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道徳の形骸化と「通俗道徳」

ブック・オフで買ってきた何冊かの漫画を楽しんで読んだのだが、以前にアニメでも見た「弱キャラ友崎くん」が、アニメにも劣らず面白かった。まあ、人間関係における演技力と演出力の重要さとその訓練の重要さをテーマとした作品だと私は理解したが、演技や演出と言うと、「本心ではない」つまり不正直な行為だ、と思う人が多いかもしれない。(主人公の友崎くんも最初はそういう思考をしていた。)特に私のように怠惰さから人間関係における演技を最初から放棄した人間はその種の思考をしがちだと思う。つまり、自分は正しい、世間は間違っていると思いたいナルシシズムの為せる業だ。
で、その正直さが、実は演技を面倒くさがることから来る怠惰さに他ならないわけだが、「正直さ」というのは道徳の最たるものと一般的には理解されている。正直さの意図やもたらすものが何かを考えず、ただ「正直」という概念が空虚なまま、つまり形骸化して肯定されている類のものを「通俗道徳」とするなら、これまで私がその使用を否定的に捉えていた「通俗道徳」という言葉の使用も肯定すべきかもしれない。だが、一般的な意味での「通俗道徳」とは明治以降の「立身出世」主義などを攻撃する言葉として使われていると思うが、それ自体、概念の形骸化ではないか。
要するに、「何のために立身出世をするか」が問題なのであり、立身出世それ自体が否定されるのはおかしいわけである。立身出世することでしか、世の中を良い方向に大きく変えることはできないから立身出世するならば、それは最高に道徳的な行為だろう。
大久保利通が薩摩藩主(というより藩主の後見人である父親で、薩摩の実際の最高権力者)に近づくために囲碁を習い、囲碁の相手をすることで相手と会話ができる仲になり、藩内でも出世したのは有名な話だが、彼は死んだ時に財産をほとんど持たなかったほど清廉潔白な人間で、その「立身出世」は、日本を良くしたいという目的からひたすら出たものだったわけだ。さて、そうすると、立身出世は否定されるべきものでないのは自明だろう。何のために立身出世し、何を為すかが問題であるだけだ。
「正直さ」も同じことであり、嘘をつくことで何万人の命が救える場合に、「自分は正直でありたい」ということで嘘を拒否して何万人が死ぬなら、その正直さは究極のエゴイズムだろう。

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