先週から今週にかけて、似たような事件が3件続発した。
 「似たような事件」とは言っても、細かく見て行けば、背景は微妙に違っている。個々の事件が明るみに出した問題点も、それぞれに異なっている。ところが、3つの話題を伝える報道記事をひとつのテーブルの上に並べてみると、あらまあびっくり、なんとも見事な「女性蔑視連続事件」とでも言うべきひとつのシリーズが出来上がってしまっている。ここのところがポイントだ。


 つまり、われわれは、それぞれに異なった別々の出来事が、ほとんどまるで同じひとつの事件であるように見えてしまうメディア環境の中で暮らしている。このことは、われわれの感覚が粗雑になっているということでもあれば、メディアによる報道がそれだけ劣化してきているということでもある。


 今回は、この1週間ほどに相次いで発覚した3つの炎上案件をひとまとめに扱うことで、それらの出来事に共通の背景を与えている「気分」に迫りたいと思っている。
 個人的には、個々の事件の個別の影響よりも、3つの事件が相次いで報じられたことがもたらすであろうひとまとまりの副作用に、強い憂慮の念を抱いている。


 その「副作用」とは、ごく大雑把に言えば、
 「また女性さまがらみの怒られ案件かよ」
 「つまりアレだ。オレらがさつな男どもは、弱者さまの強権ぶりにはまるで太刀打ちできないってことだわな」
 「女性のみなさんのお気持ちに配慮できない男はパージされて、立場と職を失うことになるのだからして、おまいらも注意したほうがいいぞwww」


 てな調子で拡散しつつある陰にこもった反発の気分のことだ。


 ぜひ注意せねばならないのは、そもそもこの3つの事件は、その同じ「気分」(「女性」「フェミニズム」「ジェンダー平等」「弱者利権」「リベラリズム」「ポリティカル・コレクトネス(PC)」「キャンセル・カルチャー」などなどへの漠然とした反発)が惹起した感情的な暴発を含んでいる点だ。


 それはつまり、「反フェミニズム」「反リベラル」「反PC」「嫌キャンセル・カルチャー」は、先週から今週にかけて報じられた3つの事件の原因でもあれば結果でもあるわけで、してみると、この先、この反動形成による無限ループは、バカにならない圧力を生み出しかねない。


 以下に、「3つの事件」についてのごく大まかな解説と、その事件を扱った記事へのリンクを紹介しておく。


1.タレントの渡辺直美さんを「オリンピッグ」(←五輪の豚?)とする演出案を提案していた旨を報じられたクリエイティブディレクターの佐々木宏氏が、3月18日に東京五輪・パラリンピック大会開閉会式の演出リーダーを辞任する意向を表明し、了承された。


東京五輪パラ関係者また「退場」、女性タレントをブタに例える


2.ベストセラー『応仁の乱』の著者として知られる国際日本文化研究センター助教の呉座勇一氏が、女性研究者らを中傷する投稿をしたとしてツイッター上で謝罪した問題で、日文研が謝罪コメントを発表した。


呉座勇一氏の投稿『到底容認されない発言』 日文研謝罪


3.テレビ朝日で放映中の「報道ステーション」が、3月24日、ネット上で「女性蔑視ではないか」という指摘が相次いでいたウェブCMを取り下げ、謝罪した。


『女性蔑視』指摘受けた報道ステーションのウェブCM、テレビ朝日が取り下げ


 当稿では、ひとつひとつの事件の詳細に立ち入ることはしないつもりだ。書くことはいくらでもあるのだが、いちいち追いかけていたらキリがないし、また、おそらく、個々の事件に詳しく触れた原稿を書けば書いたで、過半の読者はうんざりするはずだからだ。
 「またかよ」
 と。
 なので、今回はその
 「またかよ」
 という気分そのものを主題に持って来つつ、その気分を読み解く作業に行数を費やすつもりでいる。


 とはいえ、3つの事件を、このまま、見出しを紹介したのみで処理し去るのは、釈然としない(もちろん「釈然としない」のは私の側の気分の話で、読者がどう思うのかは私にはわからない)ので、以下、箇条書きの範囲内で感想を述べておく。


1.当件の主たる問題点は、渡辺直美さんに対して発動された女性蔑視演出案ではない。むしろ、悪質なのは、佐々木宏氏(ならびにその背後で権力を振るっていた森喜朗前東京五輪・パラリンピック組織委員会会長)による、五輪演出チーム排除&演出利権横奪の経緯だ。「文春砲」の記事の焦点もそこにある。女性蔑視または容姿差別演出のプランは、「キャッチーな見出し」「使い勝手の良い追及ツール」として機能した可能性が考えられる。


2.呉座氏による一連のツイッター投稿は、たしかにひどいものではあった。とはいえ、もっと凶悪なツイートを連発している投稿者はいくらでもいる。では、どうして呉座氏だけが告発され、炎上し、責任を取らされたのかといえば、彼が「実名身バレ」の、一種「堂々たる」設定で、無防備な中傷ネタを発信していたからだ。
 つまりこの事件の本質は、投稿の悪質さそのものよりも、「鍵アカウント」(相互承認したアカウント同士が内輪で楽しむ設定のツイッター利用)の防御力を過信した、呉座氏のネットリテラシーの貧困さ(←「鍵アカウント」であっても、フォロワーが3000人以上もいれば、事実上は公開設定と変わらない。こんなことはツイッター利用者にとっては常識以前の話だ)に求めなければならない。
 してみると呉座氏をして裸の王様(かわいそうな呉座先生は自分が全裸で公共の場を歩いていることに最後まで無自覚だった)たらしめていたのは、匿名&随時逃亡準備完了の状態で誹謗中傷投稿を楽しみつつ、生身の実名アカウントである呉座氏のあまりにもナイーブな本音投稿を囃し立てていた取り巻き連中(←だってじきに炎上することは誰の目にも明らかだったわけだから)だったわけで、主たる罪もまた彼らにある。呉座氏は、ある意味で、被害者ですらあった。
 例によって、一連の炎上騒動を呉座氏の投稿を告発した女性研究者に帰責するテの立論が一部でやりとりされているが、それらの言説が悪辣な論理のすり替えであることは、この場を借りて明言しておく。被害を訴えただけの被害者がどうしてトラブルの責任を負わなければならないというのだろうか。
 ついでに言えばだが、当件においても、「女性蔑視」「女性差別」は、「キャッチーな見出し」「使い勝手の良い追及ツール」として用いられていた側面が大きい。事件の本質は「匿名逆張り論客によるアカデミズムならびに社会への復讐」と、「その彼らによる著名アカウントを利用した小遣い稼ぎ」だ。
 匿名ネット論客の彼らが無傷なのは、彼らが匿名であるからというよりは「無名」(つまり、誹謗中傷された側の人間が、手間とカネをかけて告発するコストに見合うだけの内実を、彼らがあらかじめ持っていないということ)だからで、さらに言えば、彼らが「無敵の人」(←失うものを持っていない)だからだ。その点、呉座先生は失うものをあまりにも多く持っていた。


3.まず、素材としてのウェブCM自体が、多くの論者によって指摘されている通り、どうにもぞんざいな制作物だった。「ジェンダー平等」という言葉の扱いが無神経かつ浅薄であることはもとより、動画の末尾の部分で表示される「こいつ報ステみてるな」というテロップが、それまで画面に向かってひとりしゃべりを続けていた女性に対して失礼極まりない点も無視できない。総体として、若い女性を軽佻かつ無自覚な人間として扱っているところに、制作者の偏見が覆いようもなく露呈している。
 ただ、より深刻なのは、報道機関であるテレビ朝日が、まっとうな謝罪のテンプレートを世間に示すことができなかった点だ。常日頃は、不祥事に関わった人物や組織に謝罪や弁明を求める役割をこなしている報道機関なればこそ、自分が謝罪せねばならない場面に立たされた時には、世の模範になる百点満点の謝罪を提示せねばならなかったはずだ。
 ところが、テレビ朝日の謝罪は、謝罪会見すら開かない、半端な書き置き(←テキストファイルでさえない、お詫び文書の画像ファイルをウェブ上に掲示しただけだった。お詫びの文言をテキストでなく、画像で提供したということはつまり、「引用するな」ということですよね? 一体どこまで視聴者をバカにしているのでしょうか)を残したのみの、ミもフタもない逃走劇だった。こんな謝罪をしているようでは、今後、他者の責任を追及する取材は永久に不可能になると思われる。
 もうひとつ、当該CMの制作責任者ならびに制作過程と、CM制作をめぐる議論および承認に至る経緯を公開していない点も、報道機関としてなさけないの一語に尽きる。思うに、現場のニュース制作者たちは、公開前にこのCMを見せられていないはずだ(逆に言えば、見せられていれば黙っていたはずがないし、見せられて黙っていたのだとすれば、いよいよ完全にどうしようもない)。だとすると、番組をめぐるガバナンスが機能しているのかどうかが、大きな疑問として浮かび上がることになる。今後の一番の注目点はそこだと思う。


 ひとことだけのつもりが、けっこう長くなってしまった。
 ともあれ、上記の3つの女性蔑視案件の報道を受けて、現在、ネット上では「反作用」とも言うべき怨嗟の声が反響している。
 ネット上だけではない。
 既存メディアの中にも、世間の反発の気分に乗っかることで、部数やページビューを稼ごうとする動きが顕在化しはじめている。
 たとえば、この記事
 などは、キャンセル・カルチャー(←社会の中で抗議活動や不買運動が過剰な力を発揮する現象)への反発をそのまま書き起こしたテキストと言って良い。


 記事(といっても、昨今目立つ、テレビ番組内のコメントを書き起こしただけのいわゆる「コタツ記事」なのだが)の中で、北村弁護士は、
《 -略- 「今回辞任されるのは、ものすごい生きづらくなってきたなって世の中が。森(喜朗)さんの発言はボクも納得できなかったけど、世間からの叩かれ方がある意味、異常といえるぐらいすごかったんですね。ああいう状況に陥ると考えて辞任されたのかなと思うと、悪いことは悪いけど、異常にバッシングする雰囲気は少し抑えた方がいいのかなと思います」 -略-》
 と言っている。


 たしかに、氏が指摘している通り、本来内輪のやりとりであるはずの「企画段階の演出案のLINE送信」が、商業誌の誌面で暴露されていることは、一見、由々しき事態に見える。また、企画段階でボツになった演出案が問題視されて、責任者の辞任につながっている流れも、この部分だけをとらえてみれば、不気味極まりない「密告屋社会の到来」てな話になるのだろう。


 しかしながら、前述した通り、本件のキモは女性蔑視演出案ではなく、週刊文春の有料記事を最後まで読めばわかるが、あくまでも「佐々木氏とその周辺の人々が、進行中だった五輪演出チームの演出プランに不当に介入し、結果として演出リーダーの地位を横奪するに至ったその経緯と手口」だ。


 もうひとつ言っておくなら、北村氏の言う
《ものすごい生きづらくなってきたなって世の中が》
 という感慨は、これまで、女性蔑視ネタの笑いや、容姿差別的な企画案を臆面もなく口外してきた側の人間であればこそ抱くことのできるお気楽な嘆き以上のものではない。


 これまで、その「抑圧者」「差別者」「権力者」たちがのびのびと
 「生きやすく」
 暮らしてきた社会は、とりもなおさず、その彼らの差別や虐待のターゲットになってきた人々にとっては、抑圧そのものだったわけで、その差別や虐待が許されなくなって
 「不用意な差別ネタをうっかり口にできなくなってしまった世の中」
 が、到来したのだとすれば、その社会は、むしろ、被抑圧者にとっては、のびのびと生きやすくなっているはずだ……という、そこのところをおさえておかないとこの話の全体像は完結しない。つまり、北村弁護士は、ご自身が生きやすく生きていたこれまでの生き方を自省すべき時期に立ち至っていることを自覚すべきなのだ。まあ、余計なお世話ではあるが。


 ほかにもたとえば、産経新聞のこの記事
 などは、苦情社会の息苦しさを代弁した典型例だろう。


 これも、「一理ある」と言えばその通りなのだが、
《エンターテインメントの世界で活躍する渡辺さん本人が寄せたコメントの全文を読むと、侮辱されたとは思っていないのも分かる。》
 という増田明美さんによる要約は、端的に間違っている。
 渡辺直美さんは、事務所を通して出した公式コメントの中では、ご自身の感情を明らかにすることは控えている。
 しかし、YouTubeチャンネルでの言及を報じた記事によると
《-略- 一部で「芸人だったらやるでしょ」という声も受けたといい、「もしもその演出プランが採用されて、私のところに来たら私は絶対に断るし、その演出を私は批判すると思う。目の前でちゃんと言うと思う」と断言し「だって普通に考えて面白くないし、意図がわからない」と説明していた。-略-》
 と、ここでは演出への感情を表明している。


 何が言いたいのかを説明する。
 3連続で炎上した女性蔑視案件の報道を受けて、いま、世間では
 「苦情を言う人」
 「抗議する人々」
 「不満を述べる人間」
 「怒りを表明する者」
 「群れ集って抗議行動を起こす団体」
 に対する、忌避感が急速に高まっている。
 「あーあ、めんどうくさい人たちだなあ」
 てな調子で
 「わきまえない女たち」
 への嫌悪感が増幅しているというふうに言い換えても良い。


 昨年来、もっぱら海の向こうから伝わって来ていた「#MeToo」やBLMの運動への反発を核としてひとつの勢力を形成しはじめていたネット言論が、ここへ来て、いよいよ形をなしはじめている感じだ。


 その感情をひとことで表現すれば、あるいは
 「うっせえわ」
 ということになるのだろうか。
 面白いのは、この
 「うっせえわ」
 の声が、権力や、政治や、体制には決して向かわないことだ。


 「うっせえわ」
 という、この穏やかならぬ感情は、むしろ、もっぱら、権力や体制や政治に抗議する人々に向けての叫びとして、ぶつけられはじめている。
 私は、このことにとても強い警戒感を抱いている。


 もっとも、こんなことを言っている私とて、個人的な感情としては、機嫌の悪い人よりは機嫌の良い人の方が好きだ。怒っている人よりはニコニコしている人々と付き合いたいものだとも考えている。
 ただ、人はいつも機嫌良く暮らせるわけではない。
 特に、現実に苦しんでいる人は、そうそうニコニコばかりもしていられない。当然だ。
 だからこそ、他人の不機嫌や怒りに耳を傾ける態度を持たないと、世の中は、恵まれた人だけが得をする場所になってしまう、と、少なくとも私はそう考えている次第なのだ。


 「いつもニコニコしている人」には、二通りのパターンがある。
 ひとつは「他者に不機嫌な顔を見せないマナーが身についている極めて人間のできた人々」で、もうひとつの類型は「単に恵まれた人たち」だ。
 「いつもニコニコしていること」を個人の目標として掲げることは、決して悪いことではない。むしろ、素晴らしいことでさえある。
 しかしながら、その一方で、「いつもニコニコしていること」を、他人に求めることは、時に、あからさまな抑圧になる。


 であるから、渡辺直美さんが、例の「オリンピッグ」の演出に対して最初に出した公式コメント(←全方位的に誰も責めていない極めて穏当で抑制の利いた文案でした)を、過剰に賞賛する各方面の声に、私は、強い違和感を抱いたのだ。


 なので、ツイッター上に
 《個人的には、渡辺直美さんのコメントへの過剰な賞賛がSNS上でこれ見よがしに拡散されていることと、伊藤詩織さんへの不当なバッシングが一向に衰えないことは、ひとつながりの出来事なのだと思っている。要するにうちの国の男たちは「屈辱の中にあって笑顔を絶やさない女性」が大好きなのだね。》


 という発信をした。
 このツイートには、賛同と反発の両方の反応があった。


 ……それはつまり、わざわざ発信者に反発の意思を伝えてくる人間が、それなりの人数として存在していたということは
 「わりと反発された」
 と受け止めなければならないのだろう。


 ひるがえって、渡辺直美さんのコメントを手放しで賞賛しているツイートには盛大な「いいね」が付けられている。
 ということは、やはり人々は、機嫌の良い人々によるポジティブな発信の方を好んでいるわけだ。


 ケチをつけるために取り上げたと思われるのは心外なので、以下、概要だけを引用する次第なのだが、つい先日、ある人気アカウントが投稿した
 「不機嫌な態度をとるほうが、得する世界が終わりになるといいな」
 という意味のシンプルなツイートが、丸一日ほどのうちに約13万件の「いいね」を獲得するという“事件”があった。
 この事実に、私は静かに打ちのめされている。
 人々はどうやら「キャンセル・カルチャー」にうんざりしはじめている。
 のみならず、抗議や告発をめんどうくさがりはじめている。
 この流れは、もはやキャンセルできないのかもしれない。


 もっとも、
 「不機嫌な態度をとるほうが、得する世界が終わりになるといいな」
 というこのシンプルな言明が人々の心をとらえたのは、必ずしも、抗議する人々への忌避感からではないのだろう。
 むしろ
 「威張り散らす権力者」
 や、
 「意味なくにらみつけてくるおっさん」
 や、
 「やたらとカリカリしている顧客」
 が醸しているいやーな感じを的確に言語化してくれたツイートへの賛意が、約13万件の「いいね」であったと考える方が自然だ。


 とはいえ、コロナ禍の渦中で抑圧を感じているわれら日本人が、ギスギスした世間の空気にうんざりしていることもまた事実ではある。
 そんな中で、たとえば
 「プロテストする人々」
 「抗議する女性」
 「声をあげる人間」
 として活動せざるを得ないフェミニズムの活動家は、どうしても嫌われ役を自ら進んで担うことになる。


 フェミニストだけではない。
 差別や偏見にさらされていたり、パワハラやモラハラの被害に苦しんでいたりする人々は、その自分たちへの不当な抑圧や攻撃に、反撃し、反発し、抵抗する行為を通じて、結局のところ世間に嫌われる役回りを演じることになる。
 なんと理不尽ななりゆきではないか。


 告発者として振る舞うことのコストは、社会が抑圧的であればあるほど、無制限に上昇する。
 告発者は、ただただ身に降りかかる火の粉を振り払っているだけなのに
 「密告者」
 「チクリ屋」
 「金棒引き」
 などとされ、さらなる迫害を受けることになる。
 今回のように、女性蔑視をめぐって、3つの異なった場面で、3件のよく似た告発案件が報道されたりすると、「抗議者」「告発者」は、SNS上では、それこそゲシュタポじみた扱いを受けるに至る。


 「企画をツブし、担当者のクビを飛ばし、人々を黙らせ、CMを引き上げさせ、ている《女性》という人たちのどこが一体弱者なんだ?」
 「女性蔑視案件って、事実上は万能首切りツールじゃないか」
 「っていうか、秘密警察ムーブだわな」
 「魔女狩りだよね。魔女による」
 「魔女を魔女だと言った男は魔女だ式の?」


 なんとも悲しい反応だ。
 一定の地位や権力を持った人々は、抗議されたり告発されたりすることをひたすらに恐れている。
 であるから、彼らは抗議や告発や怒りを外部化しようとする。
 ちょっとわかりにくい話をしている。
 私は、抗議され、告発され、怒りを向けられている側の人々が、その抗議や告発や怒りに直面したがらない傾向についてのお話をしている。
 では、彼らはどんなふうにそれらを処理するのだろうか。
 彼らは、自分たちに向けられた、抗議・告発・怒号が、自分たちの行動や言葉に由来する反応だとは考えない。


 彼らは、それらを、抗議・告発・激怒している側の感情の問題として定義し直す。まるで魔法みたいな論理だ。
 次に、彼らは告発の主客を転倒させる。
 自分が告発者を怒らせたというふうには考えない。
 その代わりに、自分が告発者の怒りの対象になったと言い換えることで、自分を「透明な存在」に置き換えつつ、告発を、相手側の感情の問題として外部化するのである。
 その魔法みたいな理屈のひとつの成果が
 「怒られが発生した」
 というネットスラングだ。
 彼らは自分が怒らせたとは考えない。


 「怒られ」
 という現象が、天から降ってきた一種の不可抗力として自分たちの居住空間の中に突如出現したテイで、彼らは、
 「怒られが発生した」
 と語るのである。


 要するに、こうやって、彼らはあらゆる抗議から身を遠ざけ、すべての感情を他者の理不尽な情動の結果として退け、それらを「お気持ち」と呼んで嘲笑することで、マジメに取り合わない体制を固めている。


 「キャンセル・カルチャー」という言い方でひとくくりにしてしまうと、議論が雑になってしまうので、ここは慎重にまとめることにする。
 正義が告発側にあるのかどうかは、実際にはケース・バイ・ケースで、一概には言えない。
 抗議する者を常に正義の側として定義する乱暴な決めつけから出発すると、世に言われる「キャンセル・カルチャー」のネガティブな面が社会を害する場合も当然あるはずだ。
 ただ、今回の3例について言うなら、非は、おおむね女性蔑視を発動したとして退場を余儀なくされた側にあると言って良い。その点では、正しい側が正しく評価されたわけだ。
 SNSで散発的にやりとりされている議論を眺めていると、事態が一件落着したかに見えているにもかかわらず、告発者へのリンチがはじまりそうな気配は、一向に衰えていない。
 とても不気味だ。


 長い原稿になってしまった。
 この長くまとまりのない原稿で私が言いたかったのは、
 「告発する人間を異端視する世界が終わりになりますように」
 ということだ。
 私は、自分の言葉で何かや誰かを告発することはないと思うのだが、機嫌の良い人のつぶやきよりは、告発する人の言葉に耳を傾ける人間でありたいと思っている。まあ、いつもそうできるとは限らないのだが。


(文・イラスト/小田嶋 隆)