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自己愛と悟り

前にも書いたのだが、私の好きな昔の漫画の中で、高嶺の花に恋した男に、その友人が「あきらめちゃいけないよ! だってあの人は『趣味が悪い』かもしれないじゃないか!」と励ます話がある。実際、すべてに優れたスーパーウーマン的な女性のただひとつの欠点が、男の趣味が最悪だ、ということもありうるわけである。つまり、どんなダメ男でも、そのダメなところが利点になって、万能のどハンサム超人に恋愛で勝つことはあるわけだ。
さて、私の持論は「人間は自己愛の動物である」というものだが、自己愛とは利己心と同じではない。誰でも、自分自身を愛さない人間はいないが、そのために自分だけに利益があるように行動する精神が利己心である。これは嫌悪すべき精神だが、それと異なり、自己愛は人間が生きる土台である。たとえば、他人に褒められると嬉しい、というのは自分の価値が評価されたことが自己愛本能をくすぐるからである。
自己愛が希薄な人間ももちろんいるが、たとえ自殺をする人間でも自己愛はある、というのが私の考えだ。むしろ自己愛が過ぎたために、「今の自分が理想の自分と著しくかけ離れている」ことに耐えきれず自殺する、というのが、ある程度知的な人間の自殺ではないか。つまり、自己嫌悪も実は自己愛のひとつの現れだ、ということである。などと言えば、最初から逃げ道を用意したインチキ理論だ、と言われそうだが、まあ、動物の自己保存本能の存在を認めるなら、私の「自己愛」説はそれとさほど遠いものではない。
ここで「虚栄心」というものを考えてみる。つまり「見え(見栄)」である。虚栄心が自己愛を土台にしていることは言うまでもないだろう。自分を実力以上に評価されたい、というのが虚栄心である。「他人の評価」が虚栄心の本質なのである。この世に自分しか存在しなければ虚栄心など生まれようがない。ところが、その「自分を評価する他人」をそれほど自分は評価していなくても、その他人の評価を自分が気にするということはよく起こるのである。ここにはやはり自己愛の魔物が存在していると思える。
まあ、仏道の修行者が捨て去るべきものが「我執」つまり「自己愛」だと思う。世間の誰からも見下げられるような存在になっても平気である、というのが悟りなのではないか。手塚治虫の「火の鳥」の中に、それに近い話があった気がする。もっとも、我執を捨てたらそれで終わり、というのでは面白くも何ともない。そこが大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)の分かれ目だろうか。さらに、大乗仏教(ほとんど必ず組織化され、組織悪を生じる)ほど堕落しやすいのではないか、というのが私の直感である。もちろん、これは仏教だけの話ではない。




愛情の基盤としての優越感(?)



「はてな匿名ダイアリー」のコメントのひとつだが、目から鱗である。
よく考えれば、私の基本思想の「人間とは自己愛の動物である」そのものなのだが、優越感が恋愛と結びつくという視点は私には無かった。
考えてみれば、我々が小動物や幼児に愛情を持つのも、実は我々が優越的立場であり、保護者的立場であることが大きな要素だろう。とすれば、女性がダメ男や悪い男に愛情を抱くのは変な話でも理解できないことでもない。男も、東大入学レベルの頭を持ち、博識で美女でスタイルもよく人柄もいいという女性相手に恋愛感情を抱くのは難しいかもしれない。

(以下引用)

駄目な男とか悪い男にも良い所があるんだよね 「こいつと比べれば自分は全然まともだ…」と安心出来るのもそうだし 明らかに欠点があるからこそ自分の肩肘張らずにダラダラ付き合え...


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