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東海アマ氏の「カルマ思想」

「東海アマ」ブログ記事の抜粋で、私の目からは思想的に支離滅裂に見えるが、自分自身の人生を正直に語っているところはいい。だが、それを「カルマ」という言葉で片づけているのは私には気に入らない。その「カルマ」が、「自業自得」にとどまらず、自分の前世やそのはるか昔の人生の影響だとするなら、いったい東海アマ氏は前世や前々世でどんな悪行を積んできたのかwww
で、今の世で悪行を積み重ねている上級国民は今の人生でどんな善行をし、その前世や前々世でどんな凄い善行をしてきたのか。馬鹿を言うのもほどほどにしろ、と言いたくなる。

自業自得とは、勉強をして学力をつければ、いい大学に入れ、いい企業に就職でき、裕福な後半生を送れる、という程度のものだ。あるいは、自分を肉体的に鍛え上げれば、スポーツの世界で成功できる可能性が高い、という程度のものだ。そんなのは「善行」とは何の関係もない。品性下劣な成功した商売人や芸能人やスポーツ選手は無数にいる。
東海アマ氏の今の生活は、若いころから氏が選んできた人生の生き方の結果であり、まさに自業自得ではあるが、それは先祖代々(と言うより輪廻的継続性のある幾つもの前世)の悪行の結果ではあるまい。実に情けない、「責任転嫁」思想である。しかも、氏が自分の若いころにした「悪行」が、現在の貧困生活とどう関係しているというのか。悪の限りを尽くして、裕福で幸福な一生を送った悪党は無数にいる。氏が批判し続けてきた原子力村の住人もその一種だろう。
(ただし、私は悪党などの物質的裕福さを「幸福」だとは思わない。それは道徳的退廃による精神毀損を代償としているからだ。人間の本当の生活は脳の中、思考と精神の中にこそある、というのが私の思想だ。他者に為した悪行は、その悪人の精神を毀損しているのだ。ただし、殺人だから悪行というような単純な考えでもない。殺人も、暴君暗殺などのように、時には道徳的行為だが、ただし、それが誤った情報による愚行の場合もある。)
氏が社会の悪(特に原子力村)と戦ってきたことを、私は非常に高く評価し、尊敬しているだけに、氏のこのような情けない発言を私はあえて批判するのである。
東海アマ氏は、勝海舟流に言えば「気が飢えている」、つまり気力が沮喪しているのだろう。まあ、国会議員や大臣、原発企業役員とまでは言わないが、せめて、あの悪質な隣人老人を〇してみたらどうか。  もっとも、返り討ちに遭う可能性のほうが高そうだwww その計画を考えるだけでも、楽しいと思うが。今こそ氏は失うものの無い「無敵の人」ではないか。世の中の害虫的存在をひとつ消すだけでも立派な社会貢献である。

(以下引用)

 「カルマ」とは、自分が行った行動・態度は自分に帰ってくるという意味である。一般的に、「カルマ」という言葉は悪い行いのみが影響を及ぼすという意味にとらえがちだが、実は善悪を問わないニュートラルな言葉である。
 さらに、「カルマ」は現在進行形で、常にそれぞれの人に積み上げられているものだ。つまり、善行を重ねれば明るく良い結果が生まれ、悪事を繰り返せば同様の壊滅的結果が生じるという意味がある。

 ちなみに、「カルマ」は必ずしも人の行動・態度から生じるのではなく、思考や欲望、性癖も関係している。それは、行動の根幹は精神と直結し、心の内は行動に現れるためだ。

 「カルマ」は、スピリチュアルの世界、いわゆる魂の世界を解釈する際にも使われる。スピリチュアルの世界でのカルマは、自分自身の行動・態度・思考が自分に帰って来るだけではなく、前世の悪事・善行も今世に影響を与えるという考えだ。
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 一部引用以上

 なんでカルマを引用しているかというと、私のように世間的な富や名誉の人生から落ちこぼれた貧乏老人は、自分自身の人生を振り返って、若い頃なした悪行が、今の自分に反映している現実を非常にリアルに理解できるのだ。
 毎日考えることは、「ああ、あのとき、あんな悪いことをしたから、今の自分の苦しみがあるのだ……」という因果応報の経路ばかりなのだ。

 これが、名誉や財産や地位や、たくさんの家族に恵まれている人には、なかなか理解できないだろう。また、自分の人生の汚点を、他人を見下すことによって覆い隠そうとしている人にも理解できないだろう。
 これは、誰からも見放された、何も守るもののない落ちこぼれ老人の特権なのである。
 だから、私は、どんなカルマが、自分の人生を演出してきたのか、普通の人よりも、はっきり理解できていると思っている。
 そしてカルマについて、考えることも多く、その深い真実に気づかされるのである。

 もう人生の出口、終着駅がはっきりと見え始めている私にとって、他人に対して優しくできなかった偏狭な自尊心が、どれだけ私の人生を窮屈で悲惨なものにしてきたのか後悔しかない。
 もっと他人の笑顔のために生きれば良かった……利他主義に生きれば良かった……そうしていれば、温かい思い出に浸りながら次の人生に迎えただろうと、後悔しながら物質的肉体の終焉を待つばかりだ。

 まあ、70年も生きていると、あらゆる物質的な満足が虚構にすぎないことを思い知らされる。高級車も豪邸も美人妻もイケメン夫も、他人を見下す地位も、貯め込んだ財産も、まるで過ぎ去る雲のように不確実で、一瞬の夢幻にすぎない。自分にとって何の価値もない。
 秀吉が死ぬ間際に「浪速のことは夢のまた夢」と辞世を述べたのと同じだ。

 そんな物質的虚構なんかより、人生で接点のあった他人との関わりで、相手のひとときの笑顔が心を癒やしてくれたことこそが、人生でもっとも価値の高い実存であり、果実なのだと思えるようになる。
 財産という物質的虚構と、「他人に親切にできた」という精神的果実(自己満足)の比較評価ができるようになる。それが70年という人生体験である。
 
 ただし、財産や地位に執着のある人には無理だ。真実を見抜くことができる資格は、守るべき価値への執着のない人生である。それは、人生の本当の喜びは、他人の小さな笑顔を見て刹那の満足を得ることでしかないと知ることだ。

 人生とは何か? 釈迦は「無記」としたが、何の物質的価値も持たない貧乏老人にとっては、真実を知るための虚構のプロセスであり、真実のように思い込まされている茶番劇であることが、はっきりと理解できる。
 我々の肉体、我々の人生は、生まれる前から定まっている。それを定める正体は「前世のカルマ」である。

 人はカルマのために肉体を持ち、カルマを解消するための人生経験を重ねる。その人生で克服できなかったカルマは、さらに次の人生に持ち込まれる。
 こうして、数百、数千の輪廻転生を繰り返しながら、少しずつカルマの少ない人生に向かってゆく。完全にカルマから脱却できれば、それは双六の上がりのようなもので、もう物質的肉体を得る必要もなくなる。
 これがヘーゲルの指摘した「イデー=絶対精神」である。

 こう考えれば、カルマの全体像が朧気に見えてくる。我々の物質的人生は、カルマのための茶番劇なのだ。
 だから、突然人生の終焉を突きつけられても、心配する必要はない。すぐに次の肉体が待ち構えて、その人生で克服できなかったカルマの課題に向き合う人生が始まるからだ。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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