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禅とは何か





  禅とは何か


 


 一般の人間にとって、禅は正体不明の存在である。落語の「蒟蒻問答」にあるような、意味不明の問答が、いわゆる禅問答のイメージであり、とにかくわけの分からないことを言うのが禅問答だと一般人は思っている。しかし、禅宗の基本テキストを幾つか眺めていると、禅宗の基本姿勢というものが見えてくるようだ。もちろん、禅というものは、「概念的理解」を何よりも毛嫌いするものであるから、禅の基本姿勢を言葉で説明するべきではないという考えもあるだろうが、しかし、人類にとって有益な知恵を一部の狭い世界の所有物とするよりは、「野狐禅」だろうが、禅へのとっかかりを作り、人々に禅の世界への入り口を開くほうがいいだろう。


 禅に関する様々な記述の中で繰り返されるのは、「主体的に生きよ」ということと、「物事を差別の目で見るな」である。この二つが自分の血肉となった場合が、悟りであり、成仏なのである。(禅問答とは、その達成の度合いを測る手段であり、その問答を通して、その人間が主体的に生きている人間かどうかがわかるのである。したがって、相手を驚かせることが、禅問答の基本である。相手が驚き、うろたえ、言葉に詰まれば、その男の「禅的レベル」の低さが分かるということだ。そして、問答である以上は、相手を驚かせるには、何よりも論理を超越した奇抜な言葉によるのが当然である。これが禅問答の奇妙さの正体であろう。)


 「主体的に生きよ」という思想は、臨済の有名な「随所に主となれば立処みな真なり」という言葉に良く現れている。「差別相を離れよ」という教えは、前者を可能にするための道である、というのが私の考えだ。


自分が主であるということは、外物に囚われないということであり、そのためには物事を差別の目で見てはならない。我々が外物に動かされるのは、善悪・快不快などの念のためである。つまり、或る物を良しとし、或る物を悪いとする我々の差別の念が、良い物を得ようという欲望や焦慮となり、悪い物を避けようという嫌悪や恐怖や不安となる。これは、我々が外物に動かされていることであり、その時我々は主人公ではない。つまり、差別相とは現代風に言えば「価値観」であり、実は外界の事物に対して我々が抱く価値観が、我々を業苦につなぐのである。美女も老婆も髑髏も同じと観ずれば、美女に心を動かされることは無い。(それが幸福かどうかは取りあえず保留しよう。)


 我々がいかなる外物にも驚かず、恐怖しなくなった状態が「安心立命」であり、これが悟りの状態である。ただそれだけのことだ。したがって、それが達成されたら、後は日常茶飯事がすべて仏としての行為となる。喜捨も修行も不要である。つまり、仏とは外界に求めるものではないし、悟りとは誰かに教えられるものではない。我々がそのままで仏であるのだ、というのが、臨済その他の高僧が繰り返し語っていることである。他人から学ぼうとするその姿勢そのものが、自分が主人公であることを捨てる行為である。だから、「仏に遭えば仏を殺し、祖師に遭えば祖師を殺し、……眷属に遭えば眷属を殺せ」と言うのである。これらの「仏」「祖師」「眷属」は、我々に依頼心を起こさせ、あるいは愛着の念を起こさせて外界につなぎ止めて、我々から主体性を奪う存在なのである。


 さて、ここで大きな問題がある。それは、我々の通常の生活は、すべて差別に基づいているということである。差別を区別と言い換えてもいいが、我々が何かを判断する場合、対象をその他の存在から区別することが前提である。あらゆる科学はこうした判断の積み重ねである分析と綜合によって生まれている。我々は外界を差別の目で見て判断しないかぎり、まともに生活することもできないだろう。そして、物事を差別相で見始めたら、そこに価値判断の序列が生まれてきて、その中の「良き物」を愛着し、「悪しき物」を憎むのも当然の流れである。味噌も糞も一緒では、生活そのものの意味が無い、ということだ。


 


 では、禅的な「悟り」は無意味だろうか。無意味ではない。これは、行き過ぎた差別相によって心が病になった人間への妙薬なのである。何かを望んで得られない苦しみ、愛した者と別れる苦しみ、老病の苦しみ、などなど、我々の生活は様々な苦しみに満ちている。しかし、何かを望み、嫌う、その間に、本当に苦しむだけの価値の差があるのだろうか。価値の差はあるにしても、それはそれほど大げさに悩むほどのものではないと考えていいのではないだろうか。我々は、この世の何も、執着するほどのものではないと悟った上で、日常の愛欲の世界に戻ればいいだけのことだ。芭蕉の、「風雅に遊び、俗に帰る」という境地である。


禅宗の見地からは、仏教的な「五戒」は無意味である。なぜなら、どのような手段であろうが、自分自身を生きる主体として確立すれば良いのであり、「五戒」はその手段の一つにすぎないからである。五戒に囚われれば、それは業の原因となるし、逆に言えば、五戒を破っても成仏を遂げることもありうる。上田秋成の『春雨物語』の中の「燓噲」は、多くの人を殺した極悪人だが、主体的に生きているという点では見事な生き方をした男でもある。だからこそ、発心した後には高僧にもなったのである。「悪に強い者は善にも強い」とも言う。


 禅とはこのように、破壊的な仏教であり、原始の仏教と同じ仏教とも思われないほどだが、しかし、もともと仏教が現世の苦をいかにして離れるかという思索から生まれたものであるならば、やはり本質は同じであるとも言える。


 禅では、座禅をしたから、瞑想をしたから悟れるなどという考え方はしない。するべきではない。日常生活そのものの中から、悟りを得ればいいのである。そういう意味では、禅僧の中でも、座禅の意味や目的を見失って、形式的な行に堕している人間も多いのではないかと思われる。仏教が、四苦八苦の娑婆苦を免れる道なら、あらゆる苦を苦と思わなくなれば、それは悟ったのであり、仏となったのである。


場合によっては、悟りによって、現世的なモラルから完全に切り離された「超モラル」の所有者となり、稀代の犯罪者となることだってありうる。なぜならば、あらゆる差別相を離れた人間にとって、たとえば人間の生命と一本の花の生命は等価かもしれないからである。そしてそれもやはり悟りなのだ。つまり、他人に利益を与えるか、害を与えるかというのは社会の尺度でしかない。禅ではあくまで自分が主人公なのだ。不動の心でもって大量殺人をした人間の方が、自己欺瞞の不満足な生涯を送った善人よりも「いい生き方」かもしれないのである。何とかいう和尚が、弟子たちに、自分の問いに見事な答えが出せなければ目の前の猫を斬り殺すぞ、と脅し、誰も答えられなかったためにその猫を殺した。殺生を嫌う仏教徒にあるまじき行為であるが、猫どころか、悟るためなら人間だって殺しかねないのが禅の行き方である。何年も座禅して足が腐ろうが、自分で自分の片腕を切り落とそうが、「よりよい生」のためなら惜しくはない、ということである。もっとも、すべてを頭で理解し、それで十分に満足できる私から見れば、無駄な頑張りにしか見えないが。


「差別相を離れる」をよりルーズに言えば、「どうでもいい」だ。生きようが死のうが、誉められようがけなされようが、どうでもいい。白隠和尚が、自分が関係したわけでもない娘の相手だと思われて、その娘の生んだ子供を押しつけられても、はいはいと受け取って、平気で育てたというのも、つまりは、「どちらでもいい」からである。偉大なる悟りは、単なる面倒くさがりと区別はつかない。世間では、善行を行えば立派だと言い、悪行を行えば非難される。善悪にとらわれない人間がいたら、はたして現代の人間はどう判断するだろうか。おそらくただの異常者か犯罪者ということになるだろう。だから、結局、「禅は分からない」となるのである。


ついでながら、禅宗の対極にあるのが「絶対他力」の浄土真宗かとも思われるが、実は、他者に絶対的に帰依することで心の平安が得られるなら、それもまた悟りだと言える。皮肉な言い方をすれば、もともと存在するはずもない(外部の)神仏を信じるならば、存在しないものは動かせないが為に、かえってその安心立命は強固そのものである可能性が高いのである。これは人によっては自分で自分を信じる以上に簡単な道だろう。伝統的な神仏に限らず、現代の新興宗教の教祖を信じるにしても、外部の人間から見れば一生をふいにするような生き方ではあるが、「主観的な」幸福は得られることもあるのである。ただし、他人まかせの人生が嫌いなら、自己決定と自己責任の道である禅的な生き方を選ぶほうがいいのではないだろうか。






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