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馬鹿発見装置としての組み体操

「女性自身」の電子版の中にある漫画化ヤマザキ・マリのブログの記事だが、もちろん、このブログだけが私の「お気に入り」で、「女性自身」サイトがお気に入りというわけではないwww
組み体操関係の記事だと、まともな頭脳の人間の書く記事は当然、それに批判的な内容になるわけで、ここに書かれたことも特別新味は無いかもしれないが、やはり読んでいて面白い。



「じっと上から積み重ねられる重みに耐え、石のように微動だにせず、バランスを取り続ける。何人もの体重を支える土台になりながら、学生時代の私は〝この組み体操というものを修錬する意味は一体どこにあるのだろう? 例えば今後どういった時に役にたつのだろう……〟とシミュレーションをしてみたものでした。




不慮の事故や自然災害で大きな物の下敷きになった時……、どこかへ逃走する場合仲間と一緒に塀を乗り越える時……、高い所の物を取ったり電球を取り替えるのに脚立が無い時……、拷問に耐え続ける時……、ピラミッドの巨大石を運ぶ時……。」


というあたりは、漫画家のブログらしく、漫画的である。

人を馬鹿にする行為が大嫌いだ、という「谷間の百合」さんのような方もいるが、「馬鹿にしていい対象を堂々と馬鹿にできる」というのはやはり楽しいことではないだろうか。
私が嫌いなのは、馬鹿にしてはいけない人や事柄を馬鹿にする行為で、それがこの世界にはかなりある。世間の「笑い」の大半は、そういう「嘲笑」ではないだろうか。そして、その笑いというものが、「それって本当に面白いのか」「それって笑っていいことなのか」と立ち止まって考えると、笑えない、というものが多い気がする。そういう意味では、私も「人を馬鹿にする行為が大嫌いだ」と言えなくもない。
まあ、どちらかというと私自身「笑われる側」に属するだろうから、弱者や劣等者を笑う人間は大嫌いである。物心ついたばかりの子供だって、笑われることは大嫌いなはずだ。笑われれば、「馬鹿にされている」と感じるのが普通だろう。子供が、大人から見るとおかしな行動や間違った発言をしても、笑ってはいけない。それがどれほど子供の心を傷つけるか。

前置きが長くなったが、「組み体操」は、どこをどうしても弁護の余地のない愚行であるから、安心して笑うことができる。それをやっている学校や、それを弁護する論説を行う人間もすべて馬鹿にして笑っていいと私は思っている。
つまり、「組み体操」は、それを行う団体(学校)やそれに与する発言を行う人間が馬鹿であることを明確に示す、便利な「馬鹿発見装置」なのである。




(以下引用)


12月某日 北イタリア・パドヴァ




海外旅行保険に入る場合、契約手続きの申し込み欄に「旅行中危険をともなうスポーツをする予定はありますか」という質問項目があります。これからリゾート地へ赴き、そこで思い切りレジャーを楽しみたいと思っている人は、おそらくこの項目で一瞬記入に戸惑うことでしょう。「危険をともなうスポーツ」とはそもそも具体的に何を指すのか、どの範囲までが「危険ではないスポーツ」なのか、自己的な判断だけでは戸惑いを感じてしまいます。




だいたいスポーツというのはいかなるものであっても、概ねなんらかの「危険」はともないます。人によっては、ちょっと走っただけで足をくじく人もいるでしょうし、私も子供の頃は除雪の際に出来た小さな雪山から、プラスチックのソリで遊んでいる最中に足首の骨を粉砕しましたが、サッカーであろうと野球であろうと相撲であろうと、運動をすれば怪我というリスクは必ずセットでついてくるのです。




それでも人間というのは、狩りが目的であるとか、他の動物の餌食にならない為に逃げるとか、生きものとしての本能の次元とは別な意識で、普段の生活では使わない運動神経を活性させてみたくなる、特殊な生き物なのです。




先日『今年4月から10月にかけて、愛知県内の小中学校生132人が組み体操によって骨折したため、事故防止策を検討している』といったニュースをネットで見ました。まず思ったのが組み体操というマスゲームの危険性です。




例えば、怪我をした理由がサッカーやテニスであれば「ああ、頑張り過ぎちゃったんだね」というスポーツ魂への賞讃の籠った慈悲を示してもらえるけれど、「組み体操をしていて怪我をした」という場合は、「なんでまたそんな無茶な事を…」という、同じ運動であっても本人の意志とは拘わりのない義務や負荷がそこに掛かっていたのではないか?という思いを抱かざるを得ません。「こんどみんなで組み体操して楽しもうぜ!」という子供さん達が当たり前にいるのであれば話は別ですが、今回このニュースの醸した物議の根源は、そこにあるかと思います。




組み体操とは、だいたい何が目的で学ばねばならないことなのでしょうか。ただでさえ学校での体育の授業の中には、子供の頃から腑に落ちない項目が幾つか有りましたが、組み体操も創作ダンスなどと同様に私にとっては意味不明のカリキュラムのひとつでした。




例えば球技や水泳だったり、北国であればスキーやスケートなど、実はちょっと楽しかったり、息抜きになったりするものなら生徒たちも率先してやりたがったりするとは思うのですが、組み体操や創作ダンスに関しては、そういった楽しみ的要素を持った運動とはちょっと毛色が違うと感じています。




将来、中国雑技団に入るのが夢だとか、是非サーカスで活躍したい、アクロバティックなチアリーディングを目指している、という人には喜ばれる授業かもしれませんが、少なくとも私はそういうものには憧れていなかったので、これらの課目は単純につまらなくて苦痛でした。




image



役に立つのは、高い所の物を取ったり電球を取り替えるのに脚立が無い時……、拷問に耐え続ける時……



私は子供の頃はクラスでも体が大きい方だったので、組み体操の時に担うジョイント・ポジションは必ず「土台」でした。留学先でまだ若いのにいきなり椎間板ヘルニアになったのは、〝あの頃の組み体操で、腰に尋常じゃない負荷がかけられていたからなのかもしれない〟なんてことを今このエッセイを書いていて唐突に思いましたが、それはともかく、組み体操は、少なくとも自分のような他者との調和意識に欠け、体力的忍耐性のない人間にとっては確実に不向きな運動です。




じっと上から積み重ねられる重みに耐え、石のように微動だにせず、バランスを取り続ける。何人もの体重を支える土台になりながら、学生時代の私は〝この組み体操というものを修錬する意味は一体どこにあるのだろう? 例えば今後どういった時に役にたつのだろう……〟とシミュレーションをしてみたものでした。




不慮の事故や自然災害で大きな物の下敷きになった時……、どこかへ逃走する場合仲間と一緒に塀を乗り越える時……、高い所の物を取ったり電球を取り替えるのに脚立が無い時……、拷問に耐え続ける時……、ピラミッドの巨大石を運ぶ時……。




いろいろ考えた結果、最終的には、自分が何故こんな事をしているのだろうか、とか、これが何の役に立つのだろうか、などといった邪念を払拭する精神統一こそが、実は組み体操を学ぶ最大の意味なのではないか、という憶測で踏みとどまりましたが、それでも今まで半世紀近く生きてきて、残念ながらあの授業の経験が活かされたと感じた事は一度もありません。




組み体操はマスゲームという括りで、統一性と団結力を示す国力の表現という軍事的な意味も重ねられて実践している国もあるので、そこに私が何となく違和感を持っている要因があるのかもしれません。しかし、調べてみると、なんとこの組み体操というのは古代エジプト時代の壁画にも記録されていたり、中国の漢時代の土偶にも組み体操状のものがあるそうです。




軍事的マスゲームという意味とは関係なく、純粋な運動として組み体操が盛んな国というのもブラジルやインドネシアなど幾つかあるようですし、スペインのバレンシア地方では『ムイシェランガ』という人間の塔を作るストリートパフォーマンスが13世紀から引き継がれているそうです。世界旅行の最中にこういったイベントに出くわした場合には、日本の学校で学んだ組み体操スキルを発揮する機会に恵まれる可能性もあるかもしれませんが、その場合は海外旅行保険の加入契約書の「危険をともなうスポーツ」欄へのチェックも考慮しなくてはならなかも……。




日本での組み体操授業も、今後はいろいろな規制や方針が施されていくようですが(例えば人間ピラミッドの場合高さは2m越えてはいけないとか)、それでもまだ日本の学校における体育教育や運動会にとっては組み体操は大事な競技として残り続けていくのでありましょう。




人間の歴史があるところに組み体操あり……。


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