小池百合子・東京都知事が、毎年9月1日に開催される関東大震災の朝鮮人犠牲者の追悼式に追悼文を寄せることを取りやめる判断を明らかにした(こちら)。
個人的な話をすると、私は、子供の頃から、入学式であれ卒業式であれ、あるいは結婚式や告別式も含めて、とにかく式と名のつくものが苦手で、その種の式の中で読み上げられるスピーチや挨拶や訓話のたぐいも一貫してきらいだった。
その流れからすると、恒例だからという理由で毎度同じ調子で読み上げられる形式的な挨拶やら呪文やらスピーチやら経文やらを廃絶する判断には、本来なら、諸手を挙げて賛成したいところだ。
ただ、今回の追悼文は、「これは形式だから」みたいなことで省略して良いものではないと思っている。
というのも、震災後に関東各地で多発した朝鮮人虐殺は、わが国の歴史上の汚点であり、わたくしども日本人が定期的に思い出さなければならない苦い教訓だと考えるからだ。
虐殺は、「災害に伴う混乱」みたいな話で呑み込むことのできる話ではない。
コトは大量殺戮だ。
しかも、その大量殺戮の犯人に当たる人間たちには、普通の、市井の人々が含まれている。
わずか90数年前に、われわれは、6000人以上にのぼる無辜の朝鮮人を殺しているのだ。
われら現代の日本人の中にも、おそらく、そういうことを可能ならしめる群集心理がビルトインされている。
同じ状況に遭遇すれば、私たちは、また同じことを繰り返すかもしれない。
そのおそろしい可能性を断つためにも、この事件は、われわれが何度も振り返り、その意味を噛み締めなければならないものだ。
とすれば、大量殺人が起こった現場である自治体の知事が、その犠牲者の追悼式に追悼の言葉を送らないという決断は、普通は考えられない選択肢ではあるはずだ。
いったいどうして、小池都知事は、これまでの慣例を破って、あえて追悼を拒絶する判断に立ち至ったのだろうか。
今回は、その理由について考えてみる。
小池都知事は、追悼文の送付を取りやめた理由を問われて
《3月には関東大震災と都内の戦災遭難者慰霊大法要に出席した。その場で都知事として関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表した。全ての方々への慰霊を行っているということだ》
と答えている。
自分は3月の段階で慰霊法要に出席して、その時に追悼をしている。9月に朝鮮人犠牲者を特別に追悼することは、重複することになるから取りやめるということのようだ。
これに対して、記者は、
《震災の犠牲者と虐殺された犠牲者の追悼は意味が違うとの意見がある》
と、重ねて問いただしている。
小池都知事は
《不幸な死を遂げられた方に対して慰霊をする気持ちは変わらない。都知事として、全ての方々への哀悼の意を表することは大変意味の深いことだと思う》
と述べ、さらに
《民族差別が背景にあるような形で起きた悲劇について、追悼文を送ることに特別な意味はないか》
との問いに対しては
《民族差別という観点というよりは、わたくしは、そういう災害で亡くなられた方々、様々な被害によって亡くなられた方々への慰霊をしていくべきだと思っております》
と回答している(こちら)。
あまりにもさらりと言ってのけているので、こちらもついさらりと聞き流してしまいそうになるが、この短い質疑応答の中で、小池都知事は、実に空恐ろしい言葉を連ねている。
「民族差別という観点というよりは……そういう災害で亡くなられた……様々な被害によって亡くなられた方々」
というこの言い方は、知事が朝鮮人虐殺について、民族差別とは無縁な偶発的な出来事である旨の認識を抱いていることを物語っている。
「民族差別というよりは」
というよりは、何だ?
民族差別でないのだとすると、あの集団殺戮は、いったいいかなる心情がドライブした動作だったというのだろうか。
同じ町で暮らしている隣人を、同じ町の住人が多数の暴力によって殺害することが、差別以外のどういう言葉で説明できるのだろうか。
6000人以上と言われている虐殺の犠牲者は、民族差別による殺人の犠牲者ではなくて、一般の災害関連死と同じ「様々な被害」として一緒くたにまとめあげることのできる死者だというのか?
たしかに、震災による死は一様ではない。
建物の下敷きになって圧死した者もあれば、地震の直後に起こった火事で焼死した人々もたくさんいる。迫りくる火炎から逃れるべく川に飛び込んで溺死した犠牲者も大変な数にのぼると言われている。
あるいは、小池都知事は、そういう様々な犠牲者が10万人以上も発生した大災害の中で、朝鮮人の死者だけを特別に追悼することが、公平の原則に反すると考えているのかもしれない。
しかし、民衆による虐殺による死者は、不可抗力の災害による死とは別の枠組みで考えないといけないはずだ。
圧死であれ焼死であれ溺死であれ、災害の直接的な影響で亡くなった死者は、災害の犠牲者として分類することができる。災害を生き延びた人間が、同じく災害を生き延びた人間の手で殺された場合、その死は、災害死ではない。
人間によって殺された死者は明らかな殺人の犠牲者だ。そうカウントしないとスジが通らない。
25日の会見の動画をひととおり視聴して私が強い印象を受けたのは、小池都知事が、最後まで、「虐殺する」「虐殺される」「殺す」「殺される」という普通なら虐殺の犠牲者に対して使われるはずの動詞を一度も発音しなかったことだった。
知事は、虐殺の犠牲者にも、そのほかの震災関連の犠牲者にも、同じように「亡くなられた」という動詞のみを使っている。
この「亡くなる」という動詞(語尾が「亡くなられる」となっているが)は、自動詞で英語に直せば“died”に当たる。
知事の会見をそのまま英語に翻訳すると、かなり奇妙な英文になるはずだ。
辞書(『研究社大英和辞典』)を引いていて、興味深い囲み記事を発見したので、そのまま引用する。
《 [日英比較] (1) 日本語では病気やけがで死ぬのも, 交通事故や戦争など外的な原因で死ぬのも普通は区別せず「死ぬ」という. ところが英語では日本語と同じく両者に die を用いることも可能だが, 英語の典型的な表現としては, 病気や不注意によるけがなど自己原因で死ぬのは die, 事故や戦争など外的な原因で死ぬのは be killed という. したがって「彼は交通事故で死んだ」は He was killed in a traffic accident. という. これを受身だからといって, 「彼は交通事故で殺された」と訳すことはできない. 日本語でもそういういい方をすることもあるが, その場合には原文の英語とは違ったニュアンスとなる. つまり, 相手に殺意があったというようないい方である. すなわち, 日本語の「殺す」「殺される」は人についていう場合には犯罪としての「殺人」を意味する. ところが英語の kill は外的な要因で動物・植物の生命を奪うことである. もちろん犯罪としての意図的な殺人も含むが, 意味領域はもっと広く, 意図的でない殺し方も意味する. その区別は前後関係によって決まる. 英語では, 意図的な殺人, すなわち日本語の「殺す」に当たるのは murder である. なぜこのような相違が起こるのであろうか. 英語は, 「何が何をどうした」という行為者と被行為者の関係を明確にいう言語である. そこで, 自己原因でない場合は一般に受動態の表現になりやすい. このことについては die, be killed だけでなく, be surprised (驚く), be pleased (嬉しい), be interested (興味を持つ)など類似の例を多数あげることができる. なお, die は自己原因と外的原因の両様の死について用いられるが, 事実を述べる客観的な語で, 多くの場合 died in 1990, died a few years ago のように時の副詞を伴うのが普通である. 》
《英語は「何が何をどうした」という行為者と被行為者の関係を明確にいう言語である》
という一行は、実に味わい深い。
災害関連死による死者と、虐殺による犠牲者を、おなじ「亡くなられた」という動詞で一括りに表現する小池都知事の言葉は、行為者と被行為者の関係を曖昧にした状態で語ることのできる言語である日本語だからこそかろうじて意味をなしているが、この会見が英語でやりとりされているのだとしたら、知事の回答は成立しなかったはずだ。
具体的には、虐殺の犠牲者には、“murder”ないしは “slaughter”という単語を使わなければならない。
つまり、英語では「行為者」の「行為」を消すことができないということだ。
同じ会見の中で、小池都知事は、
《追悼文送付の中止で、震災時に朝鮮人が殺害された事実が否定されることになるとの批判がある》
という記者の指摘に対して
《様々な歴史的な認識があろうかと思うが、関東大震災という非常に大きな災害、それに続く様々な事情で亡くなられた方々に対しての慰霊をする気持ちは変わらない》
と回答している。
これも、さらりと言ってのけているが、実にとんでもない言明だと申し上げねばならない。
どういうことなのかというと、知事は、「震災時に朝鮮人が殺害された事実」について問い質されている文脈の中で、「さまざまな歴史認識があろうかと思うが」と言っているわけで、これはつまり、知事ご自身が「朝鮮人が殺害された事実」を歴史的な「事実」として受け止めておらず、「歴史認識」の問題として認識していることを示唆している。
要するに
「朝鮮人が殺されたことを事実だと考えている人もいるのでしょうが、一方には、虐殺を捏造と断じている歴史認識を抱いている人もいるわけで、まあ人生いろいろですよね」
ということだ。
歴史認識の話をすれば、朝鮮人虐殺を「事実だ」と考える日本人が大半である一方で、「捏造だ」と主張している人がいることも事実ではある。
が、虐殺は、当時の政府が公式に認めている事実であり、裁判所には裁判記録も残っている。関東近県の警察はもとより、記者の取材メモや私人の日記や小学生の作文など、虐殺を証拠立てる資料はそれこそ山と積むほど存在している。
当然、教科書もそう書いているし、歴史家や文学者による書籍も同じように虐殺を「事実」として描写し解説している。
これを「歴史認識の問題」にすり替えることができるのなら、「ポツダム宣言の受諾」や「原発のメルトダウン」だって、同じように「人それぞれ色々な見方がありますからね」案件として扱えることになる。実際、広い世界には、アポロ11号の月面着陸をスタジオ撮影だと言い張る人たちが生息しているし、ホロコーストをユダヤ人による捏造だと主張している人たちもいまだに滅びていない。
しかし、都知事という立場にある人間が、朝鮮人虐殺という歴史的事実をつかまえて「様々な歴史認識があろうと思いますが」なんていう言い方をしたら、あらゆるファクトはフェイクに化けてしまう。
たとえばの話、税務署の人間に対して
「さまざまな税務解釈があろうかと思いますが」
みたいな前置きで説教をカマすことが可能だろうか?
あるいは白バイの警察官に
「様々なスピード計測機器があろうかと思いますが、私の体感では時速38キロです」
てなことを言ったとして、警察官は、
「なるほど。あなたがそうおっしゃるのなら、速度超過はしていないのでしょうね」
と、めでたく納得してくれるものだろうか。私は無理だと思う。
以上、長々と書いてきたが、知事が追悼文の送付を拒絶した理由は、私には解明できなかった。
「わからない」
としか言いようがない。
石原慎太郎氏をはじめ、猪瀬さん舛添さんと、歴代の都知事が毎年送付してきた簡単な追悼文を、例年どおりに送ることで、いったい小池都知事は何を失うと考えたのだろうか。
反対に、これまで何の不都合もなく継承されてきた慣例に従うことを、自分の代であえて拒絶することで、彼女は何を獲得するつもりなのだろうか。
あるいは、知事は、誰に向かって何をアピールするつもりで、今回の決断をくだしたのであろうか。
そこのところがどうしてもわからない。
小池都知事は、昨年の都知事選を戦うにあたって、舛添前都知事が約束していた韓国学校への都有地の貸与を撤回することを公約に掲げていた。
都民ファーストという名前は、その韓国人学校への都有地の貸与を白紙撤回する主張を展開する中で浮かび上がってきた言葉でもある。
そもそも「ファースト」という分断ないしは差別待遇を示唆する言葉を「都民」なり「日本」なりという「総体」に対して使う用語法が、すでにして狂っているのであって、こういうスローガンを掲げた以上、運動の対偶として「非都民」なり「非日本人」なり「非国民」なり「反日分子」なりを持ち出さずにはおれなくなるはずなのだが、小池さんが、就任1年を経てあえてこの時期に、朝鮮人犠牲者への追悼を拒絶したのは、邪推すれば、「ファースト」という言葉がもたらした必然であるように見える。
とはいえ、私は、知事が、韓国人・朝鮮人に対して差別的な考えを抱いているとは思っていない。
ただ、憶測すればだが、小池都知事のコアな支持層の中に、知事が朝鮮人犠牲者を追悼することを喜ばない人たちが一定数いることは当選の経緯からしても大いに考えられることで、してみると、今回の決断が、その支持層の意を受けたものである可能性は否定できない。
トランプ大統領が、ここしばらく米国を揺るがしている人種対立の問題に関して、自らの有力な支持母体のひとつである白人至上主義団体への目配りから、果断な態度を示せずにいることと一脈通じる話かもしれない。
うまくまとまらないので、最後に、小池都知事の政治手法五動作を披露しておきます。
さ:策を弄する
し:品(しな)を作る
す:裾を掻く
せ:節を曲げる
そ:袖を払う
古くさい言葉が多いですね。辞書を引いてみてください。私も辞書を眺めながら考えました。お粗末。
(文・イラスト/小田嶋 隆)