしてはいないだろうし、彼女(女性作家である)は、本当に自分の書いてきた作品に満足しているのだろうか。ならば、それらの作品の読後感の悪さは何に起因するのだろうか。

いや、推理小説というのはもともと人間の悪を描くのだから、読後感が悪いのは当然で、「読後感がいい」などというのは昔の「勧善懲悪小説」という低レベルの小説だけだ、と言う人もいるだろう。はたしてそうか? 「勧善懲悪」は低レベルの小説か?

具体的に書こう。「魔術はささやく」の主人公は、実質的に殺人を犯しているのである。つまり、殺人の決意をして(催眠術殺人なので決意自体が殺人行為になる)、その後で発作的にその殺人を中止する(自殺命令から自殺まで時間差があるので、相手の自殺を「阻止」する)のだが、なぜ中止したのかは分からない。そして、自分が実は既に殺人をしたのと同様の行為をしたことへの反省はまったくない。
その少年に催眠術での殺人手段を与えた老人も自分自身で「復讐のために」数人の人間を殺し、その行為への反省はまったく無い。

ここに、作者の「無道徳性」があり、それを気色悪いと私は感じているようだ。

さて、「復讐殺人」について考えてみる。

我々はどうやら「復讐殺人は正当だ」と考える傾向があるようだ。それは「自分がひどい行為をされたら復讐するのは当然だろう」という心理があると思われ、それはほぼ万人に共通する心理だからだろう。ところが、「復讐」と「復讐殺人」は実は問題が別なのである。

復讐の法的応用は「目には目を、歯には歯を」であることはたいていの人が同意すると思う。で、一般的な「復讐」は被害を受けた当人が害を与えた人間に復讐する。

ところが、一般人による「復讐殺人」は実は根本が異なるのである。それは「復讐の権利を持っている被害者は既に死んでいて、その権利の無い他人(親戚友人含む)が復讐として相手を殺す」という、非応報性が存在することだ。これはかつてのコルシカ島やその心理的子孫であるマフィアでは正当とされただろうが、法的(というより法哲学的)には不当であるのは言うまでもない。


しかも、「魔術はささやく」では、主人公を捨てた父親を交通事故で殺してしまい、その場から逃走したが、後悔して主人公家族を長い間面倒を見てきた人物を、主人公が「何の心理的葛藤もなく」殺す(催眠術で自殺を命じるがすぐに自分で阻止する)のである。

ここに私は作者のアモラルさを感じるわけで、それはまた、あまりに心理的に不合理だと思うわけだ。小説の人物が、作者の道具でしかない、と言ってもいい。それは当たり前だと思う人が多いとは思うが、問題はそうした小説の与える「毒物的効果」である。いや、私も「一般的な復讐」は正当だと思うし、むしろ国家による「復讐権利の占有」は問題だと思ってはいるが、問題は「復讐殺人」の哲学的不合理性なのだ。

なお、催眠術殺人を発明した老博士も、同様の「犯罪と釣り合わない復讐を平気で行う」人間であり、詐欺行為の被害で自殺した馬鹿な若い男のために、その詐欺行為をした4人の若い女性を殺すのである。これはつまり「私刑(リンチ)」を肯定的に長々と描いた小説なのだが、なぜ肯定的にと言うかというと、その私刑の犯罪性や復讐殺人の犯罪性、あるいは不当さに対する一言の言及も無いからだ。

極論すれば、「どんな小悪でも死刑に相当し、私刑もまた肯定できる」という思想が、この小説には垣間見える、と言えるように思う。

推理小説的に言えば「催眠術殺人」自体がルール違反だとは思うが、まあ、それは古い考え方かもしれない。

(追記)呉智英の「バカに唾をかけろ」を読んでいたら、呉が、その中の記事のひとつで「復讐権」を国家から個人(民間)に取り戻せ、というような論説をしていたが、そもそも「復讐権」という権利は存在しない。上記文中では私も「復讐の権利」などと書いてはいるが、それは国家が公認したものではないのは明白だろう。そして、凶悪犯罪に対して国家が行う「死刑」は、国家が「復讐権」を行使したのではなく、社会秩序維持のための「処罰」なのである。
仮に民間人に「復讐権」を認めたら(特に遺族による犯人への私刑を認めたら)、どれほど社会が無秩序になり、また逆にそれを利用した犯罪がどれほど生じるか、少し想像力を働かせたらいい。



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「Unchained melody」の解釈

アメリカのスタンダードナンバーには優れた歌詞を持つものが多いが、その中で「アンチェインドメロディ」の歌詞はなかなか解釈が難しい。それは、黒人の祈禱曲、つまり神への祈りの唄であるゴスペル的な意味を持つ歌詞が、日本人には意味不明だからではないだろうか。つまり、歌われているのは恋の成就の願いという世俗的なものだが、それを「神への祈り」にしているわけだ。
というのが私の解釈だが、それを基本線として歌詞全体を解釈・翻訳してみる。
まあ、早朝散歩の中で考えた内容が大半だが、先に、記憶で書いてみて、後で訂正する、かもしれない。(言うまでもないが、英単語は誤字だらけだろうとは思う。)

「Unchained Melody」

Oh,my love,my darling
I'm hunger for your touch
Are you still mine?

I need your love
I need your love
God,speed your love to me……

Lonely river flows to the sea, to the sea
to the open arms of the sea

Lonely river sighs ,"Wait for me,wait for me,
I'll be coming home ,wait for me"

Oh, my love, my darling
I'm hunger for your touch
Are you still mine?

I need your love
I need your love
God,speed your love, to me…… 

(解釈)

歌のタイトルからして難問だが、これは「解放の歌」とでも訳してみる。恋の成就(を願うの)がなぜ「解放」かというと、それは「恋の焦燥や苦痛からの解放」だからである(と解釈する。以降は、この「解釈である」は省略する。)そして、その解放を神に願うからゴスペルだとするわけだ。

第一節は簡単な内容なので訳だけにする。「love」を「恋人」と訳したのだけが私の解釈だ。

「おお、私の恋人、私の愛しい人
私は君に触れてほしいと飢えるように望んでいる
君はまだ僕のものだろうか?」

第二節の「God speed your love」が難しいが、これは「God」の後にコンマを入れれば明瞭になる。つまり、「God,save the queen」(神よ、女王を守りたまえ)と同様の「祈願文」なのである。さらに動詞としての「speed」の訳が難しいが、直訳すれば「加速する」ではないだろうか。つまり、彼女が自分を愛してるらしいことは分かるが、それが不明瞭なのでこの男は焦慮に駆られているわけである。だから神に「彼女の愛を加速させてほしい」と祈願するわけだ。だが、これだと歌らしい訳にならないので困ったものである。とりあえず、訳してみる。

「私は君の愛がほしい
私は君の愛がほしい
神よ、君の愛が私の目に見えるようにしてくれないか」

次の一節は「象徴詩」である。つまり、自分を川にたとえ、彼女を海にたとえているわけだ。

「孤独な川は海に向かって流れていく、海へと流れていく
海の広げた腕の中へと流れていく」

次の一節も同様だ。

「孤独な川は溜め息をつく、『私を、私を待ってておくれ
私はやがて海という故郷の家に帰る、私を待ってておくれ』と」

以下は第一節第二節の繰り返しなので省略する。




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村上春樹のお勧め本

今日は、この時間までこのブログに何も書いていないのに今気づいたので、自分の別ブログから軽い読み物というか、雑文を転載する。
なお、先ほどまで読んでいたのが小谷野敦(敦は「たく」と読む)の「病む女はなぜ村上春樹を読むか」という、文芸批評の新書だが、全体の8割くらいが村上春樹の悪口で、なかなか面白かった。下に書いてあるように私は村上春樹の傑作は「踊る小人」だと思っていて、その「超訳」をこのブログにも載せてあるので、一読をお勧めする。

(以下自己引用)
村上春樹は、作品のお洒落さに似合わない百姓顔と、作品に匂う、顔に似合わないナルシシズムが嫌いなのだが、優れた才能の作家だと思っている。まあ、長編はほとんど読んでいないが、「踊る小人」には感心した。メルヘンとホラーとファンタジーと残酷さとSF性とファシズムの見事な融合で、ユーモアも見事である。前半のメルヘン性のために、結末のホラー性が実に際立っている。

(以下引用)彼の好きな作品の7割くらいは私と一致しているし、残りは読んでいないので、読めば好きになるかもしれない。赤字は私による強調。

村上春樹が作家人生で大きな影響を受けておすすめする本まとめ
村上春樹 おすすめ本・映画・アイテム

 村上春樹が作家人生で影響を受けておすすめする本をまとめてみた。


人生で巡り合ったもっとも重要な3冊
①『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド)
②『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)
③『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー)
影響を受けた本・作家
■『城』(フランツ・カフカ)
■カート・ヴォネガット作品
■『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J.Dサリンジャー)
■カズオ・イシグロ作品
■『雨月物語』(上田秋成)
■『呪われた町』(スティーブン・キング)
■『シャイニング』(スティーブン・キング)
■『最後の瞬間のすごく大きな変化』(グレイス・ペイリー)
人生で巡り合ったもっとも重要な3冊
 村上は、人生で巡り合ったもっとも重要な本として3冊を上げている。

村上:もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。(『グレート・ギャツビー』村上春樹訳 あとがきより)

①『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド)
グレート・ギャツビー(新潮文庫)
グレート・ギャツビー(新潮文庫)

作者:フィツジェラルド
新潮社
Amazon

『グレート・ギャツビー』内容
ーーーーーーーーーーーーーーー
ただ恋を成就させるため、巨万の富を築いた男。
虚栄に満ちた人生の儚さを描く、アメリカ文学の代表的傑作。

豪奢な邸宅に住み、絢爛たる栄華に生きる謎の男ギャツビー。彼の胸にはかつて一途に愛情を捧げ、失った恋人デイズィへの異常な執念が育まれていた……。
第一次世界大戦後のニューヨーク郊外を舞台に、狂おしいまでにひたむきな情熱に駆られた男の悲劇的な生涯を描き、何度も映画化された20世紀文学最大の問題作。滅びゆくものの美しさと、青春の憂愁を華やかに謳いあげる世界文学の最高峰。(BOOKデータベースより)
ーーーーーーーーーーーーーーー
 村上は『グレート・ギャツビー』作者スコット・フィッツジェラルドから得た大きな影響を一作目の長編作『風の歌を聴け』の群像新人文学賞受賞の言葉で語っている。

村上:学校を出て以来殆どペンを取ったこともなかったので、初めのうち文章を書くのにひどく手間取った。フィッツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」という文句だけが僕の頼りだったけれど(村上春樹 群像新人文学賞受賞の言葉より)

村上:半世紀以上の歳月を経て、今なお多くの読者がフィッツジェラルドの作品群に惹きつけられる最大の理由は、その「滅びの美学」にではなく、おそらくはそれを凌駕する「救済の確信」にあるはずだと僕は考えている。

グレート・ギャツビー(新潮文庫)
グレート・ギャツビー(新潮文庫)

作者:フィツジェラルド
新潮社
Amazon

②『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)
カラマーゾフの兄弟(上)(新潮文庫)
カラマーゾフの兄弟(上)(新潮文庫)

作者:ドストエフスキー
新潮社
Amazon
『カラマーゾフの兄弟』内容
ーーーーーーーーーーーーーーー
物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。(BOOKデータベースより)
ーーーーーーーーーーーーーーー
 村上春樹は『カラマーゾフの兄弟』をこう評している。

村上:世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。(村上春樹訳『ペット・サウンズ』あとがき より)

カラマーゾフの兄弟(上)(新潮文庫)
カラマーゾフの兄弟(上)(新潮文庫)

作者:ドストエフスキー
新潮社
Amazon
カラマーゾフの兄弟(1)
カラマーゾフの兄弟(1)

作者:ドストエフスキー,岩下博美
講談社
Amazon

③『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー)
ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

作者:レイモンド チャンドラー
早川書房
Amazon
『ロング・グッドバイ』内容
ーーーーーーーーーーーーー
私立探偵のフィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には悲しくも奥深い真相が隠されていた……(BOOKデータベースより)
ーーーーーーーーーーーーー
 村上春樹は『ロング・グッドバイ』をこう評している。

村上:チャンドラーの『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』を最初に読んだのは高校生のときだった。正確には覚えていないのだが(当時あまりにも多くの数の本を読んでいたので、記憶は混濁している)、たぶん十六歳か十七歳くらいだったと思う。それ以来四十年ほどにわたって、折に触れてはこの本を繰り返し手にとってきた。(村上春樹訳『ロング・グッドバイ』あとがき より)

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人生の「聖性」と「地獄性」

小説には娯楽小説と純文学があるというのが私の考えだが、西洋の小説の中にはその垣根を超えたものが多い。サマセット・モームの選んだ「世界の十大小説」はほとんどすべてそれだと言っていい。
すなわち

1:トム・ジョーンズ
2:高慢と偏見
3:赤と黒
4:ゴリオ爺さん
5:ディヴィッド・コパーフィールド
6:ボヴァリー夫人
7:モウビー・ディック
8:嵐が丘
9:カラマーゾフの兄弟
10:戦争と平和

である。ただし、私はこの中で「ボヴァリー夫人」は読んでいない。たぶん、「娯楽性」がゼロだろうからだ。モーム自身も、この小説を「楽しくは読めない」と思っているらしいことがその筆致で分かる。しかし、「見事な小説」だから、高く評価したのだろう。
それ以外の九つは、すべて偉大な小説でありながら、娯楽性も抜群なのである。まさに、それこそが小説の目指すべきものだろう。
だから私は日本の「純文学」が嫌いなのである。そこには鋭い人間観察や人生への深い洞察はあるが、まったく「娯楽性」が無いからだ。読んでいて気が滅入る小説をなぜ書くのか。これが人間の真実だからと言って、美女の出した大便や無残な死体を目の前に置かれて嬉しいか。
と言うことで、私が読んで楽しくないだろうな、と見当をつけた小説を私はまったくと言っていいほど読まないが、それらが無価値だとは思わない。単に「私には」ほとんど無価値であるだけだ。

と書いたのは前置きで、先ほど読んだ中学生向けの名作短編集の中で、人間の聖性と地獄性について考え、そして、娯楽小説は概して人間の聖性を本質とし、日本の純文学は人間の地獄性を本質としているのではないか、と考えたからだ。というか、それは当たり前の話で、娯楽とは読んで楽しいということであり、地獄を見て楽しいという人間は稀だろう。そして聖性とは人間が天使的存在になることで、光に満ちているわけだ。

その意味では、この短編集「家族の物語」に載せられた向田邦子の「かわうそ」は日本的純文学で、井伏鱒二の「へんろう宿」や太宰治の「黄金風景」は娯楽小説だな、というのが私独自の評価である。遠藤周作の作品「夫婦の一日」も純文学だ。これらが一般的な「娯楽小説」と「純文学」の区別とは別の基準であることを注意しておく。遠藤周作が純文学と娯楽小説の二股をかけていたことは言うまでもないが、「夫婦の一日」は純文学であり、人間の生の地獄性を暗示していると思う。「へんろう宿」や「黄金風景」の背景は最底辺の庶民の生活や人生である。しかし、そこに聖性がある。つまり、光に溢れているのである。もちろん、庶民の生活がすべてそういうものであるはずはない。しかし、ここに描かれた生活は、人生の地獄を地獄とせず、明るく前を向いて生きている人々の生活だ。それを私は聖性と言うのである。つまり、人生を地獄にするか天国にするかはそれぞれの人次第である、という話だ。

なお、太宰治の「黄金風景」の冒頭に、プーシキンの詩の一節が置かれている。この作品を読んだ後で、この詩に戻ると、なぜそれが冒頭に置かれたか分かる。

「海の岸辺に緑なす樫の木、
その樫の木に黄金の細き鎖の結ばれて」

つまり、この「黄金の細き鎖」こそが人間の中の聖性である。



(注)人間の地獄性は、スィフトや筒井康隆のようにそれをブラックユーモアにした時に娯楽になるので、一応、注意しておく。これには高度な知能が必要なのであり、ネットのブラックジョークは、夜郎自大の下種たちの弱者叩きが大半で、笑えるものはほとんど無い。


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美術鑑識眼の無い詐欺師たち

100%まがい物だろう。これほど品の無いへたくそなゴッホの作品はありえない。まともな画家なら粉々にして廃棄するレベルの絵だ。中学生レベルの技術だろう。まともに髭すら描けていない。詐欺でも、もっとうまくやるべきである。あまりも恥ずかしい詐欺だ。

(以下引用)


専門家がこれまで知られていなかったゴッホの作品だと発表した肖像画/courtesy LMI Group International, Inc© CNN.co.jp

(CNN) 米ミネソタ州のガレージセールで購入された絵は、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホの手による未知の肖像画だった――。専門家によるそんな分析が新たに発表された。


絵は1889年、南フランスの精神病院に滞在中だったゴッホによって描かれたものだという。美術調査会社LMIグループがキャンバスの織り目や絵の具の顔料などの特徴を分析した結果、明らかにした。


2016年に骨董(こっとう)品コレクターが入手した絵の右下隅には、「エリマール」という言葉が記されている。


サイズは45.7×41.9センチ。専門家は4年間の作業を経て、ゴッホの絵であることを確認した。

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キャンバスの油絵には、パイプをくゆらせながら網を修理する白ひげ姿の漁師の肖像が描かれている。


LMIによると、デンマーク人の画家ミカエル・アンカー(1849~1927年)の絵が元になっており、他の画家の絵を「翻案」したゴッホの数多くの作品の一つだという。


研究チームは画布に埋め込まれた毛髪も発見し、分析に回した。LMIによると、人間の男性の髪の毛であることは分かったが、「劣化した状態」にあったため、毛髪のDNAをゴッホの子孫と一致させる試みは不首尾に終わった。


絵の分析は徹底的に行われたものの、オランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館によってゴッホの作品と認定される必要性がまだ残っている。


ファン・ゴッホ美術館は2018年12月、この絵の以前の所有者から打診を受けた際、ゴッホの絵と認定するのを拒んでいた。


ただ、19年に絵を入手したLMIは真贋(しんがん)に自信を示している。


LMIは報告書で、「以前存在が知られていなかったゴッホの絵が見つかるのは驚きではない」と指摘。「よく知られているように、ゴッホは多くの作品を紛失したり、友人に譲り渡したりしており、習作とみなした作品については特段大切にしていなかった。そうした習作は数多くある」としている。



原文タイトル:Painting found at garage sale is a Van Gogh, experts say(抄訳)


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「(ドスト対ツルゲ)=(ユーモア対詩情)」説

私は書きながら考えるのが習慣で、書いていないときの思考は「浮遊思考」で、すぐに消えてしまうのが常だ。で、書いたら書いたで、それを闇に葬るのももったいないので、誰が読もうが読むまいが関係なしに、つまり無思慮に公開して時には後悔するという悪習がある。
まあ、わざわざ言わなくても、このブログの大半がそういう「思考のごみ溜め(この言葉自体が嫌いなら、何なら花園と言ってもいいww)」であるのは読めば分かることだ。

さて、先ほどトイレで、世に出るのを拒否するあれとの長い勝負の間に読んでいたのがドストエフスキーの「作家の日記」で、日記とは言いながら彼が主催する雑誌に載せられた評論である。これが本物の日記だったら、私と同様の思想的露出狂である。

その中に書かれた文章のひとつで、私の長年の疑問と、近年の或る確信への裏付けが同時に手に入ったのだが、後者は長い引用が必要なので今は書かない。これから書くのは前者についてだが、それも本当は引用が必要だが面倒なので、概略を私なりに書いてみる。ついでに、私自身の別ブログから、その補強となる記事を転載しておく。

問題は何かというと、「ドストエフスキーはなぜあれほどツルゲーネフを嫌悪し憎悪し、自作の小説(評論含む)の中であれほど攻撃したのか」という問題だ。これが私には長年の謎で、ドストの攻撃はツルゲの何を攻撃しているのか、さっぱり分からない書き方なのである。まあ、非ロシア的なインテリ姿勢が嫌いなのだろう、と感じるくらいが関の山である。「ロシア最高!ロシアこそ世界を救う」というドストの信念も読者には意味不明なのだが、だからと言ってツルゲを「欧州インテリ気取りの俗物」扱いするほど、ツルゲは反ロシア的だろうか。むしろ彼のロシア民衆への同情や人道主義的姿勢は彼の散文詩などでも分かるのではないか。
で、私が「作家の日記」で「もしかしたら、これがドストのツルゲ嫌悪の核心ではないか」と考えたのは、両者の作家的体質の根本的違いである。まあ、私の勘違いである可能性も高いとは思うが、ドストはツルゲの詩人的気質を「現実を隠蔽するものだ」と嫌ったのではないか。その証拠にツルゲの作品は詩情に溢れているが(私は二葉亭四迷訳の「あひびき」と訳者は覚えていないが彼の「散文詩」しか読んでいないが)、ユーモア描写はゼロなのである。ユーモアこそ、現実を裏返す形で現実の本質を正確に示すものなのだ。
で、ドストはツルゲ監修によるゴーゴリの諸作品の仏語訳からゴーゴリのユーモアが完全に姿を消していることに怒り狂っているのである。知っている人は知っているだろうが、ゴーゴリはドストにとって「作家としての神」というか、「ロシア現代文学の父」である。その偶像の作品をいびつに改変して欧州に伝えるという「悪業」は、ドストにとって絶対に許せない行為だったわけだ。

そしてツルゲがなぜゴーゴリ作品のユーモアを全部消してしまったかというと、先に書いたようにそれは彼が詩人だったからだ、というのが私の説である。詩人にはユーモアは分からない、いや、ユーモアを消すことによって詩情は生じる(詩人たりうる)とすら言える、というのが私の珍説だ。

その説を私の別ブログから転載する。

(夢人追記)

たまたま市民図書館から借りてきた児童文学評論の中に、ロアルド・ダールが「マチルダ」の中で、主人公のマチルダ(天才少女である)に、「C・S・ルイスは優れた作家だがユーモアがない」と言わせていると書いてある。この評論の筆者はその言葉に反対のようだが、私はマチルダ(=ダール)の言葉がまったく正しいと思う。(私自身「マチルダ」は読んだと思うが、マチルダのこの言葉の記憶はない。つまり、下の自己引用でのルイスに関する私の言葉は私自身の考えだ。まあ、無意識の記憶のせいかもしれない。)



(夢人追記 2)

念のために、本棚に埋もれていて一度も目を通さなかった小林秀雄の「ドストエフスキーの生活」の、ツルゲーネフの出てくる部分をざっと見て、少し考えが変わったので追記する。

これも極論だが、ドストがツルゲを憎んだのは、貴族のツルゲとほとんど平民のドストの身分差から来た階級的憎悪と、さらに、キチガイ理論をここで言えば、ドストはツルゲからカネを借りて、それを返せないからツルゲを憎んだのであるwww つまり、「お前が俺にカネを貸したから、俺は返せなくて苦しんでいる。つまり、お前が悪い」というわけであるwww
まさに、「カラマーゾフの兄弟」の中で言っている「人間を定義するなら、恩知らずな動物だ」とは、彼自身の心理そのままだったのであるwww
このような人間だったからと言って、彼の作品が人類史上最大最高の作品であることに変わりはまったくない、ということを付け加えておく。作家と作品はまったく別なのである。ただし、作中人物は作家の一部の反映であるのは当然だ。


(以下自己引用)末尾の一節を省略。
「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。
それで思うのだが、詩人というのは、たいていがユーモア感覚が欠如しているのではないだろうか。ユーモア感覚があれば、おおげさに泣いたり感動したりすることに抵抗があり、それを笑いに換えるはずだからだ。ルイス・キャロルなどがその代表で、「アリス」の中の詩はすべて冗談詩である。私はウィリアム・ブレイクが好きだが、彼もユーモア感覚は無かったと思う。蠅一匹が打ち殺されるのを見て、そこにあらゆる生物の宿命を見る、というのは詩人ならではだろう。
宮沢賢治は詩人であり優れた童話作家だったが、彼の作品はユーモアよりは詩情が高度である。ユーモアも無いではないが、どちらかというとペーソス(哀感)が多い。
つまり、詩情というのは、笑いではなく、涙を誘うものだということだ。
なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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