担当者より:コラムニスト・小田嶋隆さんが2008年に『広告批評』休刊をうけて書いた原稿です。また先日、小田嶋さんと岡康道さんの共著『ガラパゴスでいいじゃない』(講談社)が発売されました、そちらもぜひ!

配信日:2008/06/18


『広告批評』が休刊するのだそうだ。なるほどね、と言おう。ずっと前から予想がついていたみたいな口調で。ふむ、と。実際に、予想がついていたのかどうかはともかく。だって、『広告批評』がわれわれに教えてくれたのは、「何事につけて、わかったふりをしておこうぜ」という態度だったわけだから。「いつもわかったような顔つきを保ち続けることが、もののわかった人と思われるための秘訣だぞ」と、私は、あの雑誌から、そういうメッセージを受け取っていた。

で、実際、天野祐吉は、いつでも「わかった人」として、コメントしていた。殺人事件から、経済指標、グルメ、ファッション、ジャズ、映画、文学、生理用品まで。広告を批評する人間は、全世界を批評できるんだぞみたいな、そういう誤解を定着させることに、あの人たちは成功していたわけだよ。天晴れ、広告卑怯――というのは、言い過ぎだな。訂正する。批評広告。

正直に言うと、私は、びっくりしている。まさか、『広告批評』が休刊するなんて、予想すらしていなかったから。どうしてなんだろう。ここでは、その理由を分析してみたい。なぜダメだったのかという、広告屋さんたちが決してしないタイプの分析作業を、誰かがせねばならないはずだから。っていうか、批評という立場から撤退するのなら、『広告批評』は、自分たちの撤退について、まず存分に批評的な分析をせねばならなかったはずなのだ……とか、そういう難しいことを言うのはやめよう。そもそも批評なんかじゃなかったのかもしれないわけだからね。批評という商売。一種のメタ広告としての疑似批評広告、と。

代理店の人間は、勝つ理由についてなら、ヤマほど理屈を並べることができる、そういう人々だ。一方、敗因分析はからっきし苦手だ。売り上げに直結しない分析は、あの業界では無視されるから。しかしながら、オレら構造不況業種の申し子であるところの出版界の人間は、むしろ敗因分析を本業としている。後智恵。愚痴。あるいは、死者に鞭(←「支社に無知」by Atok)。あんまり生産的ではないが。

とにかく、ここしばらく、広告に関しては、あまりパッとした話を聞かなかった。やれ広告制作の単価が安くなっているとか、新聞の広告売り上げが右肩下がりだとか、伝わってくるのはそんな話ばかりだ。テレビもひどい。なんでも、今年にはいって、民放各局のスポットCM売り上げは、軒並み、前年比で十数%下落しているらしい。

たしかに、テレビ画面に出てくるCMは、この10年ほどの間に、驚くべき水準で劣化してきている。私のような素人の目から見ても、映像そのものにカネが掛かっていないのが丸わかりだ。ラインナップも、パチ屋、サラ金、尿漏れパンツ、老人向け年金保険、墓地、入れ歯安定剤……と、10年前だったら画面に出すことさえはばかられていた商品が、目白押しで並んでいる。それもゴールデンの時間帯に、だ。

新聞広告もひどい。スッポンだの鹿の角だのから出来ていることを謳った怪しげな健康食品、先物取引に自己啓発研修、あるいはマルチまがいの浄水器みたいなものの広告が、一流とされている新聞の紙面に堂々と掲載されている。折り込みの形で挟まってくる広告はある意味、さらに破壊的だ。地域によって多少の差はあるだろうが、どっちにしても地域密着型の詐偽まがい。SF商法や売り逃げ店舗の開店チラシ。催眠商法のバラ撒き広告や試供品詐偽の釣り用チケット。駅前の呼び込みみたいな調子のダミ声。ひどい。

以上のごとき次第で、「テレビで宣伝している会社だから一流だ」「新聞に広告が載っている商品だから大丈夫」といった感じの昭和の常識は、すでに瓦解している。というよりも、20歳から下の若い人々は、瓦解もなにも、はなっから広告に対して憧れを抱いていない。

思うに、『広告批評』の休刊はこういうところから来ている。つまり、「メガ広告の終焉」だとか、「広告媒体の多様化」だとかいったそれらしい分析以前の、モロな「広告」の破産という事態が、『広告批評』を休刊に追い込んだのであって、「広告」という作業そのものが信用を失ったことに、私どもは注目せねばならないのである。

知り合いの広告関係者に言わせると、うちの国の広告は、ほとんどまったくドメスティックな枠組みで作られているがゆえに、予算規模自体が、国内限定のケチくさい枠に縛られている。であるから、ナイキだとかアディダスみたいな会社が世界数十カ国に配信することを前提に作っている予算何十億の広告作品とは、はじめっから勝負にならないらしい。なるほど。

だから、天気待ち(野外撮影の場合、良い映像を撮るために、最適な光を求めて好天を待つものらしい)もろくにできていない、安い光で撮った、ショボい映像が、無防備で茶の間に流れているわけだ。で、その、ホームビデオで撮ったみたいなチープなCMを見ながら、若い連中は、広告業界への憧れを、徐々に喪失して行った――これが、バブル崩壊以後の20年ぐらいの間に起こったことの真相なのだと思う。

私が若者だった頃、広告業界は、学生や若いリーマンにとって、まさに憧れの職場だった。クリエイティブで、おしゃれで、高収入で、将来性があって、自由で、経費使い放題で、最先端で、女にモテて、育ちの良い同僚がいっぱいいる、とにかく、あらゆる点で、最高の就職先に見えた。広告作品自体も、なんだか時代をリードしているみたいに見えていた。なにしろ、「作品」と呼ばれていたぐらいだから。実態は宣伝媒体に過ぎないくせに。

結局、広告は「広告」を広告することに成功していたわけだ。広告業界は、「広告業界って最高だぜ」というプロパガンダを定着させ、「広告が時代を変えるんだぜ」というお題目をまんまと実体化し、そうやって、本来は流通の末端にいるはずの仕事を、経済界のトップに位置しているかのごとくに見せかけていたのだな。だから、広告業界には、ワナビーがたくさんいた。なんとかして広告に関わりたいと願っている、そういう若い業界予備軍の存在が、広告の単価を上げ、広告人の地位を押し上げ、彼らの社会的地位を幻想上の殿上人たらしめていたのである。

二十世紀のある時期まで、若いヤツは、誰もが皆、広告関係に就職したいと願っていた。それゆえ、姿形に自信のあるタイプのおねえちゃんたちもまた広告の周辺に蝟集した。で、「広告には才能が集まる」というプロパガンダは、じきに一定の真実を含有するに至る。ひとつの世代のうちの一番優秀な組がこぞって広告業界に集中するみたいなことが、実際に起こっていた時代があったのである。と、才能と収入と世評と外国製乗用車に引き寄せられる形で、女とコンパと酒とコネクションが業界に集中して、最終的に、業界は、一種の仮面舞踏会へと昇華していった。

かくして、広告業界は、広告会社の社員が最も典型的なエリートであるという風評を作成することに成功し、そうした風評の裏付けに、『広告批評』を利用していたわけだ。広告作品を「批評」可能な独立した表現であるかのごとく扱うための媒体として。他人のふんどしで相撲を取りながら(←つまり「クライアントのカネでモノを作っているくせに」ということ)、生活のリスクを負うこともなく、制作費は丸抱えで、そのくせ手柄だけはパトロン抜きで独り占めしようとする、そいう話だったわけだ。そもそものハジメから。

もちろん、広告が時代を反映しているということはまぎれもない事実だ。が、だからといって、広告がひとつの独立した表現として評価されるべきであるのかどうかは、また別の話だ。『広告批評』が、あくまでも、業界紙として、たとえば『日刊鉄鋼新聞』や『月刊住職』みたいな位置づけで、業界人オンリーの雑誌として出版されていたのなら、それはそれでオッケーだと思う。業界の人間が、あくまで業界内の情報として読むのであれば、それなりに、有用な情報も提供できただろう。

が、『広告批評』は、もっぱら業界ワナビー向けに作られていた。文芸誌が作家志望の青年向けに刊行され、ロック雑誌が単に音楽業界人向けにでなく、むしろロケンローラー予備軍を含む、音楽と無縁なティーンエイジャー向けに出版されていたのと同じように、つまり、一種のスターシステムの象徴的媒体として、だ。けれども、そういう時代は終わった。だって、ワナビー自体が、消滅してしまったから。

いずれにしても、広告業界は、中にいる人々にとって、素敵な場所だった。でも、素敵なことばかりが起こっていたわけではない。事実、電通や博報堂に憧れて試験を受けた野心家の多くは、意味のわからない理由で落とされていた。その代わりにまんまと入社していたのは、一部上場企業の重役の息子や、テレビ局の関係者だったりした。癒着ともたれ合い。そう。うちの国の標高の高い場所ではいつも同じプロットが展開される。そういう宿命なのだ。

で、『広告批評』が言っているみたいな、ハイブローでアーティスティックでクリエイティブでハイファッションな作業はともかくとして、業界は、ホイチョイが描いたところそのままの腐敗ぶりを露呈しつつ、徐々に調子を狂わせ、そうこうするうちに、不況と国際化のはさみうちにあって、絶対に国際化できない宿命を担った、うちの国の広告は、いつの間にやらもとの木阿弥の三流業界に立ち戻ってしまったわけですね。ええ、ざまあみろです。

あ。最後の一行は取り消し。忘れてください。分析を装った記事で、本音が露呈してたりするのって、最悪だからね。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。