太田隆文という映画監督のブログから転載。
実によく分かる。平然と他者に「犠牲」を要求する、こういう無神経さ、他者への想像力の無さ。特に、「自分がファンであること」が、その相手への何か特権的な地位や権利を与えるという、根拠不明の図々しい思い込み。最近、それが非常に目立つ世の中になってきている。
クリエイターの生活は、何もしていない時でも、非常に貴重な時間なのである。周囲の世界にアンテナを張り巡らせ、その無意識の刺激が次の創造へのきっかけになるかもしれないわけだ。
ファンに声をかけられたその瞬間に、そのヒントは雲散霧消するかもしれない。ファンであるなら、「神」のそういう「創造」の邪魔をしてはいけないことが分かりそうなものであるが、自分を神と対等以上だと考えている馬鹿が非常に多いようだ。
大リーグの伝説的打者のひとりで、テッド・ウィリアムスという選手がいたが、彼がファンに対して無愛想な態度を取ったことを非難されたことがあった。その時、あるスポーツライターが、「神はファンレターに返事など書かないものだ」と彼を擁護する文章を書いた。私はこの話が非常に好きである。
(以下引用)
映画作ったのに「何で監督料を取るの!失望した」と批判する人たち? [【再掲載】]
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ブログのコメント等でも、よくこんなことが書き込まれる。
「今度、うちの町で映画祭をします。太田監督の作品も上映します。ぜひ、来てください」
映画祭の主催者ではなく、一般の観客からのコメントだ。好意的であり、応援してくれている人だ。が、真面目に考えると奇妙なところがある。通常、主催者からは招待されることはある。その場合は、交通費と宿泊費が出る。ギャラは出ないことが多い。食事代も出ないのが普通。結構、キツい。でも、自分の映画が上映され、多くの人が見に来てくれる。監督が行くことで観客が喜んでくれればいいと思い、お邪魔する。
が、先のコメントの場合はどう捉えればいいのか?
交通費、宿泊費は自腹だろう。主催者も呼んでいない。それで映画祭に行って何をすればいいのか? トークショーがある訳でもなし。入場料も払わなければならないだろう。そこで自分の映画を観て。どーすればいい? たぶん、コメントをくれた方は舞台挨拶とか、トークショーをすることを期待している。映画の話を一緒にすることを楽しみにしているのだろう。
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それなら、僕ではなく、主催者に進言するべきことだ。そして映画祭のプログラムにイベントを組み入れて、観客との対話する時間やトークを企画する。それでこそ、観客と接する場がもてる。僕が個人で参加しても意味がない。以前、そんなコメントをする人に直接訊いたことがある。なぜ、来てほしいとコメントをしたのか?
「ブログを読んでいると、監督はいい人だし、優しいし、お願いすればきっと来てくれると思えたんです。ブログの記事も面白いし、映画の裏話とか、観客が聞けば喜ぶと思ったんです」
気持ちはとってもよく分かる。ありがたいことだ。でも、それを僕にいっても実現しない。例え自腹でその映画祭に伺っても、その人の思う展開にはならない。その前に僕が映画祭主催者に連絡して「時間とってほしい。トークイベントをしたい」と告げなければならない。が、たいていの場合。スケジュールはすでに出来ていて、急に言われても変更できない。結局、個人で行ってもあまり意味がない。交通費も宿泊費もなしで。理由は「いい人だから、来てくれると思った」ーーこれは違うと思う。
同じようにFacebookのコメントやメッセンジャーで相談や意見を求めてくる方もいる。それに応える余裕がない。本業の催促が来ている状態で、お返事したり、相談に乗ったりすることはできない。
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なのに、返事をしないと「裏切られた!」
「優しい人だと思っていたのに!」とあちこちで悪口を書いて回る人がいた。これも勝手に期待しておいて、こちらは多忙で対応できないと、「無視された」「スルーされた」と怒り、批判してくるのである。ただ、その種の人は特に問題を抱えた人というのではなく、ごく一般な人が多い。そう思っていてあるtweetを見た。
「若手女優の***。ファンで応援していた。この間、ある店で見かけたので手を振ったが無視された。お高くとまっていて幻滅。もう、応援しない!」
なるほど。これと同じ構図なんだ。女優の***さん。とても好感触で、会えば凄く愛想よく応えてくれそうなイメージがある。芸能人ということを自慢する感じがない。が、だからといって、会ったこともない人に手を振られて、それもプライベートな時間に、笑顔で手を振り返す必要はないのだ。でも、コメントした人は、絶対に笑顔で手を振ってくれると期待した。だから「裏切られた」と思ったのだ。
勝手にイメージして、それが崩れたから「幻滅」されたのでは溜まらない。もちろん、それでも手を振ってくれる芸能人もいるだろう。でも、それは本人次第。同じように僕も「スピーチのために、ノーギャラで来てくれるだろう」と思われていたのだろう。だが、それは寿司屋の大将に「うちの街まで来て、寿司をタダで握ってください」というのに等しい。「だって、あの大将。いい人だもん!」では理由にならない。
だが、そこで「交通費なしではいけない」と答えると
「結局、金かよ!失望したよ」と言われたこともある。しかし、交通費も払わずに来てほしいというのなら「金も払わずに、タダ働きさせるのか?」と言われてもおかしくない。けど、そんな発想はまず出て来ない。有名ミュージシャンがボランティアで被災地コンサートをするのと同じ発想でいる。映画監督業がどれだけ貧しいか? 分からないというのも誤解を生む背景のひとつだが...。ある街で映画を撮ったときも
「監督は映画撮れたんだから、ギャラもらわなくてもいいよね」
という地元の方がいて驚かされた。街に公園を作った土建屋さんに「公園作れたんだから、工事費いらないよね?」とは言わないだろう。それも映画=趣味の延長という発想なのだろう。好きでやってるんだからいいよね? でも、映画作りに1年近く専念して、そのあとどうやって生活して行くのか? それを想像せず、「好きなことをやっている」=「お金なくてもやるはず」と思われることが多い。
いろいろ考えて行くと、映画&芸能関係に対する誤解。経済的に恵まれた人という錯覚。「いい人だから分かってくれる」という思い込み。そんなことがいくつも重なって、まったく悪意のない人たちが無理なリクエストや頼み事をしてくるのだろう。だが、ストレートに説明すると、ほとんどが「失望した」「裏切られた」という。それを少しでも傷付けないようにどう説明すればいいか? でも、それを説明するだけでも時間を取られる。
そんな訳でFacebookやブログへのコメントひとつひとつにはお答えできないといつも書く。本業だけでも、時間が足りず、いつも返事が遅れて迷惑をかけるのに、その種の対応にまで手が回らないのが一番の理由だが、なかなかむずかしい。友人は「有名税」というが、僕は有名ではない。だったら、何の税だ? と思える。
実によく分かる。平然と他者に「犠牲」を要求する、こういう無神経さ、他者への想像力の無さ。特に、「自分がファンであること」が、その相手への何か特権的な地位や権利を与えるという、根拠不明の図々しい思い込み。最近、それが非常に目立つ世の中になってきている。
クリエイターの生活は、何もしていない時でも、非常に貴重な時間なのである。周囲の世界にアンテナを張り巡らせ、その無意識の刺激が次の創造へのきっかけになるかもしれないわけだ。
ファンに声をかけられたその瞬間に、そのヒントは雲散霧消するかもしれない。ファンであるなら、「神」のそういう「創造」の邪魔をしてはいけないことが分かりそうなものであるが、自分を神と対等以上だと考えている馬鹿が非常に多いようだ。
大リーグの伝説的打者のひとりで、テッド・ウィリアムスという選手がいたが、彼がファンに対して無愛想な態度を取ったことを非難されたことがあった。その時、あるスポーツライターが、「神はファンレターに返事など書かないものだ」と彼を擁護する文章を書いた。私はこの話が非常に好きである。
(以下引用)
映画作ったのに「何で監督料を取るの!失望した」と批判する人たち? [【再掲載】]
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ブログのコメント等でも、よくこんなことが書き込まれる。
「今度、うちの町で映画祭をします。太田監督の作品も上映します。ぜひ、来てください」
映画祭の主催者ではなく、一般の観客からのコメントだ。好意的であり、応援してくれている人だ。が、真面目に考えると奇妙なところがある。通常、主催者からは招待されることはある。その場合は、交通費と宿泊費が出る。ギャラは出ないことが多い。食事代も出ないのが普通。結構、キツい。でも、自分の映画が上映され、多くの人が見に来てくれる。監督が行くことで観客が喜んでくれればいいと思い、お邪魔する。
が、先のコメントの場合はどう捉えればいいのか?
交通費、宿泊費は自腹だろう。主催者も呼んでいない。それで映画祭に行って何をすればいいのか? トークショーがある訳でもなし。入場料も払わなければならないだろう。そこで自分の映画を観て。どーすればいい? たぶん、コメントをくれた方は舞台挨拶とか、トークショーをすることを期待している。映画の話を一緒にすることを楽しみにしているのだろう。
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それなら、僕ではなく、主催者に進言するべきことだ。そして映画祭のプログラムにイベントを組み入れて、観客との対話する時間やトークを企画する。それでこそ、観客と接する場がもてる。僕が個人で参加しても意味がない。以前、そんなコメントをする人に直接訊いたことがある。なぜ、来てほしいとコメントをしたのか?
「ブログを読んでいると、監督はいい人だし、優しいし、お願いすればきっと来てくれると思えたんです。ブログの記事も面白いし、映画の裏話とか、観客が聞けば喜ぶと思ったんです」
気持ちはとってもよく分かる。ありがたいことだ。でも、それを僕にいっても実現しない。例え自腹でその映画祭に伺っても、その人の思う展開にはならない。その前に僕が映画祭主催者に連絡して「時間とってほしい。トークイベントをしたい」と告げなければならない。が、たいていの場合。スケジュールはすでに出来ていて、急に言われても変更できない。結局、個人で行ってもあまり意味がない。交通費も宿泊費もなしで。理由は「いい人だから、来てくれると思った」ーーこれは違うと思う。
同じようにFacebookのコメントやメッセンジャーで相談や意見を求めてくる方もいる。それに応える余裕がない。本業の催促が来ている状態で、お返事したり、相談に乗ったりすることはできない。
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なのに、返事をしないと「裏切られた!」
「優しい人だと思っていたのに!」とあちこちで悪口を書いて回る人がいた。これも勝手に期待しておいて、こちらは多忙で対応できないと、「無視された」「スルーされた」と怒り、批判してくるのである。ただ、その種の人は特に問題を抱えた人というのではなく、ごく一般な人が多い。そう思っていてあるtweetを見た。
「若手女優の***。ファンで応援していた。この間、ある店で見かけたので手を振ったが無視された。お高くとまっていて幻滅。もう、応援しない!」
なるほど。これと同じ構図なんだ。女優の***さん。とても好感触で、会えば凄く愛想よく応えてくれそうなイメージがある。芸能人ということを自慢する感じがない。が、だからといって、会ったこともない人に手を振られて、それもプライベートな時間に、笑顔で手を振り返す必要はないのだ。でも、コメントした人は、絶対に笑顔で手を振ってくれると期待した。だから「裏切られた」と思ったのだ。
勝手にイメージして、それが崩れたから「幻滅」されたのでは溜まらない。もちろん、それでも手を振ってくれる芸能人もいるだろう。でも、それは本人次第。同じように僕も「スピーチのために、ノーギャラで来てくれるだろう」と思われていたのだろう。だが、それは寿司屋の大将に「うちの街まで来て、寿司をタダで握ってください」というのに等しい。「だって、あの大将。いい人だもん!」では理由にならない。
だが、そこで「交通費なしではいけない」と答えると
「結局、金かよ!失望したよ」と言われたこともある。しかし、交通費も払わずに来てほしいというのなら「金も払わずに、タダ働きさせるのか?」と言われてもおかしくない。けど、そんな発想はまず出て来ない。有名ミュージシャンがボランティアで被災地コンサートをするのと同じ発想でいる。映画監督業がどれだけ貧しいか? 分からないというのも誤解を生む背景のひとつだが...。ある街で映画を撮ったときも
「監督は映画撮れたんだから、ギャラもらわなくてもいいよね」
という地元の方がいて驚かされた。街に公園を作った土建屋さんに「公園作れたんだから、工事費いらないよね?」とは言わないだろう。それも映画=趣味の延長という発想なのだろう。好きでやってるんだからいいよね? でも、映画作りに1年近く専念して、そのあとどうやって生活して行くのか? それを想像せず、「好きなことをやっている」=「お金なくてもやるはず」と思われることが多い。
いろいろ考えて行くと、映画&芸能関係に対する誤解。経済的に恵まれた人という錯覚。「いい人だから分かってくれる」という思い込み。そんなことがいくつも重なって、まったく悪意のない人たちが無理なリクエストや頼み事をしてくるのだろう。だが、ストレートに説明すると、ほとんどが「失望した」「裏切られた」という。それを少しでも傷付けないようにどう説明すればいいか? でも、それを説明するだけでも時間を取られる。
そんな訳でFacebookやブログへのコメントひとつひとつにはお答えできないといつも書く。本業だけでも、時間が足りず、いつも返事が遅れて迷惑をかけるのに、その種の対応にまで手が回らないのが一番の理由だが、なかなかむずかしい。友人は「有名税」というが、僕は有名ではない。だったら、何の税だ? と思える。
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