「ネットゲリラ」氏が珍しく茶化さないで書いている。
岸田家はかなり知性に優れた家系のようだ。まあ、通常の欲(金欲、権力欲、色欲)まみれの政治家家系ではないと思っていいのではないか。別サイトのコメントで見たが、利権に縁の無い外務大臣を長い間勤めていたところも、欲の無さを示しているようだ。まあ、そういう淡泊さが政治闘争においては弱点になるかもしれないが、竹中や維新政治家や小泉親子や安倍一味などの物欲権力欲まみれの下種・エゴイストばかり見てきた目からは、非常に好感が持てる。
当人が東大でなく早稲田というのも、早稲田の「在野精神」がまだ存在した時代に学生生活を送っただろうと考えると、かえって良かったのではないか。
なお、教養というのは、知識が人格の向上に結びつくことだ、というのが私の持論で、(学歴や読書量=教養)ではない。
(以下引用)
岸田家のルーツ、という話なんだが、上の図版は明治時代の基隆の地図で、「岸田喫茶店」「岸田呉服店」というのが、首相になった岸田さんの先祖がやっていた事業です。岸田幾太郎(1867-1908)というのが岸田さんの先祖です。
1891年(明治24年)頃に農機具、種苗、呉服などを輸出し、輸出先である北海道にて仕入れた海産物の販売業を始める[4]。1894年(明治27年)に三宅直之助の四女・スミと結婚。翌年には、長男の正記が生まれる。 長男が生まれて2ヶ月が経った頃には台湾の基隆市に移住し、現地で呉服商と材木商を営む[4]。 その後、幾太郎は1899年(明治32年)に帰国すると、地元の西志和村にて木材商、呉市にて金物商の経営を経て[4]、1906年(明治39年)頃には満州に移住し大連市の中心部に1町5~6反の土地を購入するが[5]、1908年(明治41年)9月14日に急死[6]。40歳の若さであった。 この人の息子が、岸田正記といって、戦前・戦後に国会議員をやっていた。
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西志和高等小学校卒業。1913年(大正2年)、広島県立広島商業学校卒業。広商時代の同級生に大木惇夫がいる。長崎高等商業学校[5]、京都帝国大学法学部卒業[3]。在学中の1922年(大正11年)高等文官試験行政科合格[6]。 先代経営の貸家業を継ぎ1933年(昭和8年)に幾久屋百貨店を創立[7]。 大連および奉天で不動産業や百貨店経営に従事[3]。 1928年(昭和3年)に衆議院議員となって、以後6期連続当選、その間第1次近衛内閣の海軍参与官、小磯内閣の海軍政務次官、翼賛政治会国防委員長、自由党総務等を歴任した[3]。 戦後、公職追放。追放解除後の1953年(昭和28年)に衆議院議員に当選。代議士に復帰し1期務めたほか、幾久屋商事社長、穏田マンション社長を歴任した[3]。 ところが岸田家は外地で事業を営んでいたため、戦争で全てを失ってしまう。この人の息子が岸田文武といって、通産官僚から政治家になる。といっても、父の地盤をすんなり継いだというわけでもないようで、年代が違う。地盤をついでの世襲ではないようだ。
広島県広島市出身[1]。 1945年旧制東京高等学校卒業[2]。東京大学へ進学[2]。しかし、戦争末期のころであり、入学早々から勉強どころではなく、連日の勤労動員に続いて、終戦間近の同年七月には、学徒動員で旭川の師団に入隊した[2]。そして、その一カ月後には、郷里広島に原爆が投下され、広島市の自宅はその被害に遭い、また、多くの知人を亡くした[2]。在学中に高等文官試験に合格[2]。1948年東京大学法学部政治学科卒業[1]。 1949年商工省(現・経済産業省)入省[1]。繊維局配属[3]。通産省大臣官房会計課長、資源エネルギー庁公益事業部長なとを経て、1974年貿易局長、1976年中小企業庁長官を歴任して1978年退官[1]。 1979年の第35回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選[1]、以降当選5回[1]。
1945年8月15日、終戦と同時に、東京にあった家も進駐軍の接収に遭い、また、外地において大きく事業を営んでいた一家の財産も、すべて失ってしまった[2]。
岸田は、自他ともに認める読書家であり、秘書が「先生の姿が見つからないときは、本屋へ行け」と言われるほどであった[2]。政治、経済、歴史、科学あるいは文学等と分野にこだわらず幅広く読み、広く国の未来を見据えるために、多くの知識、情報を取り入れ、それを政策として反映させた[2]。 この人の息子が、岸田文雄という事になる。
東京都渋谷区に生まれる[6]。父・岸田文武は広島県出身の通産官僚だった。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[7]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[7]。 1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国・ニューヨークに居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地の公立小学校に通う[8]。1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[7]。岸田にとって少年時の在米経験は、白人の女児に手をつなぐのを拒まれた差別体験など[9]、原点に人種差別により正義感と義憤の念を強く持ち、世の中の理不尽さに気付くきっかけとなり、政治の原点となったが[10]、アメリカの国家としての大らかさ、多様性、活気などが印象付けられ、国家の普遍的価値である「自由」に大きな影響を受けることとなった[7]。 アメリカの公立校に通ったという珍しい経験の持ち主ですw 高校時代は野球とフォークソングに夢中で、東大は2浪して果たせず早稲田進学。長銀に就職し、5年間勤めた後、衆議院議員の父の秘書となる。ところで宮沢喜一の甥っ子が宮沢洋一という国会議員なんだが、この人は岸田文雄の従兄弟です。
さて、そんなわけで世襲といえば世襲なんだが、戦争で原爆の被害を受けたり、外地の資産を失ったり、NYで差別されたり、親戚筋がみんな東大出の官僚だったり、人並みの苦労はしている家系のようだ。宏池会30年目の首相です。まぁ、頑張ってくれたまえ(謎の上から目線w |
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