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秘密力を研究する秘密の人物?

「混沌堂主人雑記(旧名)」から転載。長い記事なので前半略。
私はこの「国際秘密力研究」(菊地という人の文章らしい)の文章が苦手で、これまでほとんど読まなかったのだが、ここに書かれた「陰謀論レッテル」批判は素晴らしい。マスコミやネットに蔓延する、〈「物事の真相(あるいは深層)」を究明しようとする言説をすべて「陰謀論」と決めつけて馬鹿にする姿勢〉を実にきちんと批判している。(文章に違和感を感じるのは、これがツィッターの文章を集めたものだからだろう。つまり、短文に収めるために主語の「私」が無い文章だからだ。それが、この文章の「正体不明」感を出している。)

(以下引用)

〇「事実と道理」はあくまで自分の思考や言動を反省する為の基準であって、自分の思考や言動自体が常に事実や道理に即していると思い込むのとは全く別の事である。後者は「独善」と言う。独善に陥らない為の基準であるのに「事実と道理」という概念に執着して自分の思考自体と混同すると本末転倒になる。
〇「事実と道理」と言っても何が「事実」で何が「道理」かは人ぞれぞれ捉え方や考えが違うので議論や対話に開かれた姿勢も重要だと思う。その意味で、言論弾圧は勿論、何の論証もせず根拠も提示せずに「デマ」と決めつけたり、“陰謀論”なるレッテルを貼り付けるのは極めて道理に悖る態度と言うほかない。
〇自称リベラルなどの陰謀否定論者は「正義に照らして自分の考えを反省する」のではなく「自分の考えが正義だ」という態度である。「人の振り見て我が振り直せ」と言う。事実や道理は自分の思考を反省する為の基準であり、自分の考え自体を「事実」「道理」と思い込むと俗物陰謀否定論者と同類になる。
〇所謂ポリコレなどに「「正義に照らして自分の考えを反省する」のではなく「自分の考えが正義だ」という態度」がよく見られる。この類にとり「正義」とは「自分を反省する為の物差し」ではなく「他人を殴る為の棍棒」である。「自分は正義」というのが大前提である。かかる独善はリンチを誘発しがち。
〇俗物(スノッブ)とは、単に俗欲が深い人物という意味ではない。見栄っ張りで自分を上品で教養の深い知識人と見せたがるような人物を言う。それも結局は俗欲が根底にある訳だが。「陰謀論」を連呼する陰謀否定論者は大抵「インテリ」を気取る擬似知識人なのでまさに「スノッブ」と呼ぶのが相応しい。
〇陰謀追及に「陰謀論」のレッテルを貼るのは擬似インテリ村の掟である。擬似インテリ村では「陰謀論者」という烙印を押される事はムラからの追放を意味する。この村の住人になるには「良識を備えた教養の深い知識人」然として振る舞い、「陰謀論」と決めつけて鼻で笑うスノッブである事が条件である。
〇例えば「グレート・リセット」という語感だけで“陰謀論”と思い込む前にダボス会議が実際に唱えている事くらいは知っておくべき。何事も調べもせずにとりあえずイメージで“陰謀論”と決めつけ“鼻で笑って”みせる擬似インテリ村の“作法”は実に醜悪と言う他はない。すのっぶには付ける薬なしと言った所か。
〇メディアが「陰謀論」の典型としてよく挙げる「小児性愛者ネットワーク」も然り。ジェフリー・エプスタインの事件が表沙汰になっている上に、エプスタインと欧米の「エリート」層(英国の王子などが含まれる)の関係も明らかになっている以上只の「陰謀論」として一笑に付す事は出来ないはずである。
〇「悪魔崇拝」もそうだろう。著名人が何故か「コルナ」サインをする事が多いのは事実である。このサインは元々はイタリアの風習だが、アントン・ラヴェイが採用して以後はサタニズムのシンボルとなった。世界中の有名人がイタリアの風習をやる必然性はないので、サタニズムに関係している可能性は高い。
〇この場合例え「陰謀論」と決めつけても欧米“セレブ”らがコルナ・サインをやる意味の合理的な説明はない。「悪魔崇拝」「悪魔教」「サタニズム」は西洋文明の裏の側面である。これもまた「陰謀論」でも何でもない。故にコルナをやる連中がサタニスト・秘密結社員の類と推測しても何ら論理の飛躍はない。
〇以前書いたが、英国に於ける年間の子供の行方不明者数は他の国と比べて異常に多い。そういうデータがあるのは事実。背景として英国がオカルティズムの中心地である事を想定したとしても決して突飛とは言えないだろう。あくまで可能性の話だが、調べもせずに「陰謀論」の一語で否定し去る事は出来ない。
〇最近は「陰謀論」という侮蔑語を用いるメディアの中傷報道が増えている。「人は何故陰謀論にはまるのか」「身近な人が陰謀論にはまったら?」の類。根拠なく特定の説を盲信するならば「陰謀論」(思考停止語)だろうが「陰謀否定論」だろうが同じ事である。「陰謀論」と限定する所に意図が感じられる。
〇陰謀追及は事実の探求である。否定したいなら根拠を挙げて反証すればよいだけ。反証が出来ず、肯定も否定も出来ないような見解ならば事実探求としての陰謀追及ではなく形而上学的断定やドグマの類なので、その事を指摘すればよい。疑問も持たずに「陰謀論」という思考停止語を使うなら独断論者と同じ。
〇問題なのは「見解への執着」である。ある論者が未証明の特定の説を絶対視すれば確かに「見解への執着」になるが、メディアが弄する論証抜きの「陰謀否定論」にも「見解への執着」が潜んでいる事を看破しなくてはならない。問題は「事実か否か」であり「陰謀論か否か」ではない。事実は認めねばならぬ。
〇論証抜きで「陰謀論」というレッテルを貼り付けて「人は何故陰謀論にハマるのか」「身近な人が陰謀論にハマったら?」などという「何とでも言えるようなざっくりとした印象操作」というメディアがよく用いる手口は実に姑息で卑怯である。かかる陰謀否定論にこそ執拗な意図と執着が潜む事を見抜くべし。
〇確かに陰謀追及界隈には誘導情報の類も多く思想ツールに嵌められたりして排他独善的になったりカルト化するグループもいる。メディアはそれを一般化して陰謀追及者全体を貶める。全くのお門違いである。特定の見解や言説を絶対視し執着する事が問題なのであって、それは陰謀否定論にも言える事である。
〇「覚醒」「目覚めた」という言葉には注意が必要である。物事の理解は段階的に進むので一度の「覚醒」「目覚め」で全て分かる訳ではない。「学校やメディアが言わない裏の構造がある」事に気付くなど転換点となる「気づき」がある事は否定しないが、それは「入口」であり、そこからさらに探求が始まる。
〇「覚醒」「目覚め」は英語圏では「great awakening」(Qアノン系が多用・元々は米国の基督教用語)という表現が用いられているようである。こういう概念に執着すると、そこで停滞してしまい、思考の柔軟性が失われる可能性があると考える。つまり「覚醒」の時点で得た見解を絶対視しドグマ化する恐れ。
〇「裏の構造に気付いた」など転換点となる「気づき」は「入口」であって、その時点の認識に停滞する事無く、そこからさらに事実を探求していくべきである。人は知らない事の方が圧倒的に多いので、どこまで行っても極まりはないと言える。そういう謙虚な姿勢を持すれば排他独善的にはならないと思う。
〇比喩的な意味などとして「覚醒」「目覚め」等の言葉を使っていても、入口段階の見解を絶対視したりせず、常に事実を探求し続ける思考の柔軟性が失われていなければ何も問題はない。要は独立的思考が働いているか否か。特定の観念や概念、見解への執着がこれを失わせる原因になる事が多いと見ている。
〇メディアが陰謀追及者に「そうあって欲しい」という「像」があると見る。○排他独善的○過激な行為に走りたがる○事実の探求を怠り特定の見解を絶対視○終末論やメシアニズムを盲信しており「もうすぐ世界が救われる」と根拠なく吹聴する...等々。これを一般化して陰謀追及者を貶められるからである。
〇メディアが陰謀追及者に「そうあって欲しくない」像もあると考える。例えば、事実を重視・地道に事実を積み重ねる・論理的である・対話や議論など開かれた姿勢がある・根拠の無い事は肯定も否定もせず無記で臨む・独断的ではない・道理を守る...等々。こういうタイプの追及者が増えると嫌がると思う。
〇熱狂は冷める時節あり。「世界はもうすぐ救われる」「○月×日に何かが起こる」等一挙に問題が解決するかのような出来事に期待するメシアニズムは、それが起こらなかった時の落胆と表裏一体である。世の中が正されるのはあくまで地道な積み重ねの結果(原因・条件・結果の連鎖の結果)ではあるまいか。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1367166579847299076


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