茶道の起源が日本だ、という話なんだか、中国には8世紀に既に「茶経」というのがありまして、お茶に関する百科事典みたいなもんだが、その時代にはお茶の知識が教養にまで高められているわけだ。凍頂烏龍茶の生産が盛んな台湾では、「お茶を飲む時に聴くCD」なんてシロモノまで作られている。もちろん、お茶を点てるお作法というのもある。東南アジアで何度も体験した。日本の茶道は独特だが、オンリーワンではない。記事によると、中国由来なのに日本のものだと思われている九つのものとは、桜、和服、相撲、下駄、茶道、畳、華道、芸者、さしみだ。 茶経というのは、いまだに世界一のお茶の教科書です。なかなか良い本です。いまではネットで全文読める。著作権を主張する人はいないw |
「ネットゲリラ」から転載。
私は、外来種のアイデアを洗練させて日本独自と言っていいほどのものに高めること自体が日本の文化だと考えているので、そのアイデアがどこの国の起源かなどという問題にはまったく興味が無い。欧米人がよく言う、日本は猿まね文化だ、という悪口は悪口になっていないと思っているわけである。新しい発想は「軋轢」や「衝突」から生まれるのだから、軋轢や衝突自体を避け、それが「存在しない」ことにすらする日本人が新しい発想などできるわけがない。異人種間の衝突や軋轢が日常的である、日本以外の国だからこそ、その衝突や軋轢のなかで新しい発想も生まれるのである。異文化に触れ、その中にある「見知らぬもの」に触発されることで新しい発想も出てくる。(「新しいもの」に圧倒され、萎縮してダメになる、ということもあるwww大学の新入学とか、初めての会社就職とかは、まさに「異文化」との遭遇だ。)
それが異文化交流の意義だが、単なる経済的なグローバリズムは、「安い労働力を労働単価の低い国に求める」だけの話であり、それに伴って労働単価の高い先進国では賃金低下と国民貧困化が自動的に生じるから、私は反対し続けてきたのだ。なお、江戸末期の開国体験で、日本は外国による金銀交換比率の差を利用した詐欺的取引で国家全体の貧困化を招いている。これが最初の経済的グローバリズム体験である。
ついでに言えば、低賃金国の労働単価もしだいに上がるが、儲けるだけ儲けた資本家は新しい貧乏国に労働力を求めて生産地を移転する。それが一巡し、経済的なフロンティア(未開の地)が無くなれば世界中が同一労働同一賃金という、ユニクロの柳井が言っていたような時代になるわけだ。だが、それは現在の先進国の労働者の賃金が最低水準に落ちるということだ。まあ、その最低賃金でも幸福な生活が送れるような社会体制を考えだし、構築していくのが「頭のいい人々」の課題になるのではないか。
現在の日本は、結婚すらできない若者を大量に生み出しているが、それによって若者が「プロの独身」として幸福な生活だと言うのなら、年寄りなどが何を言うこともない。だが、そうすると、子供はますます生まれなくなるし、移民労働者はどんどん増えていくことになる。つまり、在来種の「日本人」は存在しなくなるわけである。
現在は「金融資本主義」が終わって、企業自体が在来的な金融業を不要とする時代に変わりつつあるのだと私は見ている。つまり、大企業の資産蓄積によって銀行などは不要な存在になりつつある、ということである。もちろん中小企業は銀行融資を喉から手が出るほど欲しがっているが、リスクの大きい中小企業に銀行はカネを貸さない。大企業は銀行融資を必要としない。それで銀行は日本国債を買うだけで何とか生き延びているのだが、そんな銀行に何の存在意義もあるわけもない。まあ、庶民の貯金箱の意味だけである。その貯金に「マイナス金利」までかけるとなれば、誰も銀行にカネなど預けないwww
(以下引用)
私は、外来種のアイデアを洗練させて日本独自と言っていいほどのものに高めること自体が日本の文化だと考えているので、そのアイデアがどこの国の起源かなどという問題にはまったく興味が無い。欧米人がよく言う、日本は猿まね文化だ、という悪口は悪口になっていないと思っているわけである。新しい発想は「軋轢」や「衝突」から生まれるのだから、軋轢や衝突自体を避け、それが「存在しない」ことにすらする日本人が新しい発想などできるわけがない。異人種間の衝突や軋轢が日常的である、日本以外の国だからこそ、その衝突や軋轢のなかで新しい発想も生まれるのである。異文化に触れ、その中にある「見知らぬもの」に触発されることで新しい発想も出てくる。(「新しいもの」に圧倒され、萎縮してダメになる、ということもあるwww大学の新入学とか、初めての会社就職とかは、まさに「異文化」との遭遇だ。)
それが異文化交流の意義だが、単なる経済的なグローバリズムは、「安い労働力を労働単価の低い国に求める」だけの話であり、それに伴って労働単価の高い先進国では賃金低下と国民貧困化が自動的に生じるから、私は反対し続けてきたのだ。なお、江戸末期の開国体験で、日本は外国による金銀交換比率の差を利用した詐欺的取引で国家全体の貧困化を招いている。これが最初の経済的グローバリズム体験である。
ついでに言えば、低賃金国の労働単価もしだいに上がるが、儲けるだけ儲けた資本家は新しい貧乏国に労働力を求めて生産地を移転する。それが一巡し、経済的なフロンティア(未開の地)が無くなれば世界中が同一労働同一賃金という、ユニクロの柳井が言っていたような時代になるわけだ。だが、それは現在の先進国の労働者の賃金が最低水準に落ちるということだ。まあ、その最低賃金でも幸福な生活が送れるような社会体制を考えだし、構築していくのが「頭のいい人々」の課題になるのではないか。
現在の日本は、結婚すらできない若者を大量に生み出しているが、それによって若者が「プロの独身」として幸福な生活だと言うのなら、年寄りなどが何を言うこともない。だが、そうすると、子供はますます生まれなくなるし、移民労働者はどんどん増えていくことになる。つまり、在来種の「日本人」は存在しなくなるわけである。
現在は「金融資本主義」が終わって、企業自体が在来的な金融業を不要とする時代に変わりつつあるのだと私は見ている。つまり、大企業の資産蓄積によって銀行などは不要な存在になりつつある、ということである。もちろん中小企業は銀行融資を喉から手が出るほど欲しがっているが、リスクの大きい中小企業に銀行はカネを貸さない。大企業は銀行融資を必要としない。それで銀行は日本国債を買うだけで何とか生き延びているのだが、そんな銀行に何の存在意義もあるわけもない。まあ、庶民の貯金箱の意味だけである。その貯金に「マイナス金利」までかけるとなれば、誰も銀行にカネなど預けないwww
(以下引用)
茶は、南方の嘉木なり
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