ここしばらく読書づいている。10年ぶりのことだ。きっかけはオリンピックだ。オリンピック期間中のテレビの電波があまりに劣悪なので、書籍に逃げた形だ。もうひとつは、Kindleの読書用ガジェットを新調したからだ。以前から所有してはいたのだが、最新型のツールの軽さと読みやすさは別格だ。しかもPC(Macだが)のアプリでも読める。
こうなってみると、紙に活字を印刷した形式の書籍より明らかに読みやすい。入院中のベッドの上でも自在に読めるし、退院した後も、あらゆる場所&姿勢でわがままな読み方ができる。
電子書籍だと並行的に10冊ほどの書籍を同時進行で読み進めていても負担にならない。じっさい、私は小説本を2、3冊とノンフィクションを3、4冊、それに新刊書と雑誌を読みながら快適な読書環境を享受している。
もうひとつうれしいのは、若い頃に耽読した古い時代の書籍を読めることだ。紙ではこうはいかない。必ず行方不明になっている。
で、最近は、古い時代小説を片っ端から読み飛ばしているのだが、20冊ほど読了した時点で、ある傾向に気づかずにおれなかった。「コンテンツには寿命ないしは賞味期限がある」という、残念な事実だ。
小説そのものは良くできている。夢中になって読んだ作品だけのことはあって、ストーリーテリングは完璧だし、人物造形も、自然描写も地の文の運びも間然とするところがない。やはり、小説が娯楽の王様だった時代の書き物には、いわく言いがたい力がそなわっている。この点は認めざるを得ない。
とはいえ、気になる点もある。
しかもその「気になる点」は、複数の作者、作品の間で共通している。
もったいぶっていないで、答えを申し上げるなら、「女性の描き方がいくらなんでも古くさい」のである。心理描写が平板でカタにはまっていることはもちろん、行動の様式も決まりきっているし、なにより会話をはじめた瞬間に、あからさまな「おんなことば」で話しはじめる。
「そんなことはなくってよ」
「さびしいのはきらいだよう」
みたいな台詞が出てくると、やはりそのまま鵜呑みにして読み下すことはできない。いくら江戸時代でもこんなしゃべり方のオンナはいないだろうさ、と、どうしてもそう思う。
小説の中の女たちは料理と洗濯と掃除に明け暮れている。女性の剣術使いも出てくるが、明らかな「イロモノ」扱いだ。歴史の必然と言ってしまえばそれまでだが、実はネット動画で視聴する古い日本映画にも同様の傾向がある。映画の本筋はともかく、女優陣の演技がいくらなんでもクネクネしすぎに見えてしまう。
デジタルを経由することで、古いコンテンツがよみがえるのは良いことなのだが、同時に、古い制作物に固有な「時代の澱」みたいなものが白日のもとにさらされることになる。
このコラムが出る頃には片が付いている総裁選も、もし10年後に振り返ったら、そりゃ噴飯モノなコンテンツだろうな。
(コラムニスト)